今回は、「現世利益」について書かせて頂きたいと思う。

 

宗教と現世利益


「富」を神様に願うことをどうとらえるかは、宗教によって違う。

 

キリスト教では、神様に「富」を願うことについては否定的なようである。
イエス様は「二人の主人に仕えることはできない」、「神と富とに仕えることはできない」と説かれている。富を否定すると言うよりも、神様の御心に反する方法で富を手にしてはならない。神様の御心が富よりも優先する。富に心を惑わされることなく、信仰に生きよ。

という教えだと私は解釈しているが、それでもやはり、「富」を求めることに対して肯定的とは言えないだろう。

 

仏教については様々な宗派があるから一概に言えないが、「煩悩を無くして心の安らぎを得る」という教えが基本にあるから、「富」を求めることについて肯定的とは言えないと思う。

 

しかし、ユダヤ教では富を求めることを否定していない。
また日本の神社では、商売繁盛祈願で有名な神社もある。
 

そのように宗教によって様々だが、天心聖教は「富」を求めることを否定しないし、商売のことでも、病気のことでも、受験のことでも、就職のことでも、その他なんでも、悪事でない限りは、「現世利益」をお願いすることを、神様はお許しくださっているのである。

 

初代様は、

「神への願いは、あたかも母親にねだると同様に心得よ」

とお諭しくださっている。

そして神様は、その願いを御慈愛深くお聞き届けくださるのである。


そこで今回は、「現世利益」について考えてみたいと思う。

熱心なキリスト教徒を諭された初代様
 

初代様が昭和26年に開教される前のお話である。
キリスト教を32年間熱心に続けてきた方が、初代様を訪ねてこられた。

その方は、初代様のお話に魅了され、初代様のところへ通ううちに、神様から奇蹟を見せられ、一晩おきに通うようになった。


その方は、若い時からキリスト教を熱心に信仰し、個人で教会を建てて、キリスト教の有名人を招いたり、世界的に有名だった賀川豊彦牧師にお願いして、大きな劇場で講演会を開いた程の熱心なクリスチャンだった。
しかし商売は火の車で、生活に困窮し、15歳になる一人息子は難病(肺病)で学校にも行けない状態だった。
それでもその人は、貧乏や息子の病気を神様に願うことせず、初代様に次のように語った。


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(天心聖教由来上巻より抜粋)
「貧乏などはイバラの道と言って、喜んで毎日毎日を感謝で過ごし、そして信仰によって魂を磨き、この世を去りましても、魂が神様に救われるために、私は信仰を続けています。事業を発展し、財産に恵まれて良い暮らしをしようとする者は、神の御心に敵いません。そのようなことを祈ったり願ったりする者は、実に汚ない、極く卑しいことになりまして、病気を神様に治して頂こうなどとは、それは打算的信仰です。そういう信仰は、信仰の対象になりません」
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と、その人は初代様に、自分の信仰理念を語った。

その言葉を聞かれた初代様は、答えられた。
そのお諭しのほんの一部だが、抜粋させていただくと、

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(天心聖教由来上巻より抜粋)
あなただって人間でしょう。

同じ人間が金もなし、病人がいて、心も魂も幸福のわけがないでしょう。
それをあなたが幸福だなんて言いますのは、キリスト教のてまえ、あなたのやせがまんでしょう。失礼なことを申し上げるようですが、私には活き神様が言わせるのですから、悪しからずお願いしますよ。
第一、貧乏はイバラの道で喜びとするとか、子供の肺病を神に祈って治すなどとは、毛頭考えていないなどと言って、借金も返すことができず、人様に迷惑かけていて。その迷惑をかけられている相手こそ災難ですよ。
その上、伜の病気に対して、祈ることは毛頭考えていないなどとは、それじゃ、親の慈悲というものがないじゃありませんか。それこそ神の御心に叶いませんよ。
医学でも治らない不治の病は、神に祈って治して頂くようにと、信仰する者に諭すのが、宗教家の担当ではないでしょうか」

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と、初代様はその方に諭された。
 

そのように諭され、その方は心を開き、神様に救いを求めたところ、息子さんの病気が治り、商売も大繁盛して家族は貧乏のどん底から救われ、初代様の御弟子となられた。

初代様ご自身、神様がご再臨されるまでの11年間、自殺を考えるほどの貧乏を体験され、開教後は、貧乏な人が来ると、その人の辛さがよく分かるから真剣に神様に祈るのだと、ご訓話で語られた事を覚えている。

 

そのように貧乏のどん底を味あわれた初代様にとって、救いを求めてくる人の悩みは、全て自分の苦しみとして感じておられた事が、このお話から伺えるのである。
 

幸福ということについて

 

もちろん貧乏でも幸福な人はいる。
貧乏でも、大きな借金もなく、家族が心身共に健康で、皆が相和し、心豊かに生活していたら、貧乏の中でも、幸福を感じることができる。

幸福とは、心が感じるものである。

今自分がおかれている環境や、周りに起こったことを感謝で受け止め、心が幸福だと感じることを、幸福と言うのである。

どんなに物質的に恵まれようとも、幸福を感じる心がなければ、幸福になれる道理がない。

したがって幸不幸は心の持ちようである。

 

しかし初代様がご体験されたように、明日食べるお米がない、という状況になるまで、11年間も貧乏が続いたらどうだろうか。

初代様でさえ自殺を考えられたほどである。
また、貧乏に加えて、病気・争いの三拍子が揃った生活が延々と続いたら、それはもう心安らかに暮らせるものではない。

 

私がこうしてブログを書くことができるのも、パソコンがあるからで、もしパソコンを買うお金もなく、借金に追われていたら、ブログどころではない。

ましてや家族皆が病気で、家庭の争いが絶えなかったら、ブログを書こうなどとは、脳裏もかすめないだろう。
 

しかしそういうこともなく、神様のおかげで、現在家族皆が幸福に過ごされていただいている。

もし貧乏・病気・争いの三拍子が揃っていたら、それは悪因縁に振り回されている証拠である。

そのように悪因縁に振り回されている魂が、幸福であるはずがないのである。


もちろん分不相応のお金や身分は、かえって不幸を招く場合があるし、ましてや悪事で得たお金は、消えてなくなってしまうばかりでなく、自分にも子孫にも不徳を残す結果となる。

しかし現界で幸福に暮らすには、ある程度のお金や、家族の健康といった「現世利益」が必要であることは、争えない事実である。

永遠に生き続けている我々の霊魂にとって、「現界でも幸福、霊界でも幸福」というのが、本当の幸福であるのだから、「現世利益」と「来世利益」を分けて考える必要はないのだ。

 

地獄も、極楽も、現界からすでに始まっているのであり、「現世利益」を求めることは、人間にとって自然な営みである。

宇宙絶対の神様に願い、「物心両面に恵まれた幸福」を得る教えが、天心聖教の教えである。

 

自分だけの幸福はあり得ない

 

もちろん、お願いするだけでなく、人事を尽くさなければならない。

天心聖教には、「人事を尽くして御神助を待つ」という教えがある。

人事を尽くさずに、神様に「富」をお願いするだけでは、神様に、「お金を稼いできてください」と言っているようなものである。

そんなお願いは、人に対しても失礼であるから、神様に対して非礼であることは言うまでもない。

 

また、人事を尽くすと言っても、その努力が神様の御心にかなったものでなければならない。

神様の教えには一貫した真理がある。

その一つが、「自分だけの幸福はあり得ない」という真理である。

幸福を求めるのはよいが、「自分だけ良ければいい」という、自分の幸福だけを追い求めようとする生き方は、神様の御心に敵わない。

「周りの人たちの幸福があって、自分の幸福もある」

その真理に基づく教えの一つに、「商売繁昌の秘訣」という神の聖旨がある。

次回はその聖旨について書かせていただきたいと思う。