プロ野球80年史 vol.1【1934年~1936年】 | ユウキのまにまに。~ツバメと艦これ、たまーに探検~

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話題はプロ野球中心。東京ヤクルトを中心に、自分なりの視点で切り込んでいく、つもり。
テキトーに書いてるので、更新頻度はかなりまちまち。

現在「プロ野球80年史」をつらつらと執筆中です。

今年、2014年は「プロ野球」が出来て80年を迎える節目の年です。
(厳密には「現在の」プロ野球。「日本で最初のプロ野球チーム」は1920年に誕生しています)

今回から始める「プロ野球80年史」では、現在のNPBへと繋がる連綿たる歴史を少しでも多く振り返り、紹介します。
中の人の知識不足や文才のなさのせいで、誤った情報を出したり拙い文章を書いてしまったりすることも多々あるかも知れませんが、しばらくお付き合いくださいませ。










・1934年
日本プロ野球の胎動…東京巨人軍の誕生



説明不要の大エース、沢村栄治

1934年当時、日本にはプロ野球チームはなかった。以前には「日本運動協会」「天勝野球団」「宝塚運動協会」とあったが、いずれもその歴史は短かった。
日米野球は日本運動協会創立より前の1908年から始まり、アメリカからは多数のメジャーリーガーが来日していた。
当時は東京六大学をはじめとする大学野球チームが対戦し人気を集めていたが、1932年に当時の文部省が発令した野球統制訓令によって大学野球の選手がメジャーの選手たちと試合をすることができなくなってしまう。
そこで市岡忠男、浅沼誉夫、三宅大輔、鈴木惣太郎の4人が当時の読売新聞社長・正力松太郎に働きかけて「職業野球チーム」を作ることを提案。その結果、1934年6月に「職業野球団発起人会」を発足させ、選手を集めた。これが、現在の読売ジャイアンツの母体となる。
11月には日米野球が開催。この年もメジャーリーガーの力に圧倒されたが、11月20日の静岡・草薙球場で沢村栄治がルー・ゲーリッグ、ベーブ・ルース、ジミー・フォックスらメジャーの強打者相手に1失点完投の好投を見せた。
そして、この全日本軍が12月に「大日本東京野球倶楽部」となって結成され、日本のプロ野球は胎動を迎えることとなる。





・1935年
巨人の永遠のライバル…阪神タイガースの誕生



阪神創設メンバーの一人、松木謙治郎

前年の年の瀬に結成された大日本東京野球倶楽部は、2月からアメリカ遠征に出発。この時に「ジャイアンツ」という愛称を与えられ、試合では109試合を戦い75勝を挙げる活躍を見せた。
ジャイアンツは帰国後、翌1936年に正式に「東京巨人軍」として活動を開始する。
関西では、阪神電気鉄道が当時最大級の規模を誇っていた甲子園球場を本拠地とするプロ野球チームを誕生させることを計画。中等野球(現在の高校野球に相当)のスター選手達を集めて1935年の年の瀬に「大阪野球倶楽部」を発足させた。





・1936年
初のプロ野球開幕!巨人が貫録の初優勝



名古屋軍創設メンバーの一人、バッキー・ハリス

1936年に入り、巨人・阪神(当時は大阪タイガース)以外にもプロ野球チームが次々と誕生。この年に発足したチームをまとめると、
・名古屋軍(現:中日ドラゴンズ)
・東京セネタース(のちに消滅)
・阪急軍(現:オリックス・バファローズ)
・大東京軍(後の松竹ロビンス、横浜DeNAベイスターズの傍流)
・名古屋金鯱軍(のちに消滅)
当時は三大都市圏の東京・大阪・名古屋に7チームがひしめいている状態だった。また、リーグ戦とはいっても今日のようなものとは大きく違い、春季・夏季・秋季の3季に分かれ、さらに複数の短期リーグに分割されている状態だった。そしてすべてのチームが皆勤出場していたわけでもなく、春季は巨人が渡米のためにすべて欠場、名古屋金鯱軍も後半は欠場している。
春季は上述のためか、また夏季は7チームが東京・大阪・名古屋でトーナメント戦を行い、それぞれ名古屋・阪急・大阪が優勝したもののともに順位は定められなかった。
秋季はトーナメント戦とリーグ戦の両方を行う変則的なシーズンで、最終的には巨人が優勝。公式にはこの巨人の優勝を以て公式戦初優勝球団としている。このシーズンの9月、沢村が大阪タイガース相手にプロ初となるノーヒットノーランを達成した。










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