プロ野球80年史 vol.12【1954年】 | ユウキのまにまに。~ツバメと艦これ、たまーに探検~

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話題はプロ野球中心。東京ヤクルトを中心に、自分なりの視点で切り込んでいく、つもり。
テキトーに書いてるので、更新頻度はかなりまちまち。

現在「プロ野球80年史」をつらつらと執筆中です。

・セ・リーグ
親分・天知俊一率いる中日ドラゴンズがついに悲願の初優勝!


「フォークボールの神様」杉下茂

1954年の初頭、名古屋ドラゴンズはチーム名を現在の「中日ドラゴンズ」に改名する。そして監督には、その人望の篤さから「親分」と呼ばれた天知俊一が3年ぶりに復帰した。
その中日は、3連覇中の巨人を下して球団史上初の優勝を決めた。エースの杉下茂が投手タイトルを総なめ、そしてベストナインにMVPも受賞する獅子奮迅の活躍を見せる。他に杉山悟が打点王、その杉山と西沢道夫がベストナインを受賞した。





・パ・リーグ
西鉄が3連覇中の南海を下して初優勝!


「青バット」を握って東映・西鉄で活躍した大下弘

パ・リーグは高橋ユニオンズが新規参入。その後3年間は8球団で運営されることになるが、ユニオンズに関しては後述する。
シーズンでは西鉄と南海が熾烈な優勝争いを繰り広げる。開幕当初は西鉄が11連勝を決めるなど序盤から独走するが、中盤に南海がプロ野球記録となる18連勝を挙げて追いすがる。終盤になってもデッドヒートを繰り広げるが、わずか0.5ゲーム差で勝利の女神が微笑んだのは西鉄だった。「流線型打線」の一角を担う大下や中西太、豊田泰光、関口清治らと西村貞朗ら投手陣ががっちり噛み合って掴んだ栄冠だった。





・日本シリーズ
初顔合わせの対決は「杉下ひとりで勝負」した中日が初の栄冠


中日外野陣の一角として日本一にも貢献した本多逸郎

ともにリーグ初優勝の球団同士となった対戦は、初戦に中日がエース杉下の1失点完投でものにすると、その後は勝ったり負けたりを繰り返しながらも杉下を中心に王手をかけていく。
勝負は6戦目にまでもつれ込んだが、最後も先発して西鉄の前に立ちはだかったのは杉下だった。この時点で疲労困憊だった杉下だが、井上登のタイムリーでもぎ取った虎の子の1点を守り抜いて見事に中日を日本一へ導いたのだった。





・アラカルト
「史上最弱球団」高橋ユニオンズ3年の球団史


1956年に入団し、新人全イニング出場を果たして引退後はキャスターとしても活躍した佐々木信也

1953年、7チームで運営していたパ・リーグは日程の組みづらさに苦しんでいた。7球団ではどうしても、毎日試合がないチームが生まれてしまうのである。
そこで「勝率3割5分を下回ったチームは強制的に解散」と言う罰則規定を設けるが、その年の最下位の近鉄でも勝率は.410だったために罰則を受けたチームはいなかった。そこで、戦前にはイーグルスの経営に参画していた高橋龍太郎に球団を持たせ、「高橋ユニオンズ」として新たにパ・リーグに参加させたのだ。
新生球団であるユニオンズにはパ・リーグ各球団から若手を供出するように約束されていたが、実際に集まったのは酒豪で手の付けられない選手や他球団では使いどころのない選手ばかりであった。「ユニオンズ」の愛称は高橋がかつて経営していた大日本麦酒の「ユニオンビール」から取られていたが、上記のような実態から「寄せ集めのチーム」と揶揄されることになってしまった。
初年度は8球団中6位と奮戦するも、1955年にはトンボ鉛筆と提携して「トンボユニオンズ」と改称。しかしこのトンボユニオンズと言うチーム名はわずか1年でその姿を消し、1956年には元の高橋ユニオンズに戻る。そしてその頃には資金繰りが悪化し、また8球団の煩雑な試合編成に悩まされたパ・リーグの思惑もあって1956年限りで大映スターズと合併。その3年の球団史に幕を下ろした。その合併して「大映ユニオンズ」と名を改めたチームも翌年には毎日オリオンズと合併。高橋ユニオンズは、後継の千葉ロッテマリーンズからすれば「傍系の傍系」に当たる球団になっている。
3年の間に残した戦績は147勝280敗8分け、勝率.344。タイトルを獲得したのは佐々木信也のみ。またヴィクトル・スタルヒンはトンボに在籍して通算300勝を達成し、1955年に引退。現在もスタルヒンの通算記録を紹介されるときには「トンボ」と表記されている。これが、かつてユニオンズがあった3年の歴史をわずかながら伝えるものとなっている。