時代の推移に伴う価値観の多様化やメデア情報の高度化・複雑化とともに、脳とこころに関する精神現象に、ようやく学者たちの興味も高まってきている。


身体生理学的神経学、諸人文科学(歴史・社会・語学・文学、情報など文系に属する学問)を側面からサポートする位置付であった心理学も、従来は、医療目的の一般教養に限定され、はっきり区別されていた。



このところ、医療分野自体も電子技術応用のハイテク化が進むに伴い、脳内メカニズムとこころのはたらきを解明し、

生きもの、特に「人間と称する生きもの」を理解しようとする発意のもと、

言語学、情報科学、生化学、分子生物学など関連深い諸分野を加えて総合的に考察する機運が急激に高まり、「認知科学」との称号のもと現代的な方法論に基づく新しい研究スタイルが発想されて、活性を取り戻しているようである。


20世紀後半以降、人の脳内活動についての研究も、因果律が適用されて論理的説明がつけられる課題範囲(生化学・分子生物学)には、注目すべきいくつかの成果が報告されている。


しかし、個々の人間にとっての心的世界とは、外在する物体の投影のみならず、想像・空想などをふくめて、無自覚的深層意識の内面世界にも生起している事柄の総であって、実際にはまだ明確な存在が確認されていないものまで、注意の対象になってしまうのだ。


人のこころとは何かの解明に、研究室空間で物質材料を対象とする場合と同じ枠組みで、アプローチするのは、方向違いともいうべきで、むしろ、人為的情報刺激の要素となっている言説の本質究明や非言語的表象意味についての解析重視の中に、こころの謎を解き明かすキーが隠されているような気がしてならない。


今後も、物的考究に偏った実験材料人間などの暴挙は、許さないことを考慮すれば、まだまだ精神の科学そのものさえも、光ほのかな黎明期にあるといえよう。


     完


【9】身体・精神の包括的人間科学は、まだ夜明け前?



 科学のルールには、観察対象(客体)から発生している事象が、実験と名づける手段によって確認されなければ、「普遍的原理といえない」という約束ごとがあって、すべての事象は、因果の法則によって律せられているという固定的考え方のうえに立つ。


したがって、事象、現象の存在が明らかであっても、実験、検証が著しく困難であり、因果律を適用しての理論的説明がつけにくいものは、科学的学問の対象にはなり難いのである。


目で捉えられる物質を対象に据えた物理や化学にくらべ、総合人間科学が格段に遅れをとったのは、権威者の恣意性、研究者の難易度選択など、学者世界の都合もあったことは否めない。



十九世紀の終わり頃、S・フロイトが物質科学の手法を導入して、精神活動を解明しようと企て、精神分析学を提唱、科学的学問世界への仲間入りをはたすことができた。しかし、脳に現れるイメージは、質量を持たず、今もって定量的計測が不能である。


 しかも、自身の感覚特性や感度について、客観的な指標が持てず、それを他に伝えるのに苦楽、快・不快、不安・恐怖の強弱大小など、性質を大まかに区分する言葉はあるが、それぞれの質感(クオリア)を表すことのできる数値化も困難だ。


心的イメージ現象となると、そもそも千幻万化、『動く鏡に映る像』みたいなもので、実体を離れた映し絵であるから、言語で捉えようとすることすら極めて困難となる。



自己イメージなども、自我と名づける固定的観念体の発想で分析し捉えようとするところから、フロイト説は、創始後間もなく、無自覚的所作の洞察に、異論を生じて、学論の変遷と拡散をくりかえす結果になった。


そんな理由からか、近年、急激に台頭してきた総合人間科学の担い手である気鋭の認知科学派の学者からも、「物語性が強すぎる」と敬遠されている始末だ



【8】意識の情報処理機能をいかに使うかが課題だ



 人類は言語情報を高度化する工夫を重ね、他の動物に較べ卓絶した生存力を発揮できることになった。


 印刷や情報通信テクノロジーは、個体内部を流れて消え失せる情報を遠く離れた人同士の生命エネルギーを結び付ける役目を果たして人類特有の集団社会を形成、様々な人為の社会現象(政治・経済・文化システム)を生み出し、


人間社会に繁栄をもたらしてきたというプラスの評価も忘れてはならないのはもちろんだ。



 しかし、現代社会は、欲望の肥大化を虚飾の言語で隠蔽し、自己の権益や利益の拡大を際限なく追求し、愉楽をむさぼって生きようとする風潮が予想以上に顕著となりつつあるようだ。


経済や政治、行政の腐敗、マスメデアの衿持喪失と独りよがり、いちいち例を挙げるまでもなかろうと思う。


人類は、思考能力を得て、霊長類の頂点に立つと共に謙虚さを失い、情報を言語表現化する際に利己の観念で小細工できることを発見して、知らず、気づかずのうちに『相利共生の利』まで手離そうとしているのではないだろうか。



【7】理知系脳(言語系脳)と情緒系脳(動物系脳)



 一般的に視聴覚情報起因の顕現意識()は、意識閾から『空』化され、無自覚記憶閾へ保存されている、つまり非意識化されている記憶イメージが記憶再生作用との連携(言語刺激が索引コードの役割を負う)のもとで意識閾に出没していると言えそうである。



 人の思考作用は、五感によって身の回りの環境刺激を受けた場合に、それを統覚して意識閾に投影、主観的感情観念を形成展開させ、一方、無自覚記憶として、非意識化保存されている対立位にある理知的学習記憶を呼び覚まし、瞬時交替的に意識閾上に対置投影させながら適応や対応を検討しようとするはたらきであろう。


 一般に成人個々の人間特性をつかまえて議論する場合、その人がもって生まれた先天的資質機能に加え、生体発達の過程で備わる知的、情的記憶を始めとするもろもろの情報記憶因子をふくんだ「あれこれの性格・しかじかの人格者」という言葉を使って弁別評価する。

 

 生活集団内の人間同士の相互関係で、対人意識を中国古典の論語や四書五経に述べてあるような「かくあるべし」の言語系だけで左右できれば話しは簡単だが、人の心は、そういう単純な仕組みになっていないところに迷いや内面葛藤などの悩みが生まれ、心的労苦を味わうことは誰でも経験していることである。



世慣れた強い人というのは、さんざん回り道して、苦労したために、思考能力がみがかれており、柔軟な思考操作によって、対置観念の検討を速やかに終らせることができ、経験したものを非意識化して、新たな記憶再生材料とし、体得的に累積保持するコツを会得している人を云うのであろうと思う。


意識が固定せず自由自在に転ずる、いわゆる注意の自在な流転があってこそ、臨機応変・当意即妙な対応が可能になるのである。


 外界刺激を忌避せず適応することを受容といっており、受容が難しい事柄に遭遇したと感ずるときは、しばしば主観、客観の観念が対立葛藤し、意識閾において観念が停滞する。



 そしてこの種、内面的観念対立は、主観vs客観、感情vs理知、自我vs外界の葛藤と表現される。



対人思考の例では、心の中に「相互信頼」が優位を占める場合、エネルギー塊(人)と他在(他人)の間に調和へのベクトルが生じて、世の中は太平だろう。


しかし「不信・疑念」を覚える場合は、被害妄想的不安、受難恐怖などが生じ、騒乱を招く可能性だってあるのだ。



 特に、社会的に害をもたらす連想観念の例を挙げるなら、利害衝突から生まれる不信と裏切り、欺まん虚言等を伴う約束事の不履行などである。


その種の連想観念と結び付いた思い込みが言語情報化され、社会メデアシステムにのって拡散されて、人的エネルギーを大動員、


対象排除への国家間戦争のような生命を賭けた攻撃行動にまで発展するケースも、顕現意識(未那識)からの行動原理を基底に置いて、かぎりなき欲望刺激も是とする現実の世界では、数多く発生する。




【6】変化=進化か?



はじめのうち、個人(個塊?) の意識現象は、生命という何とも不思議な自己組織性をもつ生化学的分子集団=(エネルギーの結集塊)が自己の存続を維持するために備えることにした単純なウォッチング機能であったようだ。


 しかし、自然淘汰の力に対抗して、言葉(記号・符丁)を創造、身につけ、思考能力を使って学習しつつ進歩し、それも原始の当初は、素朴な意識現象の付随作用という程度の機能に止どまっていたものが試練を経るにしたがって、理知的レベルを高め、次第に素朴な自己防衛のためのウォッチング機能を離れ、複雑高度な計算や類推の機能として進化し、独り歩きを始めることになった。



 そして、人の集団である社会の人為に、学習成果を応用して、文明社会を築き上げたまではよいが、ついには集団間に、利欲追及型の支配的構造をもち込むまでになってしまい、人類は次から次へと、新たな問題をつくりだしてはその解決に追われつつ生活を送ることになったといえるように思うのである。



 人為の社会現象、すなわち集団ごとに構築されている政治体制、経済システム、文化現象の根源に横たわる、情報観念と呼ぶものの生態にちょっと批判を交えて眺めてみると、上記に述べたような皮肉を禁じ得ない。


しかも意識される情報の生い立ちは自己(個体)の身体に宿る素粒子の運動エネルギーが、他在エネルギーと対立、衝突することから発生していると結論づけてよいような、意識現象に随伴しながら思考がもつ構造的相対性を象徴する材料が少なからず発見されてくる。



 覚醒時、普通に顕現してくる意識は、おおざっぱにいうと、外界との接合面に生ずる違和状況を情報にしているらしく、自己と外界との間のエネルギーがほぼ釣り合いを保ち、程度を越える違和状況になければ、感覚情報が創生され、脳細胞に受信されていても、意識閾に浮上させて、わざわざ思考する必要はない。


 したがって、自己にとって重要(危険やその反対の興味をよぶ事柄)と思う対象をサーチして本能的に注意を動かし、思考する必要のない情報は、注意の方向を変えて無視し、非意識化してしまう。



 言語を持つわれわれ人間個体の意識は、本来、注意をもって対象を捉え、生命の安全保障上考えなければならない情報および欲望達成に利益する情報だけを意識閾に止どめて思考する仕組みになっている。


したがって、外界と釣り合いがとれており、思考する必要がない総ての情報を意識閾から「空」(非意識化)ずることを自覚しないままにおこなっていると言えるのである。


(転ばぬ先の杖で注意が肝要という諺の由来は、これか?)



のため、脳裏に浮かぶ顕現意識などは、ごくわずかなもので、構造的見方をすれば、海に浮かんで、海面から頭をだしている氷山に例えられる。


ふだんの日常行動のほとんどは、海面下に隠れている無自覚的下意識に蓄蔵している経験イメージ記憶が動機となって、行動を支配するのだと洞察している研究者もいるのである。


 一般の人はこの無意識支配に、概念による意思的修正、すなわち有無、大小、善悪、是非、優劣、勝敗、貧富など概念思考で予測を加え、思惑や打算を込めて行動をアウトプットするが、


『禅』的生き方を指向している人の場合は、往々にして悪智にとらわれ易い概念的分別思考を否定排除し、『直観』にもとづく機敏で適宜な判断を可能にすべく、座禅や作務を通じて悟りの境地をつかみ取ろうと、修行に励むのである。




量子力学では、時間の連続的流れの中で、粒子性の量子が波動性の量子に変わる現象は、エネルギーの相転換に関係するものと考えるが、変化点時間は特定できず、いつ変わるかは予知、予測ができないとしている。



 つまり線形概念(変数や関数を使う数理予測)では変化点座標を確率でしか言えないという意味で、今のところ、因果律に絡めた決定論は導き出せないが、そういう物理現象が認められるというのである。

 論法を逆さにすれば、相転換の現象はまだ非線形の概念(カオス)として考えざるを得ない現象も多数あって、すべてに決着がついたわけではないという意味にもなる


だが一応量子論に依拠する仮説の延長として、人間の身体、精神の問題に当てはめて考えると意識現象は、地球上の一点に生体動物として身を置くとき、感覚器官細胞分子を構成する素粒子に起きる粒子性量子から波動性量子への変化点を、

情報創作(時間の進行の中で生・滅・滅・生が組み合わされれば、2進法的情報が創生される)に利用し、これを電磁気的エネルギー情報(生化学的な過程を経て電気的パルス信号)にして、


神経組織を経由、脳の細胞分子と送受しているということまでは説明できるけれど、その相の転移が何時・何故起きるかのメカニズムは不明であって言及できないという意味になる。



 量子力学論によれば、光子は、常に質量0(ゼロ)で光速度だけをもつエネルギー量子(物理学上の定説)だと言われ、速さを失うとたちまち消えてしまうのだそうだ。



目の網膜に光エネルギーとして、宇宙から送られてくる光子の運動エネルギーに相応て、自己の運動エネルギーが干渉を受け、相の転移を起こす素粒子を備えていなければ視覚の情報は生まれない筈である。


空気分子の波動エネルギーを捉える聴覚器官、皮膚界面の熱エネルギーを感知する触覚器官、そのほか臭覚器官、味覚器官などなど一言でいえば意識に直結する五感覚器官は、この世(時空世界)における他在エネルギー情報の創生を担うセンサー器官としての位置づけにあるといってよいものと思う。




【5】意識現象の不可解性



 生命という不思議な働きによって、この世に出現する人間について、新世代の進化論的生物学の立場ではどのように説明しているのか。



 近年、ユニークな遺伝子論で注目されているリチャード ドーキンスの言うところを一言に要約すれば次のごとくである。



 「遺伝情報をもった自己複製分子(DNA分子)が、自らの種を保存するための情報にもとづき、エネルギーを化学的に集結させて身体細胞を作り、これを遺伝子の乗り物とする。


しかし、作られた乗り物は寿命があって或る期間存在して分解してしまう。



 だが利己的な遺伝子は身体細胞分子の分解をあらかじめ想定して、DNA情報の中にプログラムしており、生存期間中に行う性交配によって新しいDNA分子を生成、系列的DNA情報が不滅に続くようにしている云々」というものだ。



 天才ドーキンスの説論は行動生物学者らしい観点から意識を扱っており、進化に影響している意識的行動をダーウィン以降の近代思想と科学的知識によって再構築してみせたものであって、意識現象そのものの由来に触れる論説ではないようだ。



 しかしながら敢えて、ドーキンスの「遺伝子乗り物」説に仮托し、私の本稿論旨を一言で述べれば、人間個体の生成から成長、さらに滅亡への移ろいを眺めてみると、遺伝子が作った乗り物(身体)が或る期間存在する時間中、身体を構成する感覚器官の素粒子群が粒子性運動と波動性運動を続けて情報創生活動を行い、意識現象というものを備えるが、寿命がきて身体分子結合の解散(死)を迎えると共に情報創生活動も、機能を失ってしまうということになるだろう。



 意識現象を物理論的に表現するのは難しいが、私は次のように解釈できないだろうかと考えている。





【4】直観で把握する世界は不立文字



 釈迦も達磨も、(仏教・禅の祖師らも)彼らは「空」を実感して、それを言葉にしただけであって、修行のすえ、自身の生体物質分子(素粒子)が時の流れと共に絶え間なく相の移転をすることを実感したからであろう。


 知識学習・理論の考究結果ではなかろうと思う。

すなわち、辛さに耐えて修行していたら未那識(自覚的顕在の意識)を注意のおもむくままに空ずることができるという体験をし、

執着や欲念を離れて生られる生き方を、自分で掴み取った人たちなのである。

 勝手な解釈ながら、悟りの「空」は自覚的イメージ意識が3次元立体の空間相から1次元的時間相に転換する機縁的現象とともに、そこにおきた感性の叫びを表現した合図であり、名目付けの言語記号でこの世を文節する認識方法では、暗在している物質および暗在現象を包括表現できないため、仮に空の文字(or音信号)を宛てたのであって、この世もあの世も含めた視座で、宇宙的存在を直観で把握すると「空」と表現する以外ないのだということを示唆する意味の語であろうと思う。



 さらにその中身には、何が包まれているかを考えると、この世を、空間的3次元の相で把握する場合は、世界観モデルの中に、事物の秩序として言語概念が生成する因果律(時間の推移によって生ずる原因と結果の繋がり) が必ず含まれ、それが純粋を妨げるバイアス(偏り・ひずみ)となる。


しかし一方、この世を一次元的時間の流れという相で把握する場合は、イメージ自体が直観による内面への投影となる。


それゆえ言語意味に固有の、抽象概念によるバイアスがカットされ、すべての事象が純なまま内界に投影される。

過去および未来を裁断し、常に今現在の境涯になりきれば、主観的に、物がもつ秩序や因果の法則は没消してしまうということがおきるのである。

(これは、鳥・犬・猫等動物個体としてのプリミティブな非言語的外界把握に類似すると推察される)


感覚的には、連続する時間の中で注意の向くものが瞬時、不連続にイメージとして『こころ』に現れる


次に注意が転換すれば、瞬間に没消する脳活動のイメージ現象を意味や解釈を付けずにそのまま受け取るというか、

連続する時間の中で、注意が不連続なイメージを伴って現れ、

時と共に流れ消える脳内意識現象のDevelopment(修行による新たな心理現象の発見体得)であって思想ではない。


「空」は、表現上あるいは理論上、生・死の問題としてあつかわれることが多いけれども、空=死ではないし、死=空でもない。


「空」は生きている人の脳内意識現象の一つを表現したものであって非思想、非理論だというのが本当だと私は思っている。


 しかし、このような言い方は、「原子核のまわりを回る電子は、太陽のまわりを回る地球の関係に似ている」と中学校教師の説明を聞くようなもので、聞いたからとて日常の生活感情に何らかの変化をもたらす理屈とはならないものだ。



その点釈迦の諸法空相も「意識現象は何故有るのか?どんな意味を持つものか?」の問いに対する答えにはなっていないので、聞いても聞かなくても、本人の意識がすぐその場でグルリと変わってしまうわけでもない。


 ポイントは、意識現象が、人生の選択や行動と切り離して考えられない以上、幼児のように純粋で素朴な心で生きたい、あるいは自分が理想としている無邪気で自由な生きかたを欲しいと思ったら、理知とは何か、自我とは何か、そして真の生き甲斐とは何かを自分自身にたずねてみることである。



話を戻そう。

動物も人間も肉体(物質)と精神(意識)をあわせもつ。すなわち同一性を保ちながら両面の働きをあらわす素粒子エネルギーを生存活動に用いている。 わけても人間は精神機能を発達させ、極めて複雑、高次元な脳機能をもつ動物だ。



 記憶能力を基礎に、既存の高次思考能力が獲得された経緯は、さだかではないけれども、[人類は、記憶の延長上に心象表出記録を発明し、これを上手に利用して自然の淘汰をまぬかれる工夫をあみ出し、同種族の繁栄を成功させてきた動物]という評価ができるように思う。 


そういう評価が与えられる背景には、シンボル系の発展、わけても言語(記号・符丁)の存在が重要な役割を担っている。



 言語は心的現象の表出だから個々の体験、経験、つまり個々の意識現象に対し言葉を駆使して集団の場にさらし出し、相異や対立、さらに共通性を明らかにすると共に、人同士の紐帯の役割を果たし、抜きん出た生存力を発揮することができた。 言語で意識現象の情報を交換し、思考し、その結果をまた表現表出してみる、というような循環の中で、生存に有効な技能情報や文化は次第に、記録され集積されて進歩を遂げてきたのである。



 われわれは言葉を獲得し、それを使った思考能力を身に付けて、物や現象を観察対象にした体験の心象を組み合わせ、得られた考究成果を広い分野にわたって、抽象言語で紡ぎながら体系化したうえで、これを知識学問と称している。







【3】「色即是空」談議



知識の乏しかった大昔の時代、釈迦の説は、まさに空前絶後、出色の論というべきで意識を


「阿摩羅識=アマラシキ=本能に近い深層の無自覚意識」。

「阿頼耶識=アラヤシキ=実態は経験記憶で無自覚的意識」。

「未那識=マナシキ=自覚的顕在意識」。


と機能分類的に三区分して解明しようとしている点などは、現代の心理学も参考にして、原語のまま取り入れてもよいくらいのすぐれた見解だと思う。



 現に物質科学で先進と評判高い西欧では、脳内観念を意識とし、観念でないものを無意識として神の司るカテゴリーのこととしてきたが、ただ二つの概念のみでは人間の意識現象を扱えきれず、仏説の阿頼耶識に該当する部分に潜在意識という概念区分を設定(S・フロイトの精神分析)して、人の心の情報記憶機能を考究せざるをえない状況に至ったではないか!


釈迦が直観から出した結論と「物は何であるか」を物理学的考察でたどり着いた結論と、どう違うかを較べてみれば、釈迦の結論、確実に神経学的現象論であると同時に「存在とは何か」に答える宇宙・世界観を述べた思想でもあるといえる。


 言葉は違っても、物理学とて「万物流転」「諸行無常」を見事に解き明かす科学であり、両者が期せずしてこの世の実相を述べたことは究極において一致しているように思う。


 時間の流れの中でエネルギーの相移転が起きることを意味する無常がこの世の法則だという見解と、形の有る物でも、「物の写しが意識に浮かぶ」のであって、実在・実存は意識から離れていることを示す「諸法空相=時間を主軸に展開する生滅観」という釈迦の主張は、この世において実在の元となっているのは原子であり、素粒子あるいは量子であると説明する現代の物理学の考え方と変わらない。