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その7 なぜ安曇野に移住したのか

長野県の縄文文化は北へ流れる千曲川~信濃川水系と諏訪湖から南へ流れる天竜川水系に発達していました。松本・安曇野地域に弥生文化がやってくるのは教科書の年代から遅れること500年と言われています。
安曇野は未開拓の地・・人が住めない荒れ地だった。
河川の氾濫地域だったのかもしれません。
安曇野は 他の部族と争わずにすむ・・・ 空隙地帯だったから。


ひょっとすると、安曇野は昔々「湖底」だったからかも知れません。
湖だったかも知れないと思わせる いくつかのトピックスをあげてみましょう。



【地名】
青い線(標高600m)より上には窪海渡(ちひろ美術館:610m)、南海渡(鼠穴:620m)、北海渡(アルプスあづみの公園:650m)、梶海渡(神林:610m)という地名があります。
赤い線(標高580m)には宮渕島内という水辺を示す地名が並んでいます。


安曇野の低い場所は人が住めないところだったようです。松本市立考古博物館によると松本市内の縄文時代晩期の遺跡は中山あたり標高が650m前後、弥生時代後期になると標高が600m以下の北部に(宮渕本村、県など松本城あたりからも)多く発見されているそうです。確かに穂高郷土資料館によると安曇野の縄文遺跡は穂高牧の他谷(たや)遺跡や穂高烏川左岸の離山(はなれやま)遺跡ですが、標高は650m前後です。 


ちなみに標高600mの湖だったとすると青い線の内側は湖水で満たされていた・・・
標高600mの主な地点:Vif穂高、安曇野山麓線、鼠穴、ちひろ美術館、松川村大門交差点、池田町二丁目交差点、花見、滝の台、池田町山辺の道、池田町北アルプス展望美術館、明科七貴、(篠ノ井線は550m)、松本市図書館、県の森公園、筑摩神社、野溝木工、大久保工場公園団地、島立、三郷明盛、三郷温、住吉神社、田多井


【水湿地植物】
昭和55年3月、松本市県の森(あがたのもり)(標高600m)の発掘調査で「イヌドクサ」の地下茎が発見されました。穏やかな水湿地に育成する多年生シダ植物です。湖の淵に生えていたのではと思われます。その後、この古代イヌドクサは芽を出したそうです。


【遺跡】
 
標高547mの穂高神社境内遺跡からは古墳時代後期から平安時代にかけての住居跡が6軒発見されています。(縄文・弥生時代ではない)
  
しかし標高542mの安曇野市穂高交流学習センター みらいの三枚橋・藤塚遺跡からは縄文式土器が発見されたといいます。このことから湖底に縄文人が住んでいたとは言いがたく、標高530m(緑の線)あたりの湖を干拓したのでは?とも考えられます。


奈良・平安時代の遺跡は147号線沿いに(柏矢町から穂高町まで)南北に並んで見つかりました。これを水辺とすると緑の線(標高530m)の内側はまだ湖だったかも知れません。


ただ、安曇族が標高600mの安曇湖を干拓したのではという仮定は否定されてしまいます


旧石器・縄文時代



縄文後期に女鳥羽川遺跡(信州大学医学部附属病院そば:標高600m)より下の場所では遺跡が見つかっていません。

弥生時代



弥生時代で一番低い位置の遺跡は穂高の三枚橋・藤塚遺跡(安曇野市穂高交流学習センター みらい:標高542m)です。

古墳時代



古墳時代は円墳が穂高有明中房川と烏川の間の標高600mより上の場所に古墳が集中して作られました。

奈良・平安時代



奈良・平安時代で一番低い位置の遺跡は穂高の三枚橋・藤塚遺跡(安曇野市穂高交流学習センター みらい:標高542m)です。


【古墳】
穂高古墳群(円墳:九州方式 約1500年~1300年前)は山麓線(標高600mより上)に80基も集中して見つかっています。安曇族が自分たちの居住地域より上に造ったものと考えられます。(お墓は水辺には造りません)



穂高町古墳分布図


長野県内には約3000基の古墳があります。特に多い地域は善光寺平、伊那谷で県全体の70%を占めます。

松本平には約200基の古墳があり、そのうち安曇野市には約80基が存在し、そのほとんどが穂高の中房川(なかぶさがわ)と烏(からすがわ)の間の標高600mより上部に集中しています。
今から約1500~1300年前に作られた古墳で、すべて横穴式石室を持つ円墳です。

松本にある弘法山古墳は前方後円墳であり、穂高の円墳とは異なる作り方をしています。


【泉小太郎伝説】


安曇野は昔々「湖」でした。犀(サイ)に乗った小太郎が湖を堰き止めていた山清路の岩を突き崩したため、水が一挙に引き、広大な安曇野が生まれたとの言い伝えがあります。川の名前も犀川(さいがわ)となりましたとさ。この年代がわからないのです・・・。

『信府統記』に泉小太郎に関する記述があるので、以下に要約して紹介いたします。
景行天皇12年まで、松本のあたりは山々から流れてくる水を湛える湖であった。その湖には犀竜が住んでおり、東の高梨の池に住む白竜王との間に一人の子供をもうけた。名前を日光泉小太郎という。しかし小太郎の母である犀竜は、自身の姿を恥じて湖の中に隠れてしまう。放光寺で育った小太郎は母の行方を捜し、尾入沢で再会を果たした。そこで犀竜は自身が建御名方神の化身であり、子孫の繁栄を願って顕現したことを明かす。そして、湖の水を流して平地とし、人が住める里にしようと告げた。小太郎は犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った。


北に流れて日本海にそそぐ川は犀川一本しかありません。しかも生坂の金戸山付近は谷幅が90mしかありません。山が崩れれば簡単に封鎖されます。その部分を掘削したのかも知れませんね。

もし、移住してきた安曇族が古墳造成の土木技術を駆使して安曇湖の水抜きをやったとしたら、それはそれは豪快な集団だったかも知れません。(推論にすぎませんが・・)



安曇族は550年ころには、この信濃の未開の地(安曇野)に移住し、コツコツと田畑を開拓しながら 生活の基盤を固めていき、安定した生活は250年間ほど続いたものと推察されます。