【3】「色即是空」談議



知識の乏しかった大昔の時代、釈迦の説は、まさに空前絶後、出色の論というべきで意識を


「阿摩羅識=アマラシキ=本能に近い深層の無自覚意識」。

「阿頼耶識=アラヤシキ=実態は経験記憶で無自覚的意識」。

「未那識=マナシキ=自覚的顕在意識」。


と機能分類的に三区分して解明しようとしている点などは、現代の心理学も参考にして、原語のまま取り入れてもよいくらいのすぐれた見解だと思う。



 現に物質科学で先進と評判高い西欧では、脳内観念を意識とし、観念でないものを無意識として神の司るカテゴリーのこととしてきたが、ただ二つの概念のみでは人間の意識現象を扱えきれず、仏説の阿頼耶識に該当する部分に潜在意識という概念区分を設定(S・フロイトの精神分析)して、人の心の情報記憶機能を考究せざるをえない状況に至ったではないか!


釈迦が直観から出した結論と「物は何であるか」を物理学的考察でたどり着いた結論と、どう違うかを較べてみれば、釈迦の結論、確実に神経学的現象論であると同時に「存在とは何か」に答える宇宙・世界観を述べた思想でもあるといえる。


 言葉は違っても、物理学とて「万物流転」「諸行無常」を見事に解き明かす科学であり、両者が期せずしてこの世の実相を述べたことは究極において一致しているように思う。


 時間の流れの中でエネルギーの相移転が起きることを意味する無常がこの世の法則だという見解と、形の有る物でも、「物の写しが意識に浮かぶ」のであって、実在・実存は意識から離れていることを示す「諸法空相=時間を主軸に展開する生滅観」という釈迦の主張は、この世において実在の元となっているのは原子であり、素粒子あるいは量子であると説明する現代の物理学の考え方と変わらない。