前回は、天心聖教の先祖供養について、その前提となる教えを書かせていただいた。

 

そして「神界」、「霊界」、「現界」の3つの世界についてご説明申し上げた。

 

もしも、神界、霊界、現界の3つの世界が、何のつながりもない別々の世界であるなら、善い行いも悪い行いも、自分という存在も、すべては死とともに消える。

そうなれば、先祖供養も、あるいは信仰そのものも、必要がないかも知れない。

 

しかし現実は、この3つの世界は大きな関わりを持っている。

その関りが、私たちの目には見えないだけのことである。

 

私たちの魂は肉体に宿って「現界」に生まれ、肉体を脱ぎ捨てて「霊界」に行く。

そうやって現界と霊界を行き来している。

 

また、我々人間をはじめ、森羅万象のすべては神様の被造物であり、私たちは神様の恵みによって生かされている。

 

目に見える世界の現象は、むしろ目に見えない世界の原因によるところが多い。

 

例えばどのようなことがあるか、それを書こうと思ったが、ちょっと話が長くなりそうなので、またの機会にさせていただきたいと思う。

 

誰でも歳をとるとそうかも知れないが、話が脱線すると本題を忘れてしまう。

話を本題に戻そう。


【先祖供養はどうして必要なのか?】

 

まず、「先祖供養はどうして必要なのか?」ということについて考えてみたいと思う。

 

先祖供養に対する一般的なイメージは、

葬儀からはじまり、四十九日、一周忌、三回忌などにお寺で法要をする。そして家に仏壇を祀って先祖を拝み、お盆やお彼岸にはお墓参りに行って先祖の霊に手を合わせる。
ということではないだろうか。

そのように、ご先祖様のことを思い、心を尽くすことはとても尊いことである。
そもそもご先祖様を大切にする、ということは当然のことであり、それが日本の文化でもある。

 

中には、

「なぜ先祖供養が必要なのかなどという理屈はいらない。ご先祖様を大切にするその気持ちが先祖供養なのだ」
と思われる方もいらっしゃるだろう。

 

おっしゃる通り、供養する側の私たちが常に持つべきは、先祖を大切に思う心であり、それは供養をする上でとても大切なことの一つであると思う。

しかし今回は、供養に対する心のあり方ではなく、

一つは、「ご先祖様が幸せになると、子孫はどうなるのか?」ということ、

もう一つは、「神様に先祖を救って頂くとは、どういうことか?」ということ、
この2つを主題とさせていただきたい。


【先祖が幸せになると、子孫はどうなるのか?】
 

まず、1つ目の、「ご先祖様が幸せになると、子孫はどうなるのか?」ということだが、結論から申し上げれば、

「先祖が幸せになると、子孫も幸せになる」ということである。
 

「霊界」と「現界」との関係で、前回、次の2つの天の法則のことを述べた。

1つ目の法則、「霊界は現界の延長である」 (※また現界も霊界の延長である) 
2つ目の法則、「先祖は過去の自分であり、子孫は未来の自分である」

(※先祖の魂と子孫の魂は、霊線というものによってつながっている)

https://ameblo.jp/fukebatobuyonashogino/entry-12494797430.html

 

それに加えて3つ目の天の法則がある。

それは、

3つ目の法則、「先祖の幸福なくして、子孫の幸福はない」

ということだ。

 

つまり、先祖が霊界で苦しんでいれば、子孫は現界で幸せに暮らすことは出来ない。


前回も述べたが、先祖の魂と子孫の魂はつながっている。

そのことからも、「先祖が幸せなら子孫も幸せ、先祖が不幸なら子孫も不幸」という真理はご理解いただけることと思う。

 

このことはつまり、私たちが今現在、貧病争でどうにもならず、悩み苦しんでいるならば、先祖も霊界で苦しんでいる、ということを教えてくれている。

 

逆に、今現在の私たちが幸せならば、先祖も極楽で幸せに暮らしている、ということになる。

 

【先祖が子孫に苦しみを訴える】

 

具体的に書こう。

先祖が霊界で苦しんでいると、どういうことが起こるかと言うと、浮かばれない先祖の霊は、霊線でつながっている子孫を頼る。

「苦しいから助けてくれ!」と訴えてくるのである。

その訴えてくる霊が、人間に分かる形で現れる場合も稀にあるが、大抵は目に見えず、難病や争いや貧乏など、不幸な現象となって現れる。

でも子孫にはそれが分からない。

 

「なんか不運なことばかり起こるなあ。これは一体なんなんだ」

と、先祖の要求に気がつかない。

だから先祖の霊は「これでも分からないか!」と、ますます強く訴えてくる。

これが先祖の悪因縁による不幸の現れである。

 

だから、私たちが幸福になる第一条件は、先祖の訴えを聞き入れて、先祖を幸せにしてあげることである。

しかしここが問題で、私たちには先祖を救う力がない。

どんなに頑張っても先祖を救えないのである。

 

霊界で苦しんでいる霊は、生前に犯した不徳の罪により、天の法則によって霊界で苦しんでいる。

天の法則で定められているものを、人間はどうすることも出来ない。

 

お墓参りをしたからと言って、先祖の罪不徳が消えるわけではない。

お墓参りを喜んではくれるだろうが、それで先祖が救われる、というわけにはいかないのである。

 

ではなぜ先祖は、救えもしない私たち子孫に頼り、身内である子孫を苦しめるのか?

 

ご先祖様は、子孫を苦しめようとしているのではない。

子孫に苦しみを分かって欲しいのである。

 

苦しんでいる霊は、藁をも縋る気持ちで縋る。

「この人は救えるかなあ?」とか、「この人に頼んだら悪いかなあ?」などと冷静に考える余裕などない。

水に溺れた人が、近くを泳いでいる人に「助けてくれ!」と必死でしがみつき、一緒に溺れてしまうのと同じである。

 

またその逆に、子孫が先祖に頼る場合もある。

仏壇に手を合わせ、「ご先祖様、私は難病で苦しんでいます。どうか助けてください!」とか、あるいは「ご先祖様、どうかお金が舞い込んできますように」と必死に頼む人もいる。

 

しかしそれは間違った信仰方法なのである。

 

知らずにそうしているから、仕方ないと言えば仕方ないのだが、結果的に先祖を苦しめるだけとなる。

先祖は自分の苦しみを子孫に分かって欲しいのに、分かってくれるどころか、逆に無理な要求を子孫は言ってくる。

もし、自分が先祖だったらどう思うだろうか。

 

苦しんでいる子孫と、苦しんでいる先祖が、お互いに頼り合っても、お互いが不幸になるだけで何もいいことはない。

 

【神様に先祖の幸福を祈る】

 

ではどうするか。

救う力のある御方にお願いすればよいのである。

その御方が、天の法則をお造りになられた宇宙絶対の神様である。

 

したがって、まず神様に、過去の自分である先祖の犯した罪不徳を、先祖になり代わってお詫び申し上げ、霊界での先祖の幸福をお願い申し上げるのである。

すると神様は、その願いをお聞き届けくださり、先祖の悪因縁を除滅してくださり、先祖を高き幸福な霊界へとお導きくださるのである。

 

そして、私たち子孫の悪因縁も除滅されていく。

 

すると、神様に救われた先祖は、今度は今までとは逆に、子孫の幸せを霊界から神様に祈ってくださるようになる。

 

このように、霊人が共にお互いの幸せを神様に祈り合う信仰を「霊人合致の信仰」と言う。

 

したがって、すべての願い事は宇宙絶対の神様にお願いし、霊人がお互いの幸福を神様に祈り合う信仰こそ、ご先祖様も、私たち子孫も、共に真の幸福の道を歩むことができる唯一の道なのである。

 

今回は、「ご先祖様が幸せになると子孫も幸せになる」という真理と、

「真の先祖供養とは、神様に先祖を救っていただくことである

」ということを書かせていただいた。

 

その外にも霊界のことについて書かせていただきたいことはたくさんあるのだが、先祖供養については次回の3回目で一区切りとさせていただきたいと思う。

 

次回は、「水子供養は必要か?」という問題にも触れてみたいと思っている。