【駄文】眠れなかった夜の独り言 | ●○ 駄文2.0 ○●

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大阪 → ホノルル → ロンドン → ボストン。日々の由無しごとや思いついた事だとかを。

案の定寝られない。

論文を読んでいる間にはうとうとできたのだが、読み進めるうちにけっこう刺激されてしまったのである。企業におけるOperational Practiceの伝達がどうこうとあるのだが、何せ情報量が多いので、パソコンを立ち上げて要約を書き始めてみようかなんて思えてきた。次の金曜日には またスーパーバイザーに会うのだし、それまでに2つ、できれば3つの論文は読み込んでおきたいのだから…と。

これは良くないと眼鏡を外し、焦点の定まらない目で日本語のフォト・エッセイを読み始めた。僕の視力は両目とも軽く0.1を下回るので、裸眼で本 を読む作業はとても疲れる。しかも内容は学術論文からエッセイだわ、言語は英語から日本語へと変わって、書くスタイルも横書きから縦書きに変わるわで、 きっと適応できず、または癒されて、安らかに眠れるに違いないと考えた。

そして、この試みも失敗だったことに気付いたのは、文庫本の半分程度残っていたそれを読み終えたとき。時計はもう午前3時半を過ぎていた。明日、 月曜日の授業も9時から始まってしまうので、7時すぎには起きないといけない。あと4時間を切ってしまったと、どんよりとした気分になって、スタンドライ トを消し、目を閉じてみると、12時すぎの眠かった自分より、遥かに眠くなくなっている。それどころかエッセイの作者の文体にすっかりインスパイアされて しまったらしく、文章を書いてみたくなっている始末だ。

トイレに行かなくてはと言い訳がましくひとり言みたいにつぶやきながら、もぞもぞとベッドから抜け出し、用を足した後はこうしてパソコンの前に 座っている。ベッドを抜け出した瞬簡に、そこへ真っ直ぐには戻らないことくらい分かっていたのだ。部屋の電気は消したままだが、元から明るくない室内灯の 光量を補うために、デスクとベッドにはスタンドライトが付いている。カチリと音を立ててレトロな回転式のスイッチを回せば、パソコンの画面と僕の手元は すっかり明るく照らされて、こうして文章を書くのに何の不自由もない。

日本語の小説に-例えそれがとても好きな作家の文章であったとしても-不思議なくらいに刺激されてしまうのは、母国語でのコミュニケーションがひ どく制限された環境にいることで、言語というものに対して随分と自分は敏感になっているからだと思う。正しい言葉遣いが気になるという意味ではなく、言語 の持つメタレベルの意味とでも言えばいいのか。

言語が書ける・話せるということは、とても大事だ。ましてや洗練された表現を適切に使いこなすことができることは大事だと思う。僕はかれこれ英語 圏に住んで半年をようやく超えて、日常生活だけでなく、大学で授業を受け、アジア系クラスメイト中心とはいえ内容について議論し、文献を調べてエッセイを 書く、という作業にも慣れてきている。そして思い知ることは、どこまでも自分の話している言葉というものはカタコトであるということ。

ボビー・オロゴンや、映画ターミナルのトム・ハンクスを見れば明らかなように、共通の言語をネイティブ・ライクに話せないということは、彼または 彼女の知性がどのようなものであれ、まるでその人は単純な事象しか理解しない、そして「我々」と同じ思考を共有しない異物であるといった印象を与えてしま う。さらには、言葉に長けていない彼らは、あたかも「我々」が失ってしまったシンプルで純粋な感情を備えているかのような思い込みすら持たせてしまう。こ れは、逆に利用することもできるわけだが(例えばカタコトの日本語でピュアな愛をささやく外人の如く)。

言語とは監獄のようなものであると言った学者がいて、人は言語概念化できないことについて考えることができないのだから、言わば人間は言語という 枠組みの中に閉じ込められた囚人なのである、ということらしい。だけど逆に、ずっと言葉にできずにいた思いを、誰かの詩だったり文章だったりに形にしても らうことができるという点では、言語によって監獄は形を変えることもできるのかなと先週のセミナーの中で言ってみた。では、言語はenablerでもある と言えるねとCultureの講師は言った。

とりあえず、僕は言葉遊びが好きであるということと、どうやら明日も起きられたとしてもかなりつらいであろうことは確かである。こんな独り言に付き合ってくれた人がいたなら感謝したい。