遍照院を出て、角を左に曲がり、ゆるい坂を上がると左手に天城高校が見えてきます。
天城高校南門の脇の坂を上がります。
お墓が見えてきました。
天城池田家のお墓が並んでいます。
この丘、通称、お櫻山というらしい。
「【天城池田家墓所】天城のお櫻山という小高い丘に、天城池田家の墓が並ぶ。慶長14年(1609年)に下津井城を預かった池田由を初代に数えると、昭和元年の年末に没した政佑まで12代となる。代々岡山に居住し、分家各で厚遇され、本藩の施政を助けた。明治以降は男爵に列した。」(くらしきまち歩きさと歩きマップより)
天城高校東門を過ぎて、右側に天城高校サブグラウンドに上がる坂道があります。
坂道を上がります。
少し上がるとすぐにグラウンドのネット見えてきます。
その右手前に天城陣屋跡(お茶屋跡)と石碑があります。
初代池田由之は、児島郡で3万2千石と下津井城を領しますがが、寛永16年(1639年)の一国一城令によって廃城となったため、当時城主であった2代由成により天城陣屋を築いたそうです。天城陣屋は江戸幕府をはばかり、「お茶屋」と称されたそうです。
「【お茶屋跡(天城陣屋跡)】幕府を憚りお茶屋と称したが、実質は陣屋であり、支藩の格式を持っていた。初代由之が児島郡で3万2千石と下津井城を預かるが、寛永16年(1639年)下津井城破却ご、天城で政庁を開き、家臣を居住させた。その意味で天城は城下町でもあった。」(くらしきまち歩きさと歩きマップより)
天城高校のHPによると、このグラウンドは野球部専用に使われており、お茶屋グラウンドと呼ばれているようです。