プロ野球80年史 番外編vol.5 【パ・リーグを存亡の危機に陥れた「黒い霧事件」の影響と余波】 | ユウキのまにまに。~ツバメと艦これ、たまーに探検~

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話題はプロ野球中心。東京ヤクルトを中心に、自分なりの視点で切り込んでいく、つもり。
テキトーに書いてるので、更新頻度はかなりまちまち。

現在「プロ野球80年史」をつらつらと執筆中です。


「下町のエース」成田文男


「ライフルマン」船田和英


「史上最速の投手」とも称される森安敏明





プロ野球の80年の歴史の中で、幾度かプロ野球を危機に陥れた事件がある。
その中でも最大は、1940年代の太平洋戦争による中断。さらに、近年では大阪近鉄とオリックスの合併騒動から発展した2004年の球界再編も含まれるだろう。
その事件の中でも、戦争による中断の次に重大だった事件を挙げるとするならば、これから紹介する「黒い霧事件」だろう。
上記、写真付きで挙げた3人の選手はいずれもレギュラー級の選手だったが、黒い霧事件、またはその他の不祥事に関わりを持ち、森安に至っては永久追放まで受けている。



事の発端は1969年。報知新聞の西鉄ライオンズ担当記者が、当時ライオンズに所属していたカール・ボレスから「チームメイトにわざと失策する選手がいる」と言う話を聞いたからだ。
報知は八百長の疑惑を抱き、読売新聞と組んで調査を開始。
その結果、ボレスと同じく西鉄に所属している永易将之に八百長をやっていたという事実が発覚。西鉄は永易の解雇を決定し、翌日にはそれが大々的に報じられる。

もともと永易は東映でプロ野球人生をスタートさせ、1965年には2ケタ勝利を挙げるなど活躍していた投手である。ところが、彼に支払われるはずだった契約金800万円のうち、いつまで経っても残りの400万円をいつまでたっても受取れていなかったのである。そこへ税務署から800万円分の課税が来、永易は球団に契約金不払いを訴えるが話をうやむやにされてしまう。ここから永易の人生は暗転する。
この頃から彼の周囲には暴力団の影が見え隠れし始める。実は東映時代、先輩投手の嵯峨健四郎から八百長の誘いを受けていたのである。1966年ごろから永易は八百長をはじめ、練習をさぼる日も多く次第に東映首脳陣から疎んじられていく。1968年オフにはついに東映を自由契約となるが、中西太があろうことか西鉄へ迎えてしまう。
西鉄に移籍する頃にはすでに暴力団にどっぷりはまっていた永易は、年俸150万にも関わらず豪遊を繰り返し、あげくチームメイトにまで八百長に誘っていたのである。
球団が永易の八百長を確信し、夏ごろには二軍に降格。そして1969年の解雇につながる。



報道直後、永易は失踪。1か月後にはプロ野球史上初となる永久追放処分に処された。
その後永易は西鉄球団を脅迫し550万円を脅し取る。この事態を憂慮した当時の稲尾和久監督が永易との絶縁を進言すると、永易は1970年4月、およそ半年ぶりに公の場に立ってマスコミにとんでもない暴露を行ってしまう。
その内容は、西鉄の選手に八百長試合を依頼したこと、さらに東映の2連取にも自ら八百長を依頼したこと。その中には、東映でエースを張っていた森安、さらに西鉄の若きエース池永正明も含まれていた。

さらに同じ年にはオートレース八百長事件も発覚。ここでは元西鉄の選手が一人、元大洋の選手が一人が逮捕。その半月後には中日のエース小川健太郎が、さらにその3日後には東映の田中調、そして森安の名が挙げられた。
関係者はさらに芋づる式に挙げられる。5月14日には近鉄の球団職員が八百長行為を強要されたことを報道され、19日には阪神の葛城隆雄がオートレース八百長容疑で逮捕。



そして、NPBのコミッショナー委員会は一連の八百長事件、オートレース八百長事件に関与した選手に処分を下す。
1970年から翌年にかけて起きた一連の不祥事事件を含めると以下の通りになる。
(※のついた選手はオートレース八百長関与者)

・永久追放処分
永易将之、池永正明、与田順欣、益田昭雄(以上西鉄)、※小川健太郎(中日)、森安敏明(東映)

・1年間の野球活動禁止
村上公康、船田和英(ともに西鉄)

・3か月の期限付き失格選手
※葛城隆雄(阪神)、※桑田武(ヤクルト)

・1か月の謹慎処分・出場停止
成田文男(ロッテ)、土井正博(近鉄)、藤田元司(巨人コーチ)

・無期限出場停止
坂井勝二(大洋)、鈴木隆(大洋コーチ)、加藤俊夫(ヤクルト)

・戒告処分、厳重戒告処分、厳重注意処分
江夏豊(阪神)、三浦清弘(南海)、田中調(東映)、基満男(西鉄)

・事実上の永久追放処分
※高山勲(大洋)、※田中勉(中日)、※佐藤公博(南海)





決して小さくない被害を出した黒い霧事件。
この内、永久追放者を出した西鉄と中日は戦力が大幅に低下。特に西鉄は1970年から3年連続最下位、1973年には西鉄が球団を売却して太平洋クラブライオンズとなり、同時にパ・リーグの人気も低下。これ以降、パ・リーグは辛酸をなめ続ける日々を送ることになる。

西鉄は、東尾修が1969年に入団。東尾は当初二軍でも負け続け、野手転向を申し出ていたが黒い霧事件の影響で一軍投手陣がごっそり抜けたために一軍でのフル回転を余儀なくされ、結果先に200敗を達成してしまう。それでも稲尾の熱心な指導もあって西武ライオンズのエースとなり、通算で251勝をマーク。球史に残る投手に成長した。

事件で永久追放処分を受けた選手のうち、池永はほぼ無実に近く森安も無実だと訴えていた。
森安は1998年にすでに死去したため処分の解除がなされていないが、池永はすでに処分直後から解除を求める運動が起こっていた。一度は処分解除を却下されるが、2005年に長年の努力が実ってようやく解除され、2011年には初めて解説者を務め上げた。