†空海☆最澄☆泰範† | みらくる☆彡

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* http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage68.htmより転載 *



泰範(778~?)。
最澄が彼には愛情を持っていたのでは、
と言われています。
しかし彼は空海の元に走ってしまう。



「泰範」なぜ彼は空海の元へ走ったのか
泰範(たいはん)‥

空海が最澄と袂を分かつ「引き金」になった男です。


彼の師である最澄の、
泰範に対する「溺愛」ぶりはあまりにも有名な話で、
その最澄を蹴ってまでも空海の元に走った彼。

なぜ泰範は空海の元に走ったのだろうか‥


最澄から天台学を学び、
若くして、叡山の学頭(一宗の学問の統括者)になった彼は、
最澄が唐に渡って本格的な天台学を学んできてくれると願ったのでしょう。

しかし最澄は唐にて天台学を学ばずに、
天台に関する経典を国費で集めると、
すぐ帰国の地に付いたのでした。

そしてそれらの経典を叡山に据えて読むことになったのでした。

このように経典を読むことによって理解する、
「筆授」(ひつじゅ)と言われる方法で叡山の天台は成立してきたのでした。


しかし当時の最澄は、
南都六宗(奈良仏教)との教義上の諍い、
叡山の整備などで叡山にいる時は殆ど無く、
各地を奔走している。これを見た泰範はどう思ったか‥

やがて泰範は最澄に
「謹んで暇を請う」という手紙を書き、
近江にある自坊に帰ってしまう。

最澄はその時期、早くから遺書を公表して、
泰範を叡山の総別当、
つまり自分の後継者にも任命している。

それでも泰範は出てこようとしない。


最澄が空海から高雄山寺にて、
最初の灌頂を受けた時も、
「一緒に受けようではないか」という手紙を送ったが、それも断る。

そして二回目の灌頂時に、
ようやく泰範は最澄の要請に応じて出てくるのでした。

このときが空海と泰範とのファーストコンタクトであったわけです。

天台学にみる密教、
天台宗には「遮那業」(しゃなごう)という密教部門があるのですが、
それとは遥かに違う最先端の完成された密教。

空海の話、
灌頂の儀式など触れる全てが新しく、
新鮮なものに泰範には映ったことでしょう。

例えて言えば、
最新の電化製品を目のあたりにしたような驚きがあったはず。

そして自分の師とも言える最澄が目の前の空海から灌頂を受けている。

泰範が空海、
つまり真言密教に魅せられたことは間違いないでしょう。


そのまま泰範は、
自坊やまして叡山には帰ることは無く、
そのまま空海のいる高雄山寺の南院に自坊を造って残ってしまうわけです。

最澄の慌てぶりは想像に出来ます。

泰範が「自発的に残った」というのは彼自身認めたくない、
そこで、
弟子の一人の円澄(えんちょう)を密教を学ばせるため高雄山寺に残して空海に
「泰範も頼む」と依頼をしている。

つまり泰範が自発的に残りつつも、
最澄が泰範を依頼したかたちにしたわけでした。

最澄の人柄の良さ以上に慌てぶりが見て取れるわけです。


その後最澄は熱烈なラブコール(手紙)を送り続けましたが、
泰範は無視を続けて、叡山には帰ってこようとしない。

恐らく空海は、それらの手紙を読んだはず。

そして密教を実践ではなく、
経典を借りて理解しようとする最澄の態度、
「理趣釈経」の借用を断った経緯などを考えると、
更に最澄に対する険悪感が増したことでしょう。


そして最澄が泰範に送った最後の手紙の一文、
「法華一乗ト真言一乗ト何ゾ優秀有ラン」(自身の天台体系と空海の真言体系を比べて、
決して優劣はないぞ)に激しく反応した空海。

その返事として、空海は泰範の名を使い、
「代筆」として最澄に手紙を送りつけたのでした。

それまで何度も最澄と手紙のやり取りをしてきた空海。

文面を見れば、
これは空海が代筆していると最澄はすぐに気付くはず。

空海はそれを知りながらあえてそうしたのでした。


この手紙の中で泰範(実は空海)は、
「法華も真言も優劣優劣がないなどという、御高説にたいして黙っていること出来ませぬ‥」というくだりから始まって、
最澄の天台と真言には明らかな優劣があることを、
したためたのでした。


最澄はこの手紙が、
空海からの断交状と理解したはず。

これ以来、
最澄と空海のつながりは切れてしまったわけです。

それ以来最澄は閉鎖的になり、
叡山に厳しい統制(規則)をしいて、
自分の弟子が他宗に流れることをとどめるようにしたのでした。


その後泰範は、
東寺が真言宗に変えられた時に定額僧(ちょうがくそう:真言宗における高僧のこと)に命じられたことと、
高野山を空海がひらく時に、
空海の弟子である実恵(じちえ)と共に奔走した位で、
ほとんど無名に終わっているのです。


そう考えると、泰範という男は、
最澄がそれほど執着するほどの逸材だったのか、
最澄の思い過ごしだったのか‥
「空海の風景」で司馬遼太郎が言うように、
そこに最澄の泰範にたいする「性愛」というものが存在していたのでは?と考えさせられるのでした‥


空海が書いた「十住心論」(じゅうじゅうしんろん:密教を最高唯一のものとし、
他の宗派はそれにいたる途上のものと論じた)、
この理論に圧倒されて、
誰も異論を上げる者がいませんでした。


しかし空海の死後、
ようやく天台宗の第五世の円珍(えんちん)がこの「十住心論」に五つの欠点を指摘し、
「天台と真言には優劣はない」と反論しました。


この円珍は、讃岐の出身で、
実は空海の血縁に当たる人物なのです。

かれは空海の真言に入らずになぜか叡山に入った。

のちに最澄や空海のように唐に渡って、
さらに最新の密教を二人の死後にもたらしたのでした。


もし空海、最澄、泰範が生きている時代に、
円珍のように「真言・天台のあいだに優劣はない」と論ずる者が現れていたら、
この三人の人生、
それ以上に宗派の勢力も大きく変わっていたでしょう‥



高雄山寺(現在の神護寺)。
ここで空海と出会った泰範はそのままここに残ってしまうのでした。