エルサレムの住人であったマルコの名前がはじめて現れるのは『使徒行伝』[2]であり、天使によって牢獄から解放されたペトロが「マルコとよばれるヨハネ」の家に行ったという記述である。
ヨハネ(マルコ)はパウロの最初の宣教旅行にバルナバと同行したが、パンフィリア州から一人エルサレムへ帰ってしまった。パウロはこのことを根に持っており、第二回宣教旅行ではパウロがマルコの同行を拒否してバルナバと喧嘩別れしてしまう。マルコは結局バルナバと共にキプロス島へ向かった。これは西暦50年頃のことと推定される。使徒行伝ではマルコについての記述はここで終わっている。
一方、『フィレモンへの手紙』[3]では協力者の一人としてパウロはマルコの名前をあげている。獄中書簡である『フィレモン』の成立時期は一般に上述の事件よりあとと考えられており、ある説では、決別とフィレモンへの手紙の間に、パウロとマルコが和解したと考える。また、パウロの書簡かどうか説が分かれている『コロサイ人への手紙』[4]では、「バルナバのいとこ」マルコがパウロの協力者として挙げられている[5]。
またマルコは伝承によればアレクサンドリアの教会の創建者であり、正教会(ギリシャ正教)とコプト正教会(非カルケドン派)の両派で初代アレクサンドリア総主教とされている。
マルコは正教会では七十門徒のひとりとされ、「使徒・福音者」と称せられる。また初代アレクサンドリア総主教に数えられる。
マルコおよび『マルコの福音書』はしばしばライオンのシンボルであらわされる。これは『エゼキエル書』[6]に登場する四つの生き物に由来し、それぞれ四人の福音記者と福音書にあてはめられている。
828年、ヴェネツィア商人はアレクサンドリアにあったマルコの聖遺物(ないしそうみなされていたもの)を、ヴェネツィア共和国(現イタリアのヴェネツィア)に運んだ。そして聖マルコはヴェネツィアの守護聖人となった。ヴェネツィアの国旗は聖マルコを指す聖書を持った有翼の金のライオンであり、ヴェネツィアの大聖堂はサン・マルコ大聖堂と名づけられている。その前のサン・マルコ広場をはじめとして、ヴェネツィア共和国の勢力の及んだ各地には今も有翼のライオン像が残っている。
近代以降の高等批評を受け入れる研究者たちの間では本書簡の著者はガリラヤ湖の漁師をしていたシモン・ペトロ本人とは思われないという見解で一致している。なぜなら、本書簡の洗練されたギリシア語がペトロその人と結びつかないことと、生前のイエスを知っていることを示す記述が一切ないからである。本書には旧約聖書からの引用が35箇所あるが、すべて『七十人訳聖書』(ギリシア語旧約聖書)からの引用である。実際のペトロは『七十人訳聖書』のような形の旧約聖書には親しんでいなかったと考えられている。アレクサンドリアのクレメンスなどはペトロのために書記として勤めたのがマルコであったという。
本書の著者に関する仮説の一つは、書簡の終わりに現れる「シルワノ」なる人物が著者ではないかというものである。5章12節には「忠実な兄弟シルワノによってこの短い手紙を書いています」とある。そのあとの部分で「バビロンにいる人々」とあるが、当時のキリスト教徒の間で(『ヨハネの黙示録』の記述から)「バビロン」といえばローマのことであった。このことから考えると、本書簡の成立時期は明らかに黙示録よりあと(90年~96年)ではないかと考えられる。
ある学者たちはこの書簡の著者はペトロでもシルワノでもなく、成立もドミティアヌス帝の時代(81年~96年)ではないかと考えている。なぜなら本書簡では迫害について言及されているが、迫害はペトロも殉教したネロ帝の時代まで起こっていなかったからである。
もしシルワノ本人が書いたのなら、もっと遅い時期の成立ということになる。156年に殉教したポリュカルポスおよびこの手紙に言及したパピアスから考えれば2世紀半ば以降という事になる。エイレナイオスとテルトゥリアヌスもペトロの第一の手紙に言及しているが、170年ごろのムラトリ断片の正典表には含まれていない。これは当時の西方でペトロの手紙一が受け入れられていなかったということである。しかし、『ペトロの手紙一』および『クレメンスの第一の手紙』、『ヘルマスの牧者』の三つはローマ教会の優位にふれた最初期の書物であることを考えると、これが正典表からはずされているのは奇妙なことである。
「陰府」とペトロの手紙一
本書の記述で注目すべきものは「終わりのときに、死者にまで福音が告げ知らされ、肉において裁かれ、神のうちに霊によって生きるようになる」(4:6)というものである。この表現は、福音書(マタイ16:18他)や使徒言行録2:27、ヨハネ黙示録(1:18他)に出てくるハデスの表現と共に、後に使徒信条に「陰府にくだり」という箇所で書き込まれることになり、以降のキリスト教思想において「陰府」の存在根拠のひとつとされることになる。