「こんな番組をやってもらいたいんだけど」といわれたときに生まれた喜びという名の感情はその番組の内容に共感できたからというよりも「必要とされている」という感覚によるものかもしれない。それがたとえ口車に乗せられただけだとしても、「君が必要なんだ」と捉えてもおかしくないほど「必要」を強調されると動かざるを得ない心。自分が必要としているものが手に入るそれもあるけれど、自分が必要とされることの喜びをあらためて実感する午後。こんなにも、自分がなにかの力になれる充足感に包まれているのに、すぐに引き受けることができなかったのは、手放さなくてはならないものがあったから。何かを手に入れるためにはなにかを手放さなくてはいけないとはよく耳にするけれど、必ずしもそうとは限らないと思っていた僕が迫られる選択。あらたに僕を必要とするのは土曜の夜。いまやっているのも土曜の夜。違う周波数ならまだしも、同じ土曜の夜に、「こんばんは、ふかわりょうです」を二回は言えない。現行の番組が、好きな曲をかけ好きな話をする、良くも悪くも好き勝手できた番組なのに対し、新しく始まるのは、ひとつのコンセプトのなかでゲストを招く「話をする」というより専ら「話を聞く」立場。しかも生放送だから、日曜日以外毎日人の話をきくことになる。嫌ではないけれど、inとoutのバランスは保てるだろうか。やりとりのなかに自分のエッセンスを散りばめられるし、「話をきくことは、音を奏でること」などと葛藤するなかで結局僕が選んだのは、あらたなステージ。人の役に立つからなのか、生放送だからなのか、はっきりとはしないけれど、「いまはそういう時期なのかもしれない」という割り切りと、「流れに任せてみるか」という覚悟。己の動力で進むのではなく、流れに身を委ねる。成り行き任せという言葉があるけれど、意外とそれでたどり着くのは素敵な場所かもしれないし、たとえいい景色でなくとも自分が選んだ流れであればきっとその景色を気に入るであろうという展望。だから、いつまで流されるのかわからないけれど、いまはただ、力を入れず、身を任せる浮遊感を存分に楽しもうと思っている夜。夜。なかなか離してくれない夜。土曜の夜は、あれからずっと、僕を、離してくれない。