(この記事は2016年2月10日に投稿した記事を加筆修正したものです) 


1970年、母国スウェーデンのソフト・ポルノ映画の挿入曲として制作された、ビョルン&ベニー名義でのデビュー・シングル「木枯らしの少女」がリリースされます。


日本では、1972年にリリースされるとオリコン6位を記録するヒットとなり、この年に東京で開催された第3回世界歌謡祭に招待されると、二人はアンニ=フリード・リングスタッドとアグネタ・フォルツコグを連れ立って来日したのでした。


この年に結成された彼等のグループ名は、メンバー4人の頭文字をとったもので、元々は長い名前でしたが、ある日マネージャーが何かの書類に彼等の名前を記入する際に、適当にイニシャルを並べて書いたことから現在のグループ名になったのでした。


そんなわけで、今日の一枚はこちら↓

M1:ダンシング・クイーン オ17

M2:ノーイング・ミー・ノーイング・ユー

M3:テイク・ア・チャンス
M4:マンマ・ミーア
M5:レイ・オール・ユア・ラヴ・オン・ミー
M6:スーパー・トゥルーパー
M7:アイ・ハヴ・ア・ドリーム
M8:ザ・ウィナー オ33
M9:マネー、マネー、マネー
M10:SOS
M11:チキチータ オ19
M12:悲しきフェルナンド

M13:ヴーレ・ヴー オ18

M14:ギミー!ギミー!ギミー! オ17

M15:ダズ・ユア・マザー・ノウ
M16:ワン・オブ・アス
M17:きらめきの序曲
M18:サンキュー・フォー・ザ・ミュージック
M19:恋のウォータールー

1992年に発表された、全英はじめ世界11か国で1位を獲得した彼等のグレイテスト・ヒッツ・アルバム、アバの『アバ・ゴールド』です。


このアルバムは、1982年の活動停止から10年経った節目にリリースされた彼等のベスト・アルバムで、全米25位、日本ではオリコン13位を記録して、翌年には、このアルバムの続編となる『アバ・ゴールド Ⅱ』がリリースされました。


1974年、M19で“ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト”優勝したのをきっかけに、彼等の知名度が高くなっていきますが、当初の一発屋と思われていたイメージを払拭したのは、1975年にリリースしたM10あたりでしょうか。

全英では6位止まりでしたが、ドイツをはじめ世界3か国で1位を獲得、オランダやノルウェーでは2位を記録するなどヨーロッパでヒットして一発屋の汚名を返上すると、続いてシングルリリースされたM4が全英はじめ世界4か国で1位を獲得すると、1976年に入ってリリースされたM12も世界7か国で1位を獲得してその人気を確かなものにすると、M1が世界9カ国で1位を獲得、日本でもオリコン17位を記録して、中でも、全英では3曲連続、全米ではキャリア唯一の1位を獲得したことで、彼等の人気も頂点に達するのでした。


1977年には、ラッセ・ハルストレム監督による彼等のオーストラリア公演の記録映像と絡めたセミ・ドキュメンタリー映画が制作されて、日本でも翌年に上映されました。

また、1979年にリリースされたM13やM14のヒットは、1980年代におけるヨーロピアン・ディスコ音楽シーンの足掛かりとなって、ニュートン・ファミリーやアラベスク、ジンギスカン、ノーランズと、次々とフォロワーを産み出していったのでした。


しかし、1982年に彼等は活動を突然停止してしまい、事実上の解散となってしまいましたが、

このアルバムは、1970年代最高のキャンディ・ポップグループの集大成とも言える一枚です。