千葉の義民「佐倉惣五郎」の話 | 笑う門には福来るのブログ

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【命を懸けて農民を守った名主】

 佐倉惣五郎は、下総国佐倉藩公津村(現成田市)の名主を務め、更に佐倉藩389ヶ村の名主総代・割元名主だった。

 

 正保元年(1644)から続いた大飢饉では、多くの農民が苦しみ、租税や年貢米の滞納が続出する。惣五郎は、私財を投げ打って救助米を施し、藩主堀田正盛から賞賛されて苗字帯刀を許されたという。

 

 正盛の子の本田正信は、増税を続け過酷な年貢の取り立てを行う。承応元年(1652)秋に台風が襲い、沼の洪水も加わり農作物は全滅する。農民の中には一家離散や餓死するものも出る。

 

 そこで名主たちは、声を合わせ年貢減額を藩に申し出るが、相手にしてくれない。しかたなく、江戸へ出て嘆願書を佐倉藩上屋敷に差し出すが、門前払いとなる。

 

 かくなる上は、当時評判の老中久世広之に駕籠訴に及ぼうとなり、江戸城登城中に訴え出て、訴状を渡した。しかし後日呼ばれた屋敷の玄関先で差し戻されてしまう。

 

【最後の手段で将軍に直訴】

 万策尽きてこのまま国に帰っても処罰が待っているし「この上は将軍に直訴するしかない」となる。直訴は死罪であり、惣五郎は「自分一人で直訴する」と皆に打ち明ける。

 

 そして密かに家に戻り、妻を離縁し、子ども4人は勘当して江戸に戻る。家光の墓参に4代家綱一行が上野寛永寺に参拝するという報を得て、寛永寺の橋下に忍んで、直訴を決行する。

 

 直訴状は側近の保科正之の手に納められた。そして佐倉藩主堀田正信へ下知される。

 

 幕府からの指導により、農民はその後3年間農税が免除され、更に諸税が軽減された。

 

 しかし堀田正信は直訴に激怒。惣五郎(42)は、4人の子と共に承応2年(1653)8月3日、公津ヶ原刑場で処刑される。妻は一緒に処刑されたとも長生きしたともいわれ定かではない。

 

 刑場跡には宗吾塚が築かれ、父子の墓と共に宗吾霊堂が建立された。

 

【堀田家のその後】

 後に堀田正信は、幕政を批判して幕府の許可なく佐倉に帰城したので改易となる。最後には遠流先の徳島で自死してしまう。

 

 正信の弟の正俊は、徳川5代の相続争いに功があり大老にまで上り詰めるが、江戸城内で刺殺されてしまう。正俊の子正仲は、山形・福島に転封となり不遇の生活を送る。惣五郎の呪いとの声があがる。

 

 延亨3年(1746)、堀田正亮は山形から佐倉藩主に返り咲く。宝歴2年(1752)、惣五郎の百回忌に、正亮は亡き惣五郎に法号を送り百回忌を手厚く弔った。

 

 惣五郎は公に認められた義民として崇められるとともに、信仰の対象になっていく。

 

【そして宗吾霊堂】

 成田市の京成線宗吾参道駅から徒歩10分の地に東勝寺・宗吾霊堂がある。私もお正月にこの地を参拝したことがある。

    

 惣五郎に対する農民の崇拝は篤く、父子の墓には線香の煙の絶えることはないという。

 

 江戸時代から歌舞伎や浪曲などにも演じられ、広く知られた義人。幕末動乱にも惣五郎は大きな影響を与え、福澤諭吉の「学問のすすめ」にも登場し、天皇直訴の田中正造にも影響を与えたようだ。