イパネマの娘、三月の雨、フェリシダージ。ボサノバが生まれたのは1960年頃。それからずっと色褪せず、いつも心地よい音。ボサノバの風は今日も世界の人々の心を潤しています。

 

 ジョアン・ジルベルト。彼が、ボサノバの神様と呼ばれているのには理由があります。

  彼の遅刻ぐせはもはやファンを喜ばせるくらいの芸当となり、私も目の当たりにしました。開演から45分程遅れてステージに登場した彼を包む暖かい拍手。ここでは誰一人憤慨する者はいませんが、この遅刻ぐせによって、若かりし頃コーラスグループをクビになります。それがのちのボサノバ誕生につながるのですから、遅刻魔でなかったら、ボサノバは存在しなかったかもしれません。

 

 1957年。当時26歳のジョアンはギターを抱えてとあるミュージシャンの自宅を訪ねます。そこで披露した演奏スタイルは、瞬く間にリオの音楽家たちの間で広まり、やがてアントニオ・カルロス・ジョビンのところまでたどり着きました。もう一人の神様であるジョビンの音楽も、ジョアンと出会う前は今日耳にするスタイルではなかったのです。

 

 ジョビンの美しい歌詞とメロディーがあって、ジョアン・ジルベルトのギターと唄。こうして、新しい方法「BOSSA NOVA」が生まれました。「ボサノバの神様」と呼ばれる所以です。もし「ボサノバ」が生まれていなかったら、ジョビンの曲さえ、「イージー・リスニング」というジャンルで括られていたかもしれません。

 

 数多ある楽曲の中でジョビン作曲の「イパネマの娘」が特にポピュラーなのは、「ゲッツ・ジルベルト」というアルバムのヒットによるもの。テナー・サックス奏者のスタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトのギター。そしてもう一人、立役者がいます。

 

 レコーディングに立ち会っていた奥さんのアストラッド・ジルベルト。彼女自身が英語で歌うことを提案し、英語詞入りの楽曲ができたのですが、のちにシングルカットされたのは、ジョアンの歌よりも彼女の歌の部分がフィーチャーされたバージョン。すると、これがアメリカで大ヒットし、アルバムのセールスを牽引することになります。どこか気だるい唄声にスウィートなサックス、そしてジョアンのギターで奏でられる「イパネマの娘」は、世界のスタンダード・ナンバーになり、ボサノバのイメージを決定づけました。(経緯には諸説あります)

 

 ジョアン・ジルベルトのパートをカットした当時のプロデューサーの手腕もさることながら、朗々と歌うことが当たり前だった業界で、今ではウィスパー・ボイスなんて表現もありますが、あのような歌い方とリズムはとにかく斬新だったはず。ボサノバの楽曲はジャズ界にも風穴を開け、多くの演奏家たちにカヴァーされていることはいうまでもありません。

 

 ジョアン・ジルベルトの「三月の雨」を聞くとさらに衝撃を受けます。拍子がどうなっているのかわからない。日本人の感覚では思いつかないリズムのとり方で、もはや時空を超えています。ポルトガル語の性質もあるのでしょうが、ボッサのリズムとポルトガル語が絶妙に絡み合い、心を通り抜けていきます。

 

 Aメロ、Bメロ、サビのような現代ポップス的構成ではないので、悪くいうと平坦。激しい抑揚がないので油断すると、その柔らかな音色に眠たくなってしまいますが、実は、指先は激しく動いていて、手のひらでサンバが繰り広げられています。軽快なリズムに乗って、少しずつ音が変化してゆく。どんなに素晴らしいメロディーがあっても、リズム次第で大きく変わるもの。そういう意味で、ボサノバのリズムは発明と言えるでしょう。

 

 80年代。ピアノの上にあった年季の入った楽譜の中に、「イパネマの娘」を見つけました。英語の詩が添えられています。なんとなく弾いてみると聴き馴染みのあるフレーズ。きっと、どこかで流れていたからでしょう。頭の中に浮かぶイパネマ海岸。コードに対する意表を突いたメロディーラインと、リズミカルな伴奏に、幼ながらに清涼感を感じました。

 

 ボサノバを能動的に聴くようになったのは高校時代。大学ではラテン・アメリカ研究会に入ったものの、そこではペルーやボリビアなどのフォルクローレ。そういった音楽も嫌いではないですが、どうしてもボサノバを演奏したかったので、ユニットを組んだりしました。セルジオ・メンデスのコンサートにも行きました。おしゃれなジャズ・アレンジですが、彼らも原点はボサノバ。

 

 そして今日。こんなにもコーヒーが美味しく飲めるのも、ボサノバのおかげ。ジョアンの爪弾くリズムが、僕の心を軽くしてくれます。高い山に登るのではなく、小高い丘に上がるような。ジョアン・ジルベルトの風が、僕の人生をずっと。