ころころと転がってゆくコーヒー豆たちを閉じ込めるように、竃のような鉄の蓋を閉めたら、左手で木製の台を抑え、右手で小さな取っ手をゆっくり時計回り。

「がーがーがーがー、ごりごりごりごり」

 コーヒーの香りが、鼻を刺激しはじめます。

 ということで、コーヒー・ミル生活始めました。コーヒー好きのイメージからか、ファンの方から珈琲豆をいただくことがあり、以前からなんとなく目をつけていたのですが、これからアイスコーヒーのおいしい季節だしという若干の気がかりを突き破り、購入してしまいました。もちろん、自動ではなく手挽き。クラシカルな雰囲気漂う手挽きミルは、置いておくだけでも部屋のアクセントになりますが、あまりにかわいらしいので、ついつい挽きたくなります。

「がーがーがーがー、ごりごりごりごり」

 下の小さな引き出しを開ければ、挽きたてのコーヒーが鉛筆削りのように溜まっています。閉じた勢いで、また鼻までやってくるコーヒーの妖精たち。やがて部屋に充満していく朝のひととき。こんなことなら、もっと早くやっておけばよかったと思わずにはいられません。

 それにしても、この「ごりごり」という手応え。幼少期のガチャガチャのように絶妙な負荷がクセになります。正直、こんな心地いいことを機械にやらせてはもったいない。それに、ゆっくりまわしている時間は、ぼーっとするのにちょうどよく、心にゆとりが生まれるようです。豆を挽く行為は、利便性を追い求める過程で文明の利器にとってかわられ、削ぎ落とされてしまいましたが、この省かれた時間と手間を取り戻し、あらためて自分のものにしてみれば、贅沢とさえ感じます。もしかするといまは、機械にやってもらっていたことを自らの手で行うことがひとつの「贅沢のカタチ」なのかもしれません。硯で墨をする時間しかり、こういった「のりしろ」は必要で、そういうものが削ぎ落とされてしまうと、生活に「余裕」や「うるおい」がなくなってしまいます。まぁ、校長先生の話はここまでにして、淹れたてのコーヒーをいただきましょう。

 自分で挽いたコーヒーがまずいわけありません。多少濃かろうが、薄味だろうが、旅先でただバスに乗ることに感動が生じるように、自分で豆を挽いて淹れたコーヒーは格別なのです。ボサ・ノヴァ流れるfukawa bucks coffee。ベートーベンは毎朝好みのコーヒー豆をひとつひとつ選んでいたようですが、そのうち豆一粒一粒にもこだわりそうな気がします。

「がーがーがーがー、ごりごりごりごり」

 新幹線を散々味わったいま、各駅停車の旅に新たな価値が生じるように、時代によって、「贅沢のカタチ」は変わるもの。機械にやってもらうことで手間が省けた便利な時代から、その省かれてしまった手間に目を向ける時代へ。いまから川で洗濯しようということではありません。すべてを機械に任せてしまうと味気のない生活になってしまうから、そのどこか一部分を担うことで、生活にコクがでてくるのではないでしょうか。利便性と手間のブレンドで、人生は、ちょっとビターで深みのある味がしてくるのです。

「がーがーがーがー、ごりごりごりごり」

 それは、文明に奪われていた音。人はどこかで面倒くささを愛しているから。第三楽章に、新たな楽器が加わりました。