1963年、フィリップスからレコード・デビューした彼女は、1965年の第10回ユーロビジョン・ソング・コンテストにルクセンブルク代表として出場して、父親である作詞家のロベルト・ギャルの知人であったセルジュ・ゲンスブール提供の楽曲を歌って優勝します。


1970年に入って作曲家のミッシェル・ベルジェと知り合った彼女は、彼のプロデュースのもと本格的な歌手として再スタートを切るのでした。


そんなわけで、今日の一枚はこちら↓

M1:おしゃまな初恋

M2:ジャズ・ア・ゴー・ゴー

M3:恋のお返し

M4:シャルマーニュ大王

M5:テイニー・ウイニー・ポッピー

M6:リボンと花

M7:クリスチャンセン

M8:天使のためいき

M9:アメリカ万歳

M10:夢みるシャンソン人形

M11:アニーとボンボン

M12:ベビー・ポップ

M13:アイドルばかり聞かないで

M14:ジャズる心

M15:涙のシャンソン日記

M16:娘たちにかまわないで

M17:パンス・ア・モア

M18:お友達に云わないで


1989年に発表された、日本編集による彼女のベスト・アルバム、フランス・ギャルの『夢みるシャンソン人形〜フランス・ギャル・ベスト』です。


1967年にリリースされたM1は、「オー・シャンゼリゼ」の作者として知られるジョー・ダッサンの作によるもので、フランスではキャリアハイとなる4位を記録しました。


M3は、1963年にリリースされた記念すべき彼女のデビュー・シングルで、翌年には本国で最高位8位を記録して、2ndシングルとなるM13は5位を記録しています。


彼女を一躍有名にした、ユーロビジョン・ソング・コンテスト優勝曲のM10は、1965年に本国フランスで5位を記録する大ヒットとなり、ドイツ語やイタリア語、スペイン語ヴァージョンもリリースされて、ドイツでは2位を記録する大ヒットとなりました。

また、日本でも岩谷時子の訳による日本語ヴァージョンがリリースされて大ヒットとなって、1966年には来日公演も行われました。


フランスで15位を記録したM15は、1985年に日本で自動車メーカーがTVCMのバックミュージックとして採用しました。


1992年に夫ベルジェが他界してしまい、1997年には娘のポーリーヌを嚢胞性線維症で亡くした彼女自身も、1990年代半ばに乳癌を患って、事実上の引退状態となり、晩年は療養生活を送っていましたが、2018年の今日、パリ郊外の病院で死去したのでした…