●頼朝は後白河法皇に「義経に頼朝追討の院宣を与えてしまったことをどうしてくれるんだ」と付け込んだ。自前の武力を持たない朝廷は震え上がった。そして武士たちに「日本国惣地頭」「日本国惣追捕使」という役職を与える。これで武士たちは「鎌倉殿(源頼朝)に従っていれば間違いない」ということになった。「鎌倉殿は六十六カ国の総動員令を発する事ができる」そのことが誰の目にも明らかになった。独立の軍時政権としての幕府のイメージは、いよいよ確かにゆるぎないものとなる。
●しかし、この時点で将来災いの種になる者が居た。奥州藤原氏だ。しかも秀衡は、謀反人義経をかくまっていた。征伐は大義名分なのだ。《奈良の大仏を再建するから鍍金のために金三万両を送れ》などと手紙で陰陽に圧迫してくる頼朝に、秀衡は義経を総司令官に立てて闘うと進めていた。ところが、またここで頼朝に取って幸運、義経にとっては最大の不運が起こる。秀衡が突然亡くなってしまったのだ。後を継いだ嫡男の泰衡は父の遺言に背き、実に甘い考えで「鎌倉との協調路線」を行くと見せて義経を殺す。泰衡は逃げて行く途中で、家来河次郎の裏切りによって殺される。河次郎は泰衡の首を持って頼朝に名乗り出たが、「主君を殺すとは不届至極」と言って切り殺されてしまう。
実はここに多くの人が知らない、残暑が吹っ飛ぶような、藤原家の驚くべき怖い事実が隠されている。
●中尊寺金色堂
金色堂は本尊の須弥壇の下に、藤原三台のミイラ(清衡・基衡・秀衡)が安置されていることでよく知られているが、頼朝に敗れ、八寸の釘で木柱に打ち付けられて晒された泰衡の首も、ミイラにされ保存されていることは案外知られていない。その首は桶に入れられ、父秀衡の棺の脇におかれていた。もっとも、この首棺の存在自体は古くから知られていたが、寺ではそれを泰衡ではなく弟の忠衡の首だ、としてきた。根拠はある。その首棺には「忠衡公」と書かれていたのである。しかし、戦後行われた朝日新聞の学術調査の結果、首に太い釘を打ち付けた痕跡が確認され、これはやはり泰衡の首だということになったのである。ただ、ここに一点、世界の常識から見れば、極めておかしいことがあった。
●泰衡は、奥州藤原氏は、源氏にとって許すべからざる敵であった。
つまり憎しみの対象であった。頼朝は、朝廷の制止も聞かずに大群を動員してこれを滅ぼした。後白河法皇は結局、その行為を追認し、「泰衡追討」の院宣を出さざるを得なかった。
つまり、この時点で泰衡そして奥州藤原氏は、朝廷の敵であり天下の大罪人になったということだ。その大罪人とその一族が、どうしてあれほど豪華な、まさにまばゆい堂に葬られているのか。
世界の常識から言って、滅ぼされた罪人一族の遺体がそのまま保存されるなど絶対にありえないのだ。
●たとえば中国では、敵を滅ぼした後で、その先祖の墓を暴き副葬品などは略奪した上で死体を捨ててしまうなど当たり前のことだ。追っていた敵がすでに死んでいたので、墓を暴いて死体をムチで打ったという話もある。
日本では織田信長のように敵の頭蓋骨で盃を作って酒を飲んだりすれば「悪逆非道」と言われるが、こんなことは一歩日本を出れば当たり前のことで、ことさらに非難されないのである。
●日本が太平洋戦争に敗れ、占領軍が中心となって東京裁判が行われた時、死刑となった東条英機らの遺体はすべて焼却処分にされた。火葬ではない。
なぜなら、遺族にすら遺骨の受け取りを許さなかったのだ。骨と灰はすべて誰のものか分からないように混ぜ合わされた上に、いずこかに捨てられた。マッカーサー元帥が「もしこれら戦犯の墓でも建てさせたら軍事主義復活のシンボルになりはしないかと恐れた」から、と言われる。
●韓国では極めて異例の仕打ちがある。日韓併合条約に調印した当時の総理大臣李完用の墓がない。「国賊」ということで、暴かれ「廃墓」にされたのである。それにひきかえ、日本の「占領軍司令官」源頼朝のなんと優しいことよ、三大のミイラをそのまま黄金尽くめの葬堂ごと残してやったばかりか、わざわざ泰衡の首まで葬ってやったのだから。
なぜか。頼朝という日本歴史始まって以来の超バカツキ男も、「怨霊信仰」の信者だったのである。
関山 中尊寺
〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
電話:0191-46-2211 FAX:0191-46-2216
●鎌倉幕府はない
1190年、頼朝は大群を率いて上洛し、朝廷側の代表の後白河法皇と幕府側の代表の頼朝が余人を交えず「サシ」という、日本史上空前のトップ会談をやった。頼朝が希望していた征夷大将軍のポストは認められず、常置の武官としては最高の位置にある右近衛大将と権大納言の職に任命され、十二月一日に盛大な拝賀の儀式を行ったが、三日で早くも両方辞職して、単なる王朝の侍大将ではないことを天下に明示した。源氏も平家も、散々同じ手で朝廷に操られたからである。ほとんどの人は「1192年、鎌倉幕府成立」と覚えたと思うが、元々「幕府」などの呼び方はこの時代に存在しない。この年は後白河法皇が亡くなって、頼朝が念願の征夷大将軍となることができた年なのである。
●仮にタイムマシンで鎌倉時代に行っても「幕府」という役所はないし看板もかかってはいない。役所に看板をかけて、例えば大蔵省のように表示する事は、明治時代以降に郵便が普及してからの習慣であって、それまでは奉行所ですら表札はない。時代劇で「北町奉行所」などという表札がでてくるのは間違い。
ついでに言えば個人の家にも旗本屋敷にも表札はなかった。ただ、お客様が来るので商店だけには看板はあった。とにかく「幕府」とは、そういう成立時期すら明快には決められない不思議な組織なのである。
●例えば、頼朝と対立した朝廷の代表者をわれわれは「後白河法皇」と呼ぶが、生前に彼は「後白河」と呼ばれたことはない。死んだ時点で歴史の上皇と区別するために「おくられ」た諡(おくりな)であった。つまり後白河時代に「後白河」はいなかったし、鎌倉時代に「幕府」はなかったのである。もちろん、実体として「のちに後白河と呼ばれる法皇」がいたように「のちに幕府と呼ばれることになる全国組織」はあった。では、当時の人々はなんと言ったか。「鎌倉殿」である。
●晩年、ついに頼朝は、武士たちからの信頼を一気に失う危険な行為に至った。
それによって朝廷内の長年の「同志」とも言うべき代弁者、藤原兼実(かねざね)との仲が崩れて、後白河法皇と堂々と渡り合った頼朝とは思えないていたらくであった。
藤原氏や平家が辿った「いつか来た道」を、遂に頼朝は歩き出す。
長女大姫を後鳥羽天皇に嫁がせようと動き出したのだ。
天皇家と姻戚になりたい頼朝は、朝廷内の同志である兼実を捨てて、公家の源氏である源通親(みちちか)と丹後局と組むといった政治家として最大の失敗を冒してしまう。
●二人はこれを手玉に取って、通親はちゃっかり幼女を入内させて後鳥羽天皇との間に男子を産ませている。
後の土御門天皇である。加えて大姫が二十歳そこそこで死んでしまう。
そんな失意の中、富士山のふもとで幕府成立の一大ページェントともいうべき行事が行われた。富士の巻狩りである。
ところが、この祭りにおいて日本三大仇討のひとつとされた、とんでもない事件が起こる。
●曽我(そがの)兄弟が夜陰に乗じて斬りこみをかけ、頼朝の側近である工藤祐経(すけつね)を討ち取り、頼朝自身の陣屋にも討ち入ったのである。
梅雨さなかの集中豪雨をおしての「犯行」だったという。
頼朝は何とか難をまぬがれた。吾妻鏡によると、この仇討から二か月後に、頼朝の弟である範頼は反逆の疑いに対して身の証を立てるとして、起請文を書いている。
さらにその十五日後には、範頼は謀反の疑いで伊豆へ流罪・そこで歴史から消える。
おそらく殺されたと見られる。北条氏はこの頃から、源氏と距離を置くようになる。
●1199年正月、子どもの頃から馬に乗っていたというのに、頼朝は落馬して急死したが、不思議なことに吾妻鏡には全く記載されていない。
その後を継いだのが十八歳の長男である「頼家」であった。
しかし1203年、頼家は急病にかかり危篤状態に入る。
頼家は軟禁先の修禅寺の湯で死んだ。
「吾妻鏡」には全く沈黙しているが「愚管抄」には「首に紐を巻きつけ、ふぐりをつかんで刺し殺した」と明確に書かれている。
1203年9月、その弟で北条政子が生んだ「千幡(せんまん)」、後の実朝が三代目の将軍となった。ミニ家康と言われた、北条時政の企てである。
しかし実朝は、武芸にはまったく関心を示さず、歌の道へ精進するばかりだった。
東国武士たちはそういう政治を、嫌悪していたからというより、むしろ憎悪した。
●「歌により政治」をやった実朝に1205年、後鳥羽上皇から「新古今和歌集」が贈られてきた。これは実朝の「反革命路線」を帝王が応援し、承認したということだ。御家人たちは思ったはずだ。「いかに頼朝の息子だとはいえ、この裏切りだけは絶対に許せぬ」と。
北条時政は若い後妻にそそのかされてクーデターを策したが、これが政子の耳に入って幽閉され1215年に78歳で死去。
1219年1月27日、実朝は右大臣を拝命し、その就任の式典を鎌倉の鶴岡八幡宮の社殿で行った帰り、突然物陰から頭巾をかぶった三人の男が現れ「親の仇」と言って実朝を斬殺し首を掻き落としたと吾妻鏡にも愚管抄にも明記してある。
●後鳥羽天皇と北条政子
名歌を詠む歌人であり、武芸の達人でもあった後鳥羽天皇は、菊を好み、衣服や車や太刀に菊の紋章を付けた。皇室の紋が菊に定着したのは、この上皇からである。1219年1月、後鳥羽は武力倒幕を決意した。1221年5月、北条義時追討の院宣を下し、承久の乱が起こる。頼朝以来、東国武士団は「朝廷のご命令」という形で動いてきたのが、朝廷から「賊」つまり「朝敵」と決め付けられてしまった。急を聞いて集まった御家人たちは動揺していた。しかし、ここで並み居る御家人の前で大演説をぶって、天下を動かした女性が居た。頼朝の未亡人北条政子である。