プロ野球80年史 vol.28【1970年】 | ユウキのまにまに。~ツバメと艦これ、たまーに探検~

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話題はプロ野球中心。東京ヤクルトを中心に、自分なりの視点で切り込んでいく、つもり。
テキトーに書いてるので、更新頻度はかなりまちまち。

現在「プロ野球80年史」をつらつらと執筆中です。

・セ・リーグ
「V9」6年目…巨人に忍び寄る衰えの影


「カミソリシュート」を武器に通算201勝を挙げた平松政次

この年も巨人は首位をキープ。しかしタイトルは王貞治が打率.325、47本塁打で二冠に輝き、長嶋茂雄が105打点で打点王を獲得したのみで、投手では渡辺秀武が23勝を挙げたもののタイトルに輝いた選手はなし。盗塁がお家芸だった柴田勲はこの年22盗塁で、タイトルはヤクルトの東条文博(28個)に許している。
ライバルの阪神は江夏豊・田淵幸一のバッテリーに藤田平ら人気と実力を兼ね備えた選手を多数控え、巨人と覇権を競ったが結局は優勝に手が届かなかった。





・パ・リーグ
ロッテが10年ぶりの優勝!観客がオーナーを胴上げする一幕も


1970年のパ・リーグMVP,木樽正明

前年、チーム名を「ロッテオリオンズ」に変えたロッテはこの年、木樽正明・成田文男・小山正明の先発3本柱で62勝をマーク。
打線も有藤通世、ジョージ・アルトマン、アルト・ロペスのクリーンアップが活躍を見せ、脇を榎本喜八、江藤愼一、山崎裕之らが固める豪華な布陣。終わってみれば2位の南海に10.5ゲーム差をつけて3回目の優勝を果たす。
優勝が決まった直後、グラウンドになだれ込んだ客は真っ先にオーナーであった永田雅一を胴上げする一幕もあった(1970年の時点でオリオンズはまだ大映毎日球団の保有。ロッテはいわゆるネーミングライツを取得しただけの状態であるためオーナーは変わっていない)。





・日本シリーズ
東京シリーズ、ホームランが飛び交う空中戦は巨人に軍配


V9巨人の名脇役、末次利光

1970年当時のロッテの本拠地であった東京球場は早くからナイター設備が用いられ「光の球場」と呼ばれた一方、両翼90メートルという現在では考えられない狭さに加えセンター方向にいびつに伸びたその形状から「本塁打量産球場」とも揶揄された。

その東京球場で唯一行われた1970年の日本シリーズ。第1戦(後楽園)は巨人・堀内恒夫、ロッテ・木樽正明の両エースの投げ合いの末黒江透修がサヨナラ本塁打で巨人が先手を取った。
2戦目も投手リレーで巨人が制し、東京球場に舞台を移した3戦目も長嶋の2本のホームランで一気に王手をかける。
続く第4戦は両チーム合わせて5本の本塁打が飛び出したがロッテが逆転勝利で一矢報いる。しかし第5戦、巨人は終盤に4点を集中させ逆転勝利。ロッテは1950年以来となる日本一を逃し、巨人がシリーズ6連覇となった。





・アラカルト
田淵への頭部死球で定着した「耳付き」ヘルメット


1979年、フェイスマスクをつけた特殊なヘルメットでプレーするチャーリー・マニエル

もともと野球では打者でもヘルメットを着用せず、普通の帽子をかぶったまま打席に入っていた。ちなみに、すでに1905年にはアメリカで野球用のヘルメットは開発されていたようだが、当初は革製で重く、かぶり心地が悪いといった理由でなかなか普及しなかった。
しかしヘルメットにも改良の手が次々と加えられ、やがてプラスチックの普及でより軽く、より安全性が増していくと次第にルールで着用が義務付けられ、今日に至っている。

現在は耳を覆うフラップ付きのヘルメットの着用を義務付けられているが、日本でそれの契機となったのはこの年のひとつのデッドボールからである。
1970年8月26日の広島対阪神戦、打席に立った田淵幸一は外木場義郎から左こめかみ直撃のデッドボールを受ける。田淵の耳は流血し、昏睡してしまうほどだった。田淵はこの後、プロ入り当時むしろ痩せていた体型がこの出来事を機に急に太りだしてしまった(なお、デッドボールと体質の変化に直接的な因果関係があったかは不明)。

その後、1984年に耳当て付きヘルメットの着用が義務化。いくつかの例外事項があり、最後の耳当て無しヘルメットを着用していたのは愛甲猛(2000年引退)である。
なお現在の野球規則ではヘルメットの計上について、耳当て以外に特に規定はない。上記のマニエルのほかに、秋山幸二、フリオ・ズレータが特殊な形状のヘルメットを使用していた。