●「頼朝殿が朝敵を討ち武家政治を始めて以来、官位のことといい俸禄のことといい、頼朝殿から受けた恩義は山より高く海より深いはずです。

この恩義に応えようとする気持ちは、皆さんの中にあるでしょう。

私たちは不正な綸旨(天皇の命令)によって反逆者の汚名を着せられました。

ただちに本当の朝敵である三浦胤義を討ち、鎌倉の政治を護るべきです」

これで流れが変わった。

鎌倉武士たちは、頼朝以前の悲惨な境遇を思い出し、団結して朝廷に歯向かうことを決意したのであった。

●天下分け目の決戦というと関が原が浮かぶが、東西両軍共にどちらが勝っても「武士の天下」は変わらない。

壬甲の乱も浮かぶが、これもどちらが勝っても「天皇家の天下」は変わらない。

明治維新戦争は別として、それ以前に根本的に体制が違う陣営が激突し、その後の体制を決定付けた戦いはこの承久の乱以外にない。

まさに東国に基礎を置く幕府と、西国中心に勢力を持つ朝廷との一大決戦だったのである。

もし幕府が朝廷に負ければ、頼朝以前の牛馬のように働かされていた時代に戻ってしまうかも知れない。

政子の訴えは、動揺する御家人たちの心を確かに捉えた。

●政子と長老の大江広元は「ただちに京へ出撃すべきだ」と言った。

最終的には賛同した御家人たちは、十九万余騎の大軍を京へ向かわせた。

当時日本の伝統では天皇とは神そのものであり、天皇への反逆は許すべからざる大罪と考えられていた。

後鳥羽は「治天の君(ちてんのきみ)」つまり、単なる天皇ではなく「神」だった。

しかし、今度の戦いは、もはやその形式は保たれない。

上皇の軍事力をすべて破壊し、上皇自身を丸裸にして北条泰時追討の院宣を取り消させることにあるのだ。

●そして、後鳥羽は戦いに敗れた。

中国なら、前代の王朝の子孫を探し出して徹底的に抹殺する。

将来、「お家再興」になる恐れがあるからだ。

現に日本でも平清盛はそうしなかったばっかりに、子どもの代で頼朝と義経ら源家に滅ぼされたではないか。

革命の際には皇帝一家は全員抹殺される。

これが世界の常識であった。

しかし、日本は天皇家の滅亡は無かった。

幕府がこの後に発布する御成敗式目を見ても分かるように、北条泰時は天皇の臣下であると示して天皇家の権威を象徴しているのである。

幕府は後高倉院を治天の君に擁立することによって、後鳥羽と順徳・土御門(共に後鳥羽の子)を島流しにした。

●現代の日本人は何故か、承久の乱の戦後処置が「革命」だという認識も、その結果発布された御成敗式目が律令に代わる「新憲法」だという認識も無い。幕府は武力で朝廷を圧倒したうえに、上皇を流罪にまでしたのに、北条泰時は他の武将のように非難されないどころか、極めて評判がいいのである。

まず律令を踏みにじらなかったこと。そして、土地争いを無くして武家政権を確立した点では、家康以上の功績を果たしたことが大きな理由だ。

乱の直後、進駐軍として三年間、京の六波羅探題にいた泰時は、殺到する様々な訴訟をこなしてきた。「縛られ地蔵」「三方一両損」など、いかにも日本人好みの大岡裁きは有名な話だが、その真のモデルこそが北条泰時その人なのである。

●僧侶は結婚してはならないという戒律は、開祖釈迦が仏教を初めて以来、小乗仏教、大乗仏教を問わずインドでも中国でも朝鮮でも日本でも、ずっと守られてきた最も重要な戒律だった 。しかし、現在これを守っていないのは、仏教世界で実は日本の僧侶だけである。浄土真宗の開祖である親鸞は、仏教二千年の伝統を破って妻を娶り子を成し、それが正しいことだと主張した。本来、寺は世襲ではなく、優秀な弟子に継がせるものだった。宗派の僧侶が結婚できるようになったのは、実は明治時代以後のことだ。明治政府が「してもよい」と許可したのである。結婚している僧侶が価値がないといっている訳ではない。釈迦以来二千年の伝統的戒律を「和の精神」で話し合って、いつの間にかさした

●頼朝は後白河法皇に「義経に頼朝追討の院宣を与えてしまったことをどうしてくれるんだ」と付け込んだ。自前の武力を持たない朝廷は震え上がった。そして武士たちに「日本国惣地頭」「日本国惣追捕使」という役職を与える。これで武士たちは「鎌倉殿(源頼朝)に従っていれば間違いない」ということになった。「鎌倉殿は六十六カ国の総動員令を発する事ができる」そのことが誰の目にも明らかになった。独立の軍時政権としての幕府のイメージは、いよいよ確かにゆるぎないものとなる。

●しかし、この時点で将来災いの種になる者が居た。奥州藤原氏だ。しかも秀衡は、謀反人義経をかくまっていた。征伐は大義名分なのだ。《奈良の大仏を再建するから鍍金のために金三万両を送れ》などと手紙で陰陽に圧迫してくる頼朝に、秀衡は義経を総司令官に立てて闘うと進めていた。ところが、またここで頼朝に取って幸運、義経にとっては最大の不運が起こる。秀衡が突然亡くなってしまったのだ。後を継いだ嫡男の泰衡は父の遺言に背き、実に甘い考えで「鎌倉との協調路線」を行くと見せて義経を殺す。泰衡は逃げて行く途中で、家来河次郎の裏切りによって殺される。河次郎は泰衡の首を持って頼朝に名乗り出たが、「主君を殺すとは不届至極」と言って切り殺されてしまう。

実はここに多くの人が知らない、残暑が吹っ飛ぶような、藤原家の驚くべき怖い事実が隠されている。

●中尊寺金色堂

金色堂は本尊の須弥壇の下に、藤原三台のミイラ(清衡・基衡・秀衡)が安置されていることでよく知られているが、頼朝に敗れ、八寸の釘で木柱に打ち付けられて晒された泰衡の首も、ミイラにされ保存されていることは案外知られていない。その首は桶に入れられ、父秀衡の棺の脇におかれていた。もっとも、この首棺の存在自体は古くから知られていたが、寺ではそれを泰衡ではなく弟の忠衡の首だ、としてきた。根拠はある。その首棺には「忠衡公」と書かれていたのである。しかし、戦後行われた朝日新聞の学術調査の結果、首に太い釘を打ち付けた痕跡が確認され、これはやはり泰衡の首だということになったのである。ただ、ここに一点、世界の常識から見れば、極めておかしいことがあった。               

●泰衡は、奥州藤原氏は、源氏にとって許すべからざる敵であった。

つまり憎しみの対象であった。頼朝は、朝廷の制止も聞かずに大群を動員してこれを滅ぼした。後白河法皇は結局、その行為を追認し、「泰衡追討」の院宣を出さざるを得なかった。

つまり、この時点で泰衡そして奥州藤原氏は、朝廷の敵であり天下の大罪人になったということだ。その大罪人とその一族が、どうしてあれほど豪華な、まさにまばゆい堂に葬られているのか。

世界の常識から言って、滅ぼされた罪人一族の遺体がそのまま保存されるなど絶対にありえないのだ。

●たとえば中国では、敵を滅ぼした後で、その先祖の墓を暴き副葬品などは略奪した上で死体を捨ててしまうなど当たり前のことだ。追っていた敵がすでに死んでいたので、墓を暴いて死体をムチで打ったという話もある。

日本では織田信長のように敵の頭蓋骨で盃を作って酒を飲んだりすれば「悪逆非道」と言われるが、こんなことは一歩日本を出れば当たり前のことで、ことさらに非難されないのである。

●日本が太平洋戦争に敗れ、占領軍が中心となって東京裁判が行われた時、死刑となった東条英機らの遺体はすべて焼却処分にされた。火葬ではない。

なぜなら、遺族にすら遺骨の受け取りを許さなかったのだ。骨と灰はすべて誰のものか分からないように混ぜ合わされた上に、いずこかに捨てられた。マッカーサー元帥が「もしこれら戦犯の墓でも建てさせたら軍事主義復活のシンボルになりはしないかと恐れた」から、と言われる。

●韓国では極めて異例の仕打ちがある。日韓併合条約に調印した当時の総理大臣李完用の墓がない。「国賊」ということで、暴かれ「廃墓」にされたのである。それにひきかえ、日本の「占領軍司令官」源頼朝のなんと優しいことよ、三大のミイラをそのまま黄金尽くめの葬堂ごと残してやったばかりか、わざわざ泰衡の首まで葬ってやったのだから。

なぜか。頼朝という日本歴史始まって以来の超バカツキ男も、「怨霊信仰」の信者だったのである。

                  

関山 中尊寺
029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
電話:0191-46-2211 FAX0191-46-2216

●鎌倉幕府はない

1190年、頼朝は大群を率いて上洛し、朝廷側の代表の後白河法皇と幕府側の代表の頼朝が余人を交えず「サシ」という、日本史上空前のトップ会談をやった。頼朝が希望していた征夷大将軍のポストは認められず、常置の武官としては最高の位置にある右近衛大将と権大納言の職に任命され、十二月一日に盛大な拝賀の儀式を行ったが、三日で早くも両方辞職して、単なる王朝の侍大将ではないことを天下に明示した。源氏も平家も、散々同じ手で朝廷に操られたからである。ほとんどの人は「1192年、鎌倉幕府成立」と覚えたと思うが、元々「幕府」などの呼び方はこの時代に存在しない。この年は後白河法皇が亡くなって、頼朝が念願の征夷大将軍となることができた年なのである。

●仮にタイムマシンで鎌倉時代に行っても「幕府」という役所はないし看板もかかってはいない。役所に看板をかけて、例えば大蔵省のように表示する事は、明治時代以降に郵便が普及してからの習慣であって、それまでは奉行所ですら表札はない。時代劇で「北町奉行所」などという表札がでてくるのは間違い。

ついでに言えば個人の家にも旗本屋敷にも表札はなかった。ただ、お客様が来るので商店だけには看板はあった。とにかく「幕府」とは、そういう成立時期すら明快には決められない不思議な組織なのである。

●例えば、頼朝と対立した朝廷の代表者をわれわれは「後白河法皇」と呼ぶが、生前に彼は「後白河」と呼ばれたことはない。死んだ時点で歴史の上皇と区別するために「おくられ」た諡(おくりな)であった。つまり後白河時代に「後白河」はいなかったし、鎌倉時代に「幕府」はなかったのである。もちろん、実体として「のちに後白河と呼ばれる法皇」がいたように「のちに幕府と呼ばれることになる全国組織」はあった。では、当時の人々はなんと言ったか。「鎌倉殿」である。

●晩年、ついに頼朝は、武士たちからの信頼を一気に失う危険な行為に至った。

それによって朝廷内の長年の「同志」とも言うべき代弁者、藤原兼実(かねざね)との仲が崩れて、後白河法皇と堂々と渡り合った頼朝とは思えないていたらくであった。

藤原氏や平家が辿った「いつか来た道」を、遂に頼朝は歩き出す。

長女大姫を後鳥羽天皇に嫁がせようと動き出したのだ。

天皇家と姻戚になりたい頼朝は、朝廷内の同志である兼実を捨てて、公家の源氏である源通親(みちちか)と丹後局と組むといった政治家として最大の失敗を冒してしまう。

●二人はこれを手玉に取って、通親はちゃっかり幼女を入内させて後鳥羽天皇との間に男子を産ませている。

後の土御門天皇である。加えて大姫が二十歳そこそこで死んでしまう。

そんな失意の中、富士山のふもとで幕府成立の一大ページェントともいうべき行事が行われた。富士の巻狩りである。

ところが、この祭りにおいて日本三大仇討のひとつとされた、とんでもない事件が起こる。

●曽我(そがの)兄弟が夜陰に乗じて斬りこみをかけ、頼朝の側近である工藤祐経(すけつね)を討ち取り、頼朝自身の陣屋にも討ち入ったのである。

梅雨さなかの集中豪雨をおしての「犯行」だったという。

頼朝は何とか難をまぬがれた。吾妻鏡によると、この仇討から二か月後に、頼朝の弟である範頼は反逆の疑いに対して身の証を立てるとして、起請文を書いている。

さらにその十五日後には、範頼は謀反の疑いで伊豆へ流罪・そこで歴史から消える。

おそらく殺されたと見られる。北条氏はこの頃から、源氏と距離を置くようになる。

1199年正月、子どもの頃から馬に乗っていたというのに、頼朝は落馬して急死したが、不思議なことに吾妻鏡には全く記載されていない。

その後を継いだのが十八歳の長男である「頼家」であった。

しかし1203年、頼家は急病にかかり危篤状態に入る。

頼家は軟禁先の修禅寺の湯で死んだ。

「吾妻鏡」には全く沈黙しているが「愚管抄」には「首に紐を巻きつけ、ふぐりをつかんで刺し殺した」と明確に書かれている。

1203年9月、その弟で北条政子が生んだ「千幡(せんまん)」、後の実朝が三代目の将軍となった。ミニ家康と言われた、北条時政の企てである。

しかし実朝は、武芸にはまったく関心を示さず、歌の道へ精進するばかりだった。

東国武士たちはそういう政治を、嫌悪していたからというより、むしろ憎悪した。

●「歌により政治」をやった実朝に1205年、後鳥羽上皇から「新古今和歌集」が贈られてきた。これは実朝の「反革命路線」を帝王が応援し、承認したということだ。御家人たちは思ったはずだ。「いかに頼朝の息子だとはいえ、この裏切りだけは絶対に許せぬ」と。

北条時政は若い後妻にそそのかされてクーデターを策したが、これが政子の耳に入って幽閉され1215年に78歳で死去。

1219127日、実朝は右大臣を拝命し、その就任の式典を鎌倉の鶴岡八幡宮の社殿で行った帰り、突然物陰から頭巾をかぶった三人の男が現れ「親の仇」と言って実朝を斬殺し首を掻き落としたと吾妻鏡にも愚管抄にも明記してある。

                 

●後鳥羽天皇と北条政子

名歌を詠む歌人であり、武芸の達人でもあった後鳥羽天皇は、菊を好み、衣服や車や太刀に菊の紋章を付けた。皇室の紋が菊に定着したのは、この上皇からである。1219年1月、後鳥羽は武力倒幕を決意した。12215月、北条義時追討の院宣を下し、承久の乱が起こる。頼朝以来、東国武士団は「朝廷のご命令」という形で動いてきたのが、朝廷から「賊」つまり「朝敵」と決め付けられてしまった。急を聞いて集まった御家人たちは動揺していた。しかし、ここで並み居る御家人の前で大演説をぶって、天下を動かした女性が居た。頼朝の未亡人北条政子である。

●一方、以仁王の令旨は、山伏姿に身をやつした源行家によって、各地の源氏に伝えられていた。頼朝がこれを受け取ったのは4月27日のことだった。しかし、34歳の頼朝は動こうとはしない。自分に属する兵がいないから、動こうにも動けないのだ。6月19日、京都から以仁王と頼政の死んだとの一報が入り、頼朝は挙兵を決意。時代の流れを読みきっていたミニ家康、北条時政は、一族を挙げて婿である頼朝に味方したので、頼朝は百人程度の兵力を手にできた。それに関東各地の有力武士団の長が、頼朝の挙兵に呼応する旨回答してきたのである。

●日本史上最大の逆転劇の幕開けは、いよいよここから始まった。

頼朝の挙兵は、まず政子と深い因縁のあった兼隆を襲った。妻を奪われた上に血祭りに挙げられた兼隆こそいい面の皮だが、頼朝はこの夜討ちに成功して兼隆の首を取った。

ここで頼朝に最大の危機が訪れる。

頼朝の反乱を知った平家が、忠誠を誓っていた大庭景親に頼朝の首を取れと命じたのである。このときの頼朝の兵力は三百余騎というもので、相手の十分の一ほどだったと史料に残っている。この頃の頼朝は、千葉と神奈川から大群を率いて駆け付ける一族があると知っていて将来を楽観視していたが、それと合流する前の8月23日、大庭は相模国石橋山で頼朝を待ち伏せしていた。その背後には、やはり兼隆同様に因縁の深い伊東家(頼朝が最初に愛した八重の父で息子を殺された仇)の軍勢が追撃していた。頼朝最大の危機が迫っていた。

●源義経

頼朝は死ななかった。少人数で山に逃げ込んで箱根権現にかくまってもらい、ほとぼりが冷めたころに千葉の南部に上陸した。第二の奇跡だ。歴史上の英雄は必ず一度は神が味方したとしか思えない奇跡が起こるが、頼朝は一度や二度ではなかった。平家は何故ああも呆気なく滅んでしまったのか。そのタネとは言うまでもない。日本史上最高とも言える軍事指揮能力をもった人物が、頼朝の陣営に加わった事だ。そう、弟の源義経の存在こそが、頼朝にとって第三の奇跡だったのである。ここで二人の出生の秘密を明かそう。続きは下の「すくすくねっと」↓をクリックだ。見ないと今後がしっかりつかめないぞ。

●源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と言えば、当時の日本で最も有名で人気のあるアイドルだったと言っても過言ではない。

実は義経はその名の通り苦労人だった。

父は頼朝と同じ「源義朝」だが、母が違う。

頼朝の母は名古屋にある熱田神宮大宮司の娘だが、義経の母は宮中に仕える召使だった。名を「常盤」といって、実は絶世の美女だったらしい。源義朝は艶福家で、京と東国を結ぶ途中に何人もの「妻」がいたが子供は一人ずつしかつくっていないのに、常盤だけには三人の子どもを産ませている。今若、乙若、そして牛若の三人だが、もちろん牛若が義経であることは言うまでもない。

義朝が敗走途中に殺され頼朝が捕らえられたのと前後して、三人の子も捕らえられたが、二歳の牛若丸だけは母の元で数年育てられて京の鞍馬寺に入れられた。十五の歳まで鞍馬で僧になるための修行をしたが、父の復習のために脱出して、奥州藤原氏を頼った。

●後に兄頼朝の怒りを解くために書いた、日本の手紙の中でもベスト10に入るあまりにも名書簡が「吾妻鏡」に載っている。

それを分かりやすく記してみよう。

「大意」

《父佐馬頭義朝が亡くなってからというもの、命は何とか助かりましたが安まるいとまもありませんでした。京にいるわけにもいかず諸国を流浪し、辺境の地や遠国などいろいろな所に隠れました。その間、土民や百姓に仕えたことすらあったのです》

義経は少年期、かなり悲惨な放浪生活を送ったとみられる。おそらく継父との折り合いが悪く寺で坊主にされそうなところを飛び出したのだろう。そんなところが豊臣秀吉とそっくりである。

頼朝が「政治」を学んだとすれば、義経は「軍事」を学んでいた。しかもそれは正式な兵法ではなく、ゲリラ先方の類である。これが実に常識破りの天才的なもので、並みの武士では考えも付かない戦法であった。野球に例えたら、それまで全く打てなかったピッチャーの「平家」に対して、バッター「義経」は三連続ホームランを打ったのだから平家は然ることながら第三者は腰を抜かす思いだったろう。一の谷の合戦、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦の三連勝は、正に当時では奇跡の勝利だったのである。

●源頼朝と義経の父の源義朝

源の義朝は平治の乱1159年で敗北し、逃げる途中で愛知県の代々の家来であった長田忠致(おさだただむね)の屋敷に立ち寄った。おりしも正月だったために忠致は風呂を勧めて、丸腰になった義朝をなぶり殺しにして裏切った。現在その場は《野間大坊》という寺になっている。時は流れて頼朝は、身の毛もよだつような計画的復讐を忠致父子に返すことになる。その容赦ない内容とは・・

●頼朝が挙兵して事実上の関東王になると、長田忠致は長男を連れて頼朝の元へ降伏した。頼朝は機嫌よくこれを許し「罪を許すから働け」と言ったらしい。長田父子は西国の遠征軍に参加し、人々が驚くほど勇敢に戦ったと言う。すべての戦いが終わって頼朝の天下となった時、頼朝は恩賞を与えると言って長田父子を呼び寄せた。ところが、いそいそと現れた二人を父義朝の墓前で土磔(地面に板を敷いてその上に仰向けの形で手と足を広げて大きな釘を打ち付ける)にして、顔の皮を剥ぎ、生爪を剥がして四、五日かけてじっくり殺したと当時の本に書いてある。

●時代は流れて豊臣秀吉は、手柄を立てた家来が「長田」であったことを毛嫌いしてわざわざ改名させたほど、縁起の悪い苗字だと決め込んでいたという言い伝えがある。これを書いている私には、少々堪える話である。なお、野間大坊は、秀吉に敗れた信長の三男の織田信孝が切腹したと場所としても有名である。

●源義仲」

頼朝の長兄である源義平に父親を殺された源義仲は、父の敵の弟に負けてなるものかといった意識が多分にあった。日増しに拡大する義仲の勢いを見た頼朝は1183年に義仲討伐の兵を出したが、義仲が人質として嫡男の義高を出したために納まった。しかし、はらわたの煮えくり返った義仲は、同年五月、京へ入って平家を打倒して天皇家の実質保護者となる。ここに比叡山の僧兵と後白河法皇まで味方につき、実質頼朝を超えたように見えたが、しかし後白河は頼朝と裏で疎通して、荘園・公領を回復すれば命令に従うといったことを後白河の名で認めていた。平将門が果たせなかった「武士政権」「関東独立国」が成立したのである。一方で義仲軍は京で暴行、放火などして庶民には大変評判が悪く、同年11月21日、義仲は最後の手段として法皇と新帝を襲って幽閉してクーデターを起こした。それは呆気なく義経の軍団に敗れ、法皇は無事救出され、本人は矢で射られて殺された。しかし、やがて頼朝も同じ運命を辿ることになる。彼らを支持してきた北条時政によって、だ。

●源義経

義経は騎兵の集団運用という、世界的にもあまり例のない戦術を開発して平家を破った天才だった。誰もが警戒をゆるめる嵐の日を狙って摂津国渡辺を出航し、徳島県の勝浦まで通常なら三日かかる行程を、追い風を利用してわずか4時間で進んだと吾妻鏡にも書いてある。当時は非戦闘員扱いとして殺してはいけないとされていた船の操縦者を殺し、敵の兵船を行動不可能にして勝ったこともある。しかし、頼朝に反旗をひるがえしてからは、都落ちを決意して出した義経の船が嵐にあって壊滅。これによって一騎当千のつわものたちを一挙に失ってしまう。