和多志大神が、お慶びなので。③ | みらくる☆彡

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つづき

その5 移住はいつなのか

残念な事に「移住」に関する文献、伝承が無いのです。穂高や有明山麓に分布する古墳は1500~1300年前のもので、畿内型古墳とは異なり、北九州の古墳の作りと一致するといいます。


このことから博多のあづみ族が信州安曇野に移住したのは6世紀といわれています。現在21世紀ですからおよそ1500年ほど前になります。
つまり、西暦550年頃には既に到着し、定住を始めていたと考えられます。坂本博氏の文献では最も早くて530年ころと記載されています。


ではその頃 なぜ 博多のあづみ族が信州に「移住」しなければならなかったのでしょう? ・・・・・つづく

(写真は安曇野の西に大きくそびえる有明山(ありあけやま)2268m)



その6 移住の理由(わけ)


博多の東部に暮らしていたあづみ族がなぜ信州に移住したのか?
博多に住めなくなった理由を探してみましょう。

①博多の町の壊滅??...
②移住を命ぜられた??
③生き延びるため逃避行??

6世紀は北九州では有明海を囲む筑紫(福岡)肥前(佐賀・長崎)肥後(熊本)そして豊前(福岡東部・大分)等を統一した豪族の磐井(いわい)を首長とした連合国家が出来ていました。



①磐井は博多の町の糟屋一帯の灌漑を目的にコツコツとダム(水城・みずき)を造っていましたが、没後、573年夏の台風で決壊。御笠川下流の箱崎一帯(あづみ族居住地区の一部)は全壊・全滅という伝えがあります。
しかし、九州には台風は毎年やって来ます。台風ごときで、稲作が盛んだった博多を捨てて、寒い寒い信州にこぞって移住はしません。
②移住を命ぜられたくらいの理由で穀倉地帯となった安住の地からやすやすと移住するような九州人はいません。
③527年~528年にかけて有明連合とヤマト軍との戦(いくさ)があり、有明連合は敗れた。

 「磐井の乱」・・・これが移住の原因であると思われます。

有明連合の首長である筑紫君磐井(つくしのきみいわい)は、ヤマト軍と1年半にわたり交戦したが、敗れ、殺されました。生存者の男性は耳をそがれ、手に穴を空けられ子供までが奴隷にされたといいます。磐井の根拠地「八女」(やめ)の岩戸山古墳(いわとやまこふん=磐井の墓として生前造っていたことがわかっています)の石人・石馬まで徹底的に破壊されてしまいました。(写真は岩戸山古墳の石人・石馬 首が無い・手が無い)

奇跡的に戦乱を免れた博多の町には磐井の息子があづみ族の娘をめとって住んでおりました。当時日本最大最新の港湾施設である「糟屋の屯倉(かすやのみやけ)」を献上しても、ヤマトの厳しい追求・要求は収まらない。当然、ヤマト政権は磐井の息子も殺害しようとしていたと思われます。

③の 生き延びるために逃げてきた。

磐井の息子を死なせないために・・・・・ あづみ族は海運業だったため、朝鮮はもとより、日本海沿岸との人々との交易があり、その人たちにも助けられながら、ヤマト政権の影響が及ばない(当時は蝦夷地)信州の山奥まで 磐井の息子を連れて 逃げてきたと考えられます。



※ヤマトとの戦いの原因は、有明連合はヤマト軍の朝鮮出兵のジャマをした悪者だからと国定歴史書の「日本書紀」に書かれています。しかし近畿のヤマトが多量の輸送船をもって自からすすんで朝鮮へ出兵するはずも無く、玄界灘の航行に慣れた有明連合に「行け」と言ったものの、有明連合は仲良くしている朝鮮への出兵を拒否。結局、九州勢は近畿勢に難くせをつけられ、争ったが、戦に負けてしまったので悪者にされたのでしょう。
「磐井の乱(527年6月3日~528年11月11日)」は古墳時代後期、古代最大の戦争と位置づけられています。


地図中ほど久留米の南に磐井の根拠地の八女(やめ)があります。

※調査に行った岩戸山歴史資料館(八女市)は残念な事に2015年8月をもって閉館。

※平成11年(1999年)、古賀市鹿部(ししぶ)土地区画整理事業による発掘調査の結果、みあけ史跡公園が「糟屋の屯倉」ではと言われています。福岡県古賀市美明1丁目4番11外。


 磐井の息子とあづみ族がどうして信州の安曇野を選んで逃避したのでしょうか・・・