首里城 石造を求めて№103 沖縄県那覇市首里当蔵町
首里城(グスク)は那覇の東、標高120~136mの琉球石灰岩の丘陵地に立地し、東西410m、南北273m、面積は約47,000㎡で県内で最大規模のグスクで、風水思想にも優れた地と言われています。
創建した年代は不明とされていますが、14世紀ころ察度により、高楼を建築し、15世紀初頭に琉球を統一した尚巴志(第一尚氏王統)によって拡張・整備したのが定説となっている。その後、第二尚氏王統に引き継がれ、城壁が二重になり、城門を造り大都の体裁を整えた。首里城は約450年の間、何代にもわたる琉球王国の国王の居城となり、また政治、外交文化の中心的拠点であった。
外郭(北西側城壁) 外郭(北側城壁)
外郭(南側城壁) 外郭(西側城壁)
外郭(北東城壁) 内郭から久慶門側の眺め
首里城(グスク)は地形を巧みに利用し曲線状(平面アーチ形)に石を積み上げ、出隅、入隅部を丸く納めている。これは隅角部に集中する応力を小さくする工夫とも言われ、他の琉球のグスクも共通する手法である。
石垣は野面積み、布積み、あいかた積みが用いられ、城壁は厚さ約4m~7mで、高さは約6m~15mあり、本土の城のように反りはなく、直線で勾配も急である。
城郭は「外郭」と「内郭」の二重の石垣で囲まれ「外郭」には歓会門(正門)、久慶門(通用門)、継世門(王家一族用)、木曳門(城修復時の材料搬入口で普段は石で閉鎖)の四つの石造アーチ門(三芯円弧)があり、木曳門以外のアーチ上には入母屋造りの木造櫓が載っている。石造アーチの城門は琉球グスク独特なもので日本本土の城郭建築では見ることができない工法である。これらは第二尚氏時代に構築されたものである。
歓会門 久慶門
継世門 木曳門
「内郭」には瑞泉門、漏刻門、広福門、奉神門、左掖門、右掖門、淑順門、美福門、白銀門の九つの門がある。これらの内、広福門と奉神門、は木造入母屋造り門で、左掖門は黄金御殿と奥書院の通路にある木造の門である。白銀門(国王専用)はアーチ付き石造入母屋形式の屋根となっている。他の瑞泉門、漏刻門、右掖門、淑順門、美福門の五つは石造アーチを設けず直接石垣の上に木造入母屋造りの櫓を載せる櫓門となっている。これらは第一尚氏時代に構築されたものである。
瑞泉門 漏刻門
広福門 奉神門
右掖門 淑順門
美福門 白銀門
内郭の東側一帯(正殿裏)は「御内原」と呼ばれ、国王や王族らが生活する私的空間として使われた。その東の一番高くなった所は物見である「東のアザナ」となっている。また、正殿の南西側には「京の内」があり城内の御嶽(ウタキ)となっており、西の城壁には物見の「西のアザナ」が築かれている。
御内原(世誇殿からの眺め) 東のアザナの城壁
「正殿」は石造基壇の上に建てられ、桁行十一間、梁間七間(幅28.8m、奥行17.15m、高さ16.7m)の木造入母屋造本瓦葺きで、正面中央部を張り出して向拝(玄関)にし、4本の向拝柱が建ち唐破風の屋根を架けている。末広がりの石階段(9段)には登り高欄が取り付き、前面には一対の大龍柱が基壇の上に建っている。
構造形式は礎石の上に丸柱(349㎜、101本)を建て高床式とし、柱間に貫を通して締め固める「貫構法」貫木屋(ヌチギャー)形式となっている。この工法の特徴は柱と貫の組み合わせ部分に蟻ほぞを設けてクサビで上下に締め付け、軸部を固めていて耐風的構造となっている。この蟻かけ技法は本土にはない琉球独特のものである。小屋は和小屋を用い、軒は上層のみ隅扇垂木となっていて、壁は竪板張り目板押さえ、開口部上には霧除け(雨除け)を設けている。
首里城正殿 (琉球建築 田辺泰より)
「御庭(ウナー)」は正殿、北殿、南殿・番所、奉神門の建物で囲まれた広場で、レンガタイルで舗装されており、式典や儀式が行われた重要な空間であった。御庭は東西約42m、南北44mのいびつな台形となっており、正殿と奉神門を結ぶ「浮道」は直交せず斜めになり、中軸線がずれている。これは風水思想によって正殿の向きが南から西向けに変形したためと言われている。御庭(広場)を核とし、複合建築物で囲う空間構成は中国の四合院(紫禁城)と共通性がみられる。
「北殿」は御庭(ウナー)の北側に位置し、創建は1508年といわれ、1709年に焼失したが1712年頃には再建されている。王府の行政施設としての役割と中国の冊封史を歓待する場所であった。建物は桁行十一間、梁間四間、木造入母屋本瓦葺きで石造基壇の上に建ち、正面中央を張り出して玄関とし、基壇前には石階段を設けている。柱は丸柱で柱頭上部の組物は用いられていない。
北殿(琉球建築 田辺泰より)
「南殿」は御庭(ウナー)の南側に位置し、創建は1621~27年頃とされ、薩摩藩接待所として建てられ、1709年に焼失し、1712年頃に再建されたと推測されています。石造基壇の上に建ち、桁行九間、梁間八間、構造入母屋本瓦葺き、御庭に面する一階は雨端(アマハジ)で、二階は縁側となっている。柱は角柱で床は畳敷、壁は漆喰塗、天井は棹縁天井で純和風の建物であったといわれている。
南殿・番所 (琉球建築 田辺泰より)
「番所」は南殿の西側に位置し、南殿と廊下で結ばれていた。創建は不明で、1709年に焼失し、1712年頃に南殿と共に再建された。戦前の行政施設の表玄関として位置づけられ、登城してきた人々の取次所であった。南殿と連続した石基壇の上に建ち桁行七間、梁間六間、木造入母屋本瓦葺き。北側正面(ウナー側)に設置された玄関は、雨端空間となり、基壇正面、側面には幅広の石階段が設けられている。
「奉神門」は御庭(ウナー)の西側にあり、創建は1562年以前と言われている。1709年に焼失するが1712年には再建されている。また1754年には中央に大きな門、左右に小さい門を配し中国様式の楼門に改修されている。正面(西側)基壇には各門幅に合わせて石階段があり、中央の石階段には登り高欄が付いている。三門の内、中央は国王や中国からの使者など身分の高い人が通る門、それ以外の役人は両側から出入りしたと言われています。平成に復元された奉神門は建築形態、規模など資料が乏しく古図や写真などから想定した寸法だと言われ、それによると桁行二十、梁間四間(幅約49m、奥行約7m)木造入母屋本瓦葺き、一部二階建てとなっていて、柱は角柱を使用していた。
かつての首里城は1923年(大正12年)老朽化が進んだため、首里市によって取り壊されかけたが、鎌倉芳太郎や伊東忠太の尽力によって解体を免れ、1925年(大正14年)に国宝に指定された。その後1928年から解体修理が始まり、坂谷良之進、柳田菊蔵の功績により1933年に完了している
沖縄戦時(1945年)、首里城地下に大規模な壕が掘られ第32軍司令部の陣地が置かれた。米軍は当初、首里周辺の攻撃を差し控えていたが、日本軍の激しい抵抗にあい、止むを得ず猛烈な攻撃をしたという。木造建築物は焼失し、城壁も破壊された。当時、首里城周辺だけでも15件の国宝があり、沖縄全体では23件の国宝があった。奈良や京都に次いで多かったと言われています。
余談だが米軍は京都や奈良の文化遺産を攻撃目標から外したらしい。地下陣地壕がなければ首里城は戦災を免れたであろう。
首里城は闘争拠点でない「平和の城」と戦争に巻き込まれた「戦の城」の対照的で特異な城(グスク)である。
平成(1992年)に復元された首里城正殿は戦前国宝に指定されていたため、建築基準法の適用が除外されて、完全木造復元が出来た。しかし北殿、南殿・番所、奉神門などは内部主要構造部をコンクリート造り、外部(外装)を木造とする仕上げとなっていた。これは建築基準法の適用と、資料がほとんどなく、内部構造が分からないという事情からだといわれていた。
平成の復元から30年余りたち、時代は変わった。今日、国は「脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律」が施行され、公共建築物から住宅まで木材利用をすすめている。そして技術も進み、木材を難燃加工して燃えない木が開発されている。
消防法との兼ね合い、資料不足など、乗り越えるべきハードルは高いが、外観のみ再現するのではなく、祖先たちが残してくれた、同じ手法と技術、同じ材料を使用して再建し、後世に誇れるようなものでありたい。「木に竹を継ぐような」首里城は見たくない。
2019年(令和元年)10月31日の火災では7棟が全焼し、奉神門、女官居室の2棟も一部延焼した。収蔵品も約400点が失われたたと言われている。火元は正殿1階北東とほぼ断定したが、出火原因は結局特定できなかった。
再建に対して、大龍柱の向き論争、地下壕の保存公開を求める声が強まっているけど、北殿、南殿などの構造はどうするのかという議論は聞こえてこない。北殿、南殿は正殿再建後、2026年以降に工事が始まる予定になっている。
沖縄県は首里城を核に琉球王国の文化・歴史空間(首里杜構想)による「復興」基本方針を策定している。この機会に私たちは首里城の華やかさだけでなく、背景にある隠れた歴史も学び直さなければならない。そしてハード面だけでなくソフト面にも目を向けなければならない。
火災後公開されていた地下遺構 火災後の現地説明板
首里城は今回を含めて5回焼失しているが、地下保存の基壇(遺構)は5列に見えるが7基あるとの指摘がある。すなわち正殿は7回建て替えられたことになる?
「七転び転でぃ ひゃみかち起きり 此ぬ沖縄 世界に知らさ」(ヒヤミカチ節)
参考文献 ・琉球建築 田辺泰 座右宝刊行会 ・写真集首里城 那覇出版社 ・首里城 沖縄県建築士会
























