「笑と芸人と登志緒」その64 | 福盛貴弘の脳炎日記

福盛貴弘の脳炎日記

日常生活で起きたことを素朴に書き記しています。
まずは、予告編2編をご覧ください。

曾我廼家五郎劇に対する香川氏の評。

説教臭さが強いと。

 

劇中の人物が素顔の曾我廼家五郎というよりはさらには本名の和田久一に戻って、客に人生哲学を説いていると。

 

このモラルの古さが、当時の若い世代がついていけなかった要因としている。これが欠点。

 

一方で、追出狂言のマゲモノは俄仕立てで、徹底的にナンセンスで、年齢、性別を超越して笑わせたとある。

 

藤山寛美の当たり役「鼻の六兵衛」(原題「知行取」)や「銀地の末広」「仇討ち茅の浦浪」は評価しているようである。

 

この説教臭さに対抗してできたのが、昭和3(1928)年9月に誕生した、松竹新喜劇の前身となる松竹家庭劇であるとしている。

 

リーダーは曾我廼家十吾と渋谷一雄(二代目渋谷天外)。

女形を使わず、石河薫東愛子浪花千栄子など女優を活用したとのこと。

 

座頭の役者が上演脚本を執筆する習慣は、曾我廼家劇をならって踏襲されていたようである。

 

十吾が茂林寺文福、天外が館直志というペンネームで新作を執筆したと。1970年代には、このころの作品の一部が再三上演されていたと。

 

十吾のイメージは、歌舞伎の11代目片岡仁左衛門。

天外はとぼけた感じで、若い時の立役や二枚目がよかったと。

 

2人のコンビでの頂点は「丘の一本杉」とのこと。天外の1人芝居「桂春団治」は、森繁久彌には真似できない洒脱さがあったと評している。

 

 

『大阪の笑芸人』pp.207-209
(文中敬称略)

 

 

その65につづく。