今回は、「感謝の心」について書かせていただきたいと思う。


常に受けている幸福を悟る


1日の「神の聖旨」に、
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今日一日感謝して生きること
今日一日生かされて居る幸福を見出し、常に受けている幸福を悟れば、悟ると同時に喜びの人生が営まれる。
過去は消えてなきものなり、今より神が支配する。
過ぎ去った事を苦にせず先を楽しめ。

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と教えられている。

「感謝」という言葉は、幸福を得るための大切なキーワードとして、天心聖教の教えの中に数多く出てくるが、その意味は、「何かをしてもらったから感謝する」、「何もないから感謝しない」というのではなく、常に受けている幸福に気が付き、「ああ、ありがたい。私はなんと幸せなんだ」と、「たえざる感謝」を持つことであり、その感謝の心を持てたとき、「喜びの人生」が営まれる。

と諭されているのである。

 

初代様は、「困難を喜びに代え感謝で受け取る心」と題するご訓話の中で、次の通り説かれている。

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幸福というものは勿論健康であり、金もあり、やる事成す事が順調であることは申すまでもありませんが、それだけでは決して幸福の枠には入っていないのであります。

健康で金もあり事業が順調それに伴いまして、要は心の持ち方一つにあるのであります。
心が常に不安であったなら何が揃っていても不幸の人なのであります。
心が常に豊かであり、人が何千万円持っていようとも、私は十万円しかないと言わずに、私だって十万円持っていると満足感を持っている人が本当の幸福の人といえるのであります。

(中略)

では心を豊かにして何事につけても満足感になるという、そういう心を求めようとするにはどうすれば良いか、これも今日の課題であります。
それは感謝の心を養うことであります。

感謝の心のない人は、心豊かに満足など出来るものではありません。

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と、感謝の心を持つことの大切さをお諭しくださっている。

 

もちろん、心が大切とは言っても、多くの借金があって、食べる物にも困り、家族が病気で医者にかかるお金もない、といった、悪因縁に振り回されて身動きが取れない状況で、心豊かに過ごすことなどできるものではない。

初代様はこのお諭しで、「物心両面にわたる幸福」を説かれているのである。

 

現世利益を願うことについての項にも書かせて頂いたとおり、人間がこの世で生きていくためには、「物質的なものはどうでも良い」という訳にはいかない。

もしも貧病争がそろい、悪因縁に振り回されている状況ならば、神様にすがって悪因縁を除滅していただき、開運していただく必要がある。

 

しかし、神様に開運していただいて恵まれたとしても、「喉元すぎれば熱さ忘れる」のたとえのとおり、常に受けている幸福に感謝する心を失えば、幸福を感じることができなくなる。

そうなったら、本当に幸福は遠ざかってしまう。

「あれも楽しくない」、「これも楽しくない」と、目の前のことに楽しみを見出せないなら、何をやっても楽しくないだろう。

 

困難を乗り越えて得たものこそ「尊い宝」

 

また初代様は、同じご訓話の中で、

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人生はちょうど登山と同じ事で、親の遺産で何不自由なく安閑と暮らしているのは、あたかも乗り物で頂上へ行ったのと同じ事なので、そこに趣味も感激も愉快さも味わう事はできるものではありますまい。

けわしい山を苦難に苦難を重ねて頂上に達したごとく、人生も困難と戦いぬいて希望に達した時こそ、そこに真の愉快さもあり、又、苦難困難を乗り越えて得たものこそ真に尊い宝の所得なのであります。

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とお諭しくださっている。

 

人生は楽なことばかりでなく、困難にも遭遇するが、その度ごとに不満を言って逃げてばかりでは、幸福な人生とは言えないし、多くの学びも逃してしまう。

困難をも自己を磨く資料として喜びに代え、感謝で受け取る心を持てたとき、本当の意味で人生を楽しむことができるのだろう。

 

ぜひそのような人になりたいものだが、そのためには、前回に書かせていただいた初代様のお諭しのとおり、「数の一手」しかない。

 

一生修行と教えられているので、「数の一手」で日々精進していきたいと思う。