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●○ 駄文2.0 ○●

大阪 → ホノルル → ロンドン → ボストン。日々の由無しごとや思いついた事だとかを。

4月にパリへ行ったのは、あるワークショップに参加するためだった。
日本では、最強組織の法則という著作で知られるMITの上級講師ピーターセンゲが行う、
Leading and learning for sustainability という2泊3日の研修に参加。

数日前のアイスランド火山噴火の影響もあって、ロンドンからの移動はユーロスターを利用。
その中で思考のたな卸しをしようと真っ白い紙に向かって書いてたのがこんな内容。



飛行機に乗るときいつもふと思うのは、
もしこの便が墜落して自分が死んだとしたら、
この人生、幸せだったと思うのだろうかと。
今日はユーロスターでそう思ったわけた。

自分が幸せだったかどうか、そんなのは良くわからないのだけど、
かなり好き勝手させてもらったのだから、
葉ツバル英国だとかで人生終えちゃったとして、
友だちからすれば、あーふくちゃんっぽいなーで済んでしまうような
ある意味、幸せな一生であるのかも。

だけど、自分がどう思うか、でいえば困っちゃうよな。まだ死にたくない。
まだ、ピーターにも会ってないし。

(ここでユーロスターが動き出す。まさかの後ろ向き)

今回、彼に会いに行くことで幸せな脳みそをしたぼくは、
少し人生が変わるのではないかと期待しているところがあるのだ。

どう変わるのか。

自分のやりたいことを世間のレールというかキャリアパスに合わせて乗せていく行き方から、
やりたいことを追いかけて、それで食いっぱぐれず、一生懸命になれる行き方への変化だ。
期待しすぎている感覚は、否めないが。

窓の外に英国田舎の田園風景が広がり、
高緯度のため、夜8時を過ぎて見える夕焼け。
おかしな場所まで来たものだ。

ぼくはチキンなのだ。
世の中のパラダイムが変わる瞬間が見たいのに、
いきなりSoLで仕事をさせてくれなんていう度胸がなくて、
でも近づきたくてボストン行きを進める。MBAをはじめたりしながら。

リーダーになってよいコミュニティを築いていきたいのに、
突き抜ける度胸がなくてアドミのスキルばかり磨いている。

なのに、皆が支えてくれて、こんな好き勝手やっちゃって。
将来の自分が、1年後、5年後、10年後あるいは30年後、
いったい何をしてれば、許されるっていうのだろう。恩に報いたことになるのだろう。
そんなロードマップが描ければなあと思う。
火曜にTEDx Tuttleというイベントへ。
英2位の通信キャリアであるOrangeの元Technology Directorの
Norman Lewis博士が最初のスピーチが刺さった。

「子どもがハイテク機器が好きで、しかも生まれつき機械に強い」というのは嘘だ。
実はこの思い込みこそが、子どもでなく大人の抱える問題を表している。
そして、そのせいでいまの子どもの生活は危険に直面している。

1. 社会を構成するのは大人だ。

子どもがうち(Bedroom)で過ごす文化が興隆し、
逆にそと(Street)で過ごす文化が減退している。
外での危険が増えたことで、大人が子どもをコントロールしようとした結果である。
すると、子どもはコミュニケーションをどこに求めるか、部屋にあるパソコンである。

室内での保護により子どもが抱えているのは、「自己表現の危機」。
10代によるブログが増えているのは、ここに原因がある。
パソコンの中には、彼らが求める自己表現の行える場所があり、
友人とのつながりがあり、周りから得られる自己表現への反応、賞賛など
彼らが求めるもの(そして現実に得られないもの)が、全て存在している。

子どもがパソコンに夢中になるのはテクノロジーが好きだからじゃない。
昔、私たちが流行の音楽を聴き、服を着ることで行っていた自己表現のツールを、
今の子どもはパソコンの中以外に求めることができないのである。

大人が、この社会を構成しているにもかかわらず、
「今の子どもは機械が好きだ」などと言うのは、大人としての責任放棄である。


2. 子どもは生まれつき大人より機械に強いというのも嘘だ。

大人が根本的に誤解している点である。
例えば2歳の子がDVDを選んでプレーヤーに挿入、再生することができるとして、
これは大人がそれをテクノロジーと捉えてるから大騒ぎ(一部バカ英人)することで、
丸い板を機械の口に突っ込むことはなんら難しいことではない。

そもそも、生まれたときからそこにあるものは、
子どもにとってはテクノロジーでも最新機器でもなんでもないのだ。
さらに言えば、オンライン/オフラインというのも大人が作った概念であり、
学校から帰った後もTwitterで友人とやり取りする子どもにとっては、
「ただ友達とずっとしゃべってる」という感覚である。

インターネットや様々なメディアを通じて知識が氾濫し、
これにいち早く適応する子どもを大人は「最近の子どもはすごい」ともてはやす。
子どもを「理想化」することで大人の責任を放棄している。

子どものための教育とは、「心地よい空間」から引っ張り出してやることを言うのだ。
そうすることで、イノベーションが起こるのだ。
我々は大人としての責任を放棄してはいけない。


聞きながらずっと、こぼんのことを考えてた。
あのプログラム、世界中に持ち込めないのだろうか。
→ http://cobon.jp/
こないだなぜか唐突に
ディズニー映画の話になったのだが。

美女と野獣の野獣は、なんで最終的に美男子じゃなきゃいけないのだ。
見た目は恐ろしさより心がきれいなことが大切ならば、
それこそ野獣は醜いままであるべきなのに。
美男美女神話とかいうのもいい加減にしとくべきやと思う。

野獣は王子に戻ったんだけど、やっぱりブサイクでした。
それを気にし始めたせいで、心までいじけてしまいました。
もうあの頃の優しかった野獣はいません。
塞ぎがちなブサイクがPCの画面覗いているだけです。

っていう話の方がずっとリアルなわけで。

あと話は変わって、ピーターパンなんだけど、
あれも異文化なら成り立たないよね、とかって話。

物語の場所がロンドンじゃなくイランとかだったら、
夜中に窓を叩くのは、モハメド・アルサハリ(ひげ)。
完全に夜這いなのでウェンディーは弟たちを部屋から追い出して迎え入れる。

後日、誰かの密告で嫁入り前の姪っ子(実は肉親)ウェンディーに
妻子持ちのモハメドが手を出したことがバレる。
裁判では隙を見せて誘惑したウェンディーが姦通罪で捕らえられ、石投げの刑。
頭蓋骨こわれて死ぬまで石を投げつけるなんて刑が今も残ってるんだってさ。

大勢の人がウェンディーに向かって石を投げるわけなんだけど、
空を飛んで助けに現れるモハメド・アルサハリ。
だけど結局一緒に石を投げつけられてたり。

ハッピーエンドが見えないのだ。

そんなこと考えてる金曜日。