「美しさにまつわる」



ムンク生誕150年を記念した美術館設立のために「叫び」が売却される、という現象はまるでルーヴル美術館改装のためにモナリザが売却されるような印象を受けたので調べてみれば、かの「叫び」は4枚あるそうで、今回約96億円の値が付いたそれはもっとも色彩豊かといわれるパステル画の「叫び」。だから一枚売却されたところで、モナリザのないルーヴル美術館にはならないのだけど、人生で4枚も描くほど叫びたかったのかと思えば、自らが叫んでいるのではなく実は周囲の自然の叫びから耳をふさぐ様子と捉えるのが最近の主流らしく、見ているようで見ていなかった自分を反省する一方で、モネの「睡蓮」という作品。これに関しては4点どころか、200点以上も存在するそうで、同じ名画であっても、「睡蓮」は「叫び」ほどの値が付かない。

わだかまりというかどこかひっかかるのは、美しいものは絶対的なものであってほしい、何枚あろうが高価なものは高価であって枚数に左右されてほしくない、という感情のせい。「そんなことならもっと減らしたわ」とモネが言わないにしても、数量によって絵画の価値を決めてしまっていいのだろうか。値段とはそういうものなのかもしれないが、経済とは無縁であってほしい芸術の世界まで影響を受けてしまうところに一抹のやるせなさがつきまとう。経済とは、物の本当の価値を見失わせる尺度なのだろうか。

もちろん数量はあくまで付加価値であって、価値は絵画にこそ存在するもの。「これは世界に一枚しか存在しない」と見知らぬおじさんに彼の絵画を見せられたところでどうにも共鳴しがたい。とはいえ、付加価値のほうが真価を上回る傾向があるのも事実で、どうしても数量だとか貴重さに意識が向けられてしまう。果たして「ウニ」は、本当においしいものなのか。いまさら海鮮市場に喧嘩を売るつもりはないけれど、どこか「貴重な食べ物」という刷り込みによって美味しさをキープしている気がしなくもない。ツバメの巣しかり。命をかけて採取するというストーリーがおいしいと言わせている。数量限定を謳うパンなど、もちろんクオリティーを無視できないものの、その「限定」という頻度の少なさ、常には存在しない、というむしろ販売側の作為的、意図的な言葉が、美を増幅させる。壮大なストーリーがあるならまだしも、脈略のない「限定」にさえ、私たちは胸を躍らせてしまう。練るべきものは小麦粉ではなく、販売の仕方なのか。私たちは「限定」や「スープがなくなり次第終了」的フレーズにとてつもなく弱い。

 先日訪れた金環日食フィーバー。メディアの煽りも凄まじいもので、やれ25年ぶりだとか平安時代以来だとか、その基準によって表現はまちまちではあるものの、いかに美しいかということよりも必ず「頻度」が取り沙汰される。美しさの解説が「頻度」に終始してしまう。「もう見られない」から美しいのか。いつも見られるものは美しくないのか。来月も見られるとしたら、きっと日食用メガネも売り切れることはなかっただろう。「金星の太陽面通過」のほうが貴重だとする向きもあるが、天体ショーを頻度でしか計ることができないのは非常に悲しい。

頻度とは。それが美に与える影響。

 アイスランドで頻繁に見かける虹。それも地球の取っ手のような大地に両足をつけた大きな虹。日本からやって来た旅人にしてみれば何度もシャッターを押してしまうほど感動的であるのに、アイスランドの人々はあまり反応していない様子。これぞまさに頻度の影響。私たちにとって奇跡の虹も、アイスランドでは日常の光。奇跡だろうが日常だろうが、美しいものは美しいのに、どうして頻度に誤魔化されてしまうのか。

 美しさ。それは、日常にこそ存在するもの。長い間戦争に赴き、数年ぶりに手にしたおにぎりは格別なはず。本当の美しさは日常の中に存在するのに、私たちはどこかでこの「頻度」に振り回され、本当に大切なものを見失いがちではないだろうか。毎朝太陽には感謝すべきだろうし、毎晩月を眺めるべきだろうし、寝る前に鼓動を実感するべきだろう。蛇口からの水に感動するべきだろう。いまあたりまえに存在するものはすべて長い歳月をかけて築き上げたもの。「ひねれば出る水」にたどり着くまでどれだけの時間がかかったことか。非日常に感動する日常ではなく、日常に感謝する日常。経済的尺度からの脱却。

もしこの世に「奇跡」があるとすれば、それはすべてであって、むしろあたりまえに存在するものなんてなにひとつない。日常こそ奇跡であって、一膳のごはんも金星の太陽面通過も同じ。常に存在するものに心を動かされる者こそ、ムンクやモネなのだろう。そんなことを思いながら僕は、メガネ越しに太陽を眺めていた。