祭神
- 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
- 素戔嗚尊(すさのをのみこと) - 当地で疫病が流行った際に、鎮まることを祈って京都祇園の八坂神社より勧請された。
かつての祭神
当社蔵、最古の棟札は弘治2年(1556年)の再建時のもので、当地が小田原北条氏の領地であったことから北條藤菊丸(北条氏照)が大壇越(金子五千疋で「鈴鹿大明神再造成就処」)、および地域の領主若林大炊助であった旨が記されているが、これには近世初頭の改竄が見られる。またこの再建時には、京都祇園の八坂神社の祭神「素戔鳴尊」が合祀されている。
この日はこちらだけではなく、
どちらに足を運びましても、京の都
水の都、京都
を、観じていたのでした。
海老名市上郷に鎮座する有鹿神社と争った説話縁起(有鹿と鈴鹿の神争い)が存在する。このことは神奈川県神社庁著のかなしん出版『かながわの神社・ガイドブック』で以下のように紹介されている。
- 欽明天皇の御代(539年?〜571年?)、伊勢鈴鹿から当地(座間)に遷ってきた鈴鹿神は財宝を持ち豊かに暮らしていた。一方、その頃相模国勝坂にいた有鹿神はこの財宝を横取りしようと当地にやってきて争いになったが、諏訪明神と弁財天の加勢で鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷へ追い払われた。それ以来、有鹿神は勝坂へ帰ることができなくなったという。
また、『座間古説』では当社と有鹿神社の関係性をよく表す以下の伝承を冒頭で紹介している。
当時座間7ヶ村の内の一つであった勝坂(現・相模原市)に有鹿の蛇神が棲んでいた。有鹿は鈴鹿の宝玉を盗むため「鈴鹿の森」に絡まり機会を狙っていたが、鈴鹿の社内にいた梨の木の諏訪明神と諏訪の下(海中)の弁財天がこれを追い払い、続いて谷の深(やのふけ、桜田一帯の低湿地帯)で三神がそれぞれ大蛇に変身して有鹿と戦った。これには適わず、有鹿は相模川沿いに敗走し海老名で有鹿大明神(海老名総鎮守)として祀られたという。その後、有鹿明神の神輿は勝坂まで巡行していたが梨の木の諏訪坂を避けて進んだものの、鈴鹿の森の西方で神風に遭い巻き落とされてしまった。その場所(現在の座間小学校の辺り)は「輿巻」(こしまき)と呼ばれるようになり、それ以来、有鹿明神の神輿は梨の木の諏訪坂を通らなくなった。
さらに、『座間古説』では両神社における祭礼の関わりや歴史についても以下のように紹介している。
当社の神輿はかつて毎年6月7日に鈴鹿の森を出発し、大川原(新田宿の相模川原)にて「浜降り」を行った後、14日まで宮川家の前で休んでから還御していたが、この日はちょうど有鹿明神の神輿が還御する日でもあった。この際、前述の敗北の経緯から、有鹿神は石に姿を変えて馬の背に担がれながら還御したと伝えられ、当社の神輿が境内に入るまで有鹿明神の神輿は待機してから通る習わしであったという。有鹿の氏子を困らせるために、鈴鹿の神輿の出発を遅らせるようなことがあったといい、双方が争ったこともあったというが、享保の頃から有鹿神社の祭礼(水引き祭り)の神輿が勝坂に向かうのに際して、河原宿の南で鈴鹿明神の神輿が出迎えて先導し、勝坂にて祭りを共にするようになった(この変化について『座間古説』では本来の習わし(前述)と異なっていることから、「儀礼を欠いたやり方である」と記述している)。これは明治初期まで続いていたが、明治8年(1875年)に座間宿村が飯綱権現社(現・座間神社)を勧請して氏子から離れると、有鹿と合同の神輿渡御も行われなくなった。
上記の伝承は、海老名周辺(有鹿信仰)の人々と座間郷(鈴鹿信仰)の人々の水を巡る争いともされる(「有鹿神社#水引き祭り」も参照)。また、当地に古くからあった地神と新しくやってきた高位の神との勢力争いが伝説となった可能性も指摘されている。なお、勝坂には有鹿神社の奥宮とされる「有鹿谷」(勝坂遺跡西側の谷)が現在もあり、また同社の中宮はかつて前述の説話縁起にも出てくる諏訪明神(現在も同地付近に所在/地図 、石楯尾神社の論社の一つで当社の古社ともされる、現在は当社の兼務社)の辺りにあったとされるが、中世期に衰退し海老名に遷されたという(「有鹿神社#本宮と奥宮、中宮」も参照)。