早いもので今年も、クリスマスソングを耳にする季節になりました。清水寺で発表される今年の一文字は、東京五輪の「輪」なのではと思っていましたが、まだまだ油断はできません。とりわけ、偽装の「偽」は、まだ射程距離内にいるといえるでしょう。


 下半期は、食品偽装、ねつ造、など、芋づる式に「偽」にまつわるニュースが続きました。「羊頭狗肉」という言葉があるように、昔から「看板に偽り」はあったわけで、もしかすると今後もなくなることはないのかもしれません。もちろん、それらを善しとしてはいけないのですが、徹底的に「偽り」を糾弾していることには、違和感を覚えます。「偽る」ことよりも「偽りを根絶させようとする風潮」の方が、僕は、はるかに恐ろしく感じるのです。見えない力、集団の圧力。それは、戦争に向かう流れに逆行できなかった空気やエネルギーに、似ているのではないでしょうか。


 ご存じの方もいるかと思いますが、引っ越してからというもの、毎朝、クイックルワイパーをかけていました。それは、引っ越ししたてというのもありますが、なにより、家が白いから。床も壁も白く、ちょっとしたゴミやほこりが目立つのです。フローリングだったときは滅多にそんなことしなかったのに毎朝掃除をするのは、以前が綺麗だったからではありません。気づかなかっただけ。ひとたび真っ白な世界に移った途端、小さな汚れまでも目に付くようになっただけ。しかし、時間が経つにつれ、意識に変化が現れました。そういうものかと、徐々に大目に見られるようになったのです。これでもし、引っ越し当時のモチベーションを維持していたら、きっと、いまの住まいに疲れていたことでしょう。ある程度、部屋は汚れるものだと覚悟しておかないと、精神がもたないのです。


 最近の世の中は、ネットが普及してからというもの、あらゆることが浮き彫りになるようになりました。人々は、白い部屋に住むようになったのです。ちょっとした汚れさえも目立ってしまう。いままではそれほど問題視されなかったことも明るみにでてしまう。それは決して悪いことではないのですが、それらを根絶しようとすると、かえって息苦しくなってしまうもの。どこかで汚れの存在を受け入れないと、結局、キリがないのです。


テレビにしても、ホテルにしても、やってはいけないことには間違いないですが、やはり人間社会。「偽り」が存在していてもおかしくないと、頭の隅に置いておくほうが賢明でしょう。むしろ、テレビにしたって、疑いを持たず鵜呑みにしていることのほうがよほど危険なこと。信用をなくしている状態のほうが健全。騙すほうも悪いけれど、騙される方にも非がある、くらいの意識も、ときには必要なのです。


 フィリピンでの治安悪化を見れば、日本人がいかに秩序や和を重んじているのかわかります。反面、和を乱す者への制裁は目を覆いたくなるものがあります。マスコミに踊らされ、少し、目くじらを立てすぎなのでしょう。目指すのは、偽装のない社会ではなく、偽装があってもガタガタさわがない精神、空気。動じない心。覚悟と寛容なのです。そのほうが近道でしょう。世界を変えたいのなら自分が変わればいい。偽りなき世の中を期待するものではないのです。


ゴミひとつ許さない生活にするのか、大目に見るのか。僕たちはもう、真っ白な家に引っ越してしまったのです。