●奈良の大仏
聖武天皇の発願により七四九年に竣工、七五二年に開眼供養された奈良の大仏。当時世界最大の金銅仏は、莫大な費用をかけた当時ではハイテクの産物だった。「大仏の力で天下安泰、国民を幸福に」と聖武天皇が宣言した二年前、凶作、飢饉、地震、疫病と、あらゆる災難が頻発して財政が苦しかったにも拘らず、すべての国に国分寺と国分尼寺といった巨大な二つの寺院の創建を命じた。その上でなお世界一の金色に輝く大仏を造った背景には、ある人物の大きな狙いが隠されていた。
●聖武天皇
たった一歳で病死してしまった男の子とほぼ時を同じくして、聖武天皇には二番目の男子の安積(あさか)親王(十七歳で突然急死)が生まれたが、藤原氏の血を引いていないということで指名なし。安積親王に次ぐ皇位継続候補の左大臣「長屋王」は、藤原家四兄弟から謀反という無実の罪を着せられて謀殺(その後四ヶ月で四人共死亡)されたことは一級資料に明記してある。そして前代未聞の珍事である、日本史上ただ一人の女性皇太子が誕生した。後の称徳女帝だ。
●平安京
東(清龍)流水(川)・・南(朱雀)沢畔(湖沼)・・西(白虎)大道(街道)・・北(玄武)高山・・平安京は多くの学者が指摘しているように、この四神に「相応」している。北には「船岡山」、西には「山陰道」、東には「鴨川」、南には「巨椋池」である。つまり、平安京は陰陽道によって設計された都であることを示しているのだ。そのうえ、陰陽道で最も不吉とされている鬼門には「魔よけ」として巨大寺院を建立してある。比叡山延暦寺がそれだ。桓武が最澄を可愛がった理由がここにある。ところが、面白いのはこれに留まらない。歴史は関連しているのである。
●平安京と江戸
東(青龍)に流水(川)南(朱雀)に沢畔(湖沼)西(白虎)に大道(街道)北(玄武)に高山。平安京は「四神相応」つまり陰陽道によって設計された都であると前回お伝えしたが、驚くことにそれから約800年後に造られた江戸も四神相応の都なのである。東に隅田川、南に江戸湾、西に東海道、北に上の山、そして鬼門には巨大寺院「東叡山寛永寺」を置くことまで京と江戸は一致している。東叡山とは読んで字の如し、東の比叡山という意味である。これだから歴史は面白い。
●小野小町
新聞や雑誌で分かるように、昔から不幸な死に方をした女性を「美人」と書いて、その霊が一番喜ぶ事を言って鎮魂するのが日本の常識だ。では日本一美人と言われた六歌仙の一人、小野小町は、日本一不幸な死に方をしたのか。古事記によると允恭天皇の皇女だったが、同母兄である木梨軽皇子(きなしかるのみこ)を愛してしまい、共に流罪に処せられてその地で死んだという。実の兄が愛してしまうのだから、本当に絶世の美女だったのかも知れない。また、同じ六歌仙の一人である文屋康秀とは明らかに親しい仲であり、古今集には「都落ち」を誘われて受け入れる場面も出ている。
●源氏物語
源氏とは藤原氏にとって最も強敵でありライバルであった。これは光源氏と言う若者が、ライバルである一族(当時の常識から言って明らかに藤原氏)に対して勝利を収め、摂関を超えた地位の准太上天皇になるという物語である。しかも、驚いたことに紫式部がこれを書いたことは誰もが知っており、藤原氏の氏の長者でもある道長も知っている。「紫式部日記」によると、道長はどうやら式部に当時では大変高価な紙やすずりを与えて、一種のパトロン的存在であった事は間違いないのである。変だ・・こんな変な事はない。
例えばプロ野球の読売ジャイアンツに勤める女性が「光るタイガース物語」という小説を書いたとする。小説はその年のペナンとレースにおいて「阪神タイガース」が明らかにジャイアンツとしか思えない「東京の球団」をコテンパンにやっつけて日本一になるという小説だった。これを書く女性を、ジャイアンツの社長や親会社の社長が支援して「やあ、よく書けたね」「面白くて私も愛読してるよ」などと褒めるだろうか。
源氏物語は誰が読んだって、源氏が善玉で、藤原氏が悪役なのだら・・・。これを傲岸不遜な道長が紫式部を処罰するどころか創作を応援していたのだから、こんな変な話はないのである。
●続-源氏物語
一体なぜ、大学者藤原公任の「頭を踏んづけてやる」と言い放ったほどの傲岸不遜な藤原道長が、ライバル源氏の貴公子が「藤原氏」に圧倒的な勝利を収める物語を書く紫式部を応援するのかといえば、そうすることによって藤原氏に蹴落とされた源氏たちの怨霊が「気分をよくして穏やかに振舞う」と考えたからだ。物語が書かれた時点で源氏は没落していて、何を書こうが、天皇になった孫を何人も持つ外祖父の道長には痛くもかゆくもないことなのである。源氏物語は藤原氏に蹴落とされた源氏一族に対する「鎮魂物語」なのである。これは、学界でも怨霊であると全く異論のない菅原道真が憤死後に、太政大臣の官を追贈したのと同じ意味がある。
●平将門
東京都千代田区大手町一丁目一番一号に、三井物産などの大手近代ビルに囲まれて将門塚がある。平安の昔、朝廷に反逆した将門の首が葬られている所として、今なお丁重に祀られている。関東一円の大親分的ヒーローだった彼は「実力ある者が天下を取って当然」といった、当時では全くなかった考え方を初めて社会に打って出た《武士の先駆者》である。将門は神田明神の御霊神でもあるが、昔から大手町の将門塚を動かそうとすると、そのたびに人がバタバタと倒れて死んだり大怪我をしたことはご存知だろうか。現代でもこの塚の周囲のオフィスビルでは、塚に尻を向けた形で席を作るとタタリがあると真顔で語られているほどだ。
●武士の起こり
統治力を失った王は新しい王に代わられて当然として理論化し、これを革命として正当化したのは孟子である。しかし、これは日本では認められない。天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)によって、天皇を倒して天下を取る訳にはいかないのだ。では、天皇を倒さずしてどうやって権力を握るかとなれば、藤原摂関政治のような「寄生虫主義」を取るしかないのである。自浄作用が起こらなければ革命は起こらない。こういった地獄に対して武力を持って初めて抗議行動を起こした地方豪族が平将門だったが、摂関政治はピクリともせず絶頂期を迎えたのである。
●武士の成立
「日本の大魔王となって天皇家を没落させ平民をこの国の王にしてやる」自分の舌を噛み切って出した血で書いた呪いを遺し、崇徳天皇が讃岐で憤死して三年後、武士の平清盛が太政大臣になり、やがて政治の実験を握る。平治の乱で源氏に勝った清盛は実に「やさしい男」だった。当時中学生と赤ん坊であった、源義朝の遺児、頼朝と義経の命を助けた。この二人が成長して兵を挙げ、平家を滅ぼしたのである。つまり命の恩人の平清盛とその一族を皆殺しにしたのだ。優しさの結果は「一族滅亡」に終わった。1192年、鎌倉幕府は成立した。
●源頼朝
神奈川県にある鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府の中央神殿ともいうべき建物である。豊臣秀吉が天下統一後にここへ参拝し、末社の白旗神社にあった頼朝の木像の肩をたたいて次のように言ったと言う。「微賤(卑賤)の身で天下を取ったのは貴公とわしだけだが、貴公は源氏の後胤(子孫)で皇統に近い。しかも関東になじみもある。しかし、わしは氏素性のない身から天下を取ったのだから、わしの方が上だ」
さて、源氏のプリンスが、何故身分が低くて卑しい「微賤」とされたのか・・そして何故、幕府を開けるまでになれたのか。来週は、神はいるかも知れないと感じられずにはいられないほど、大きな幸運が続くと微賤者でも天下を統一できるという歴史上の事実をお届けしたい。いよいよ北条政子もお出ましだ。
●源頼朝
頼朝は十四歳から三十四歳までの二十年間を伊豆で流罪人として過ごした。行動は比較的自由だったが「人間五十年」の時代だ。いわば人生の実りの部分を終身刑の囚人として過ごしたのである。その間、父を死に追いやった平家は着々と勢力を伸ばして、清盛は天皇の外祖父になり日本全国の半分を占めた。もちろん残りの半分も直轄ではないだけで平家の勢力下にあった。そんな状態から、頼朝は平家を倒したのである。不思議だ。奇跡だ。しかもそれは一つではない、幾つもあった。
●「北条時政」
当時「大番役」と言って、武士たちは交替で都の警固をする義務があった。頼朝は二十歳で、父親が大番役で居ない隙に八重という娘といい仲になり一人息子をもうけた。三年後に京から帰り「平家に逆らった天下の大罪人の子」と娘の仲を知った父は恐れを成し、即座に一人息子を殺して娘は他の男のところへ嫁に出した。慌てて蛭ヶ小島に逃げ帰った頼朝が、次に好きになったのが北条政子。やはり父の時政が大番役の時に、頼朝の方からラブレターを送っていい仲になる。京から帰った時政は仰天して政子を他の男に輿入れさせたが、政子は脱出して頼朝の待つ伊豆山別当寺に逃げ込んでしまう。さて、あなたが歴史好きなら、ここで《ミニ家康》と言われた時政がとった新しい形式に着目しなければならない。
●この時代、男が女の家に忍んでいくという「源氏物語」方式が普通だったにもかかわらず、当時としては新しいタイプの《輿入れ式》 にしたのは、実は時政が頼朝と政子の仲を承知の上で「俺は確かに山本判官に娘をやるという約束を守ったぞ」と世間に知らしめるため策ではなかったかと推測される。
天下の大罪人を娘婿にするなど、常識で考えればとんでもないことで下手をすれば家が滅びることになる。時政はこの時点で、平家政権は崩壊が有り得ると予測していたのではないか。
●夢を語るのと、実現のために行動するのとは違う。
大名たちは他国との領土争い、境界争いで手一杯だった。そんな状況で一足飛びに天下統一を目指すなど、まさに正気の沙汰ではない。天下を取るためには、周囲の大名を全て敵にしなくてはならないからだ。
ところが、織田信長は、明らかに若い頃から天下を統一するというビジョンのもとに戦争や領国経営をやっている。信長だけがグランド・デザインを持った天才だったのだ。たとえば武田信玄は信長のやることを横目で見ていて、「あんな若造にやれるなら俺も」と思ったに過ぎない。秀吉にいたっては完全に信長の敷いたレールの上を走っただけだ。
●話は戻る。頼朝も「平家を倒したい」という夢はあったかもしれないが、天下を取るような現実的計画はなかったし、それを実行するような気持ちもなかった。ではなぜ、頼朝が天下をとったのか・・・。
時政は「平家政権の崩壊」を予測していた。それを確信する事件が起こる。1177年「鹿ケ谷のクーデター」である。これは清盛の知るところになって全員が処罰された。当時の人々は「平家の体制は盤石だ」と思ったろう。しかし、時政だけは違っていた。
頼朝に娘を嫁がせて、あえて「源氏の株」を買ったのである。
●1180年、時政の勘は見事的中した。後白河法皇の次男以仁(もちひと)王が「平家追討」の令旨を出して、それが全国の源氏に伝えられたのである。清盛の強引な決定によって清盛の娘と高倉天皇の間に生まれたわずか三歳の言仁(ときひと)に天皇の位を奪われてしまったため、以仁は親王にすらなれなかったのである。ここに源三位頼政という男が出現し、天皇になれなかった以仁に「平家追討」を持ちかけたのである。ここに平家崩壊の第一歩が刻み込まれた。
●ずうっと藤原摂関家の「番犬」だった源氏に取って、天下を奪った「武家」の平家が敵ということになれば、滅ぼすことに何の抵抗も罪悪感もない。平家追討令は全国の源氏に向けて伝えられたが、この計画は一ヵ月後に平家の知るところとなり、1180年5月26日に頼政は自害して以仁王も流れ矢にあたって死んだ。さて、ここでまた偶然は重なる。この計算を立てて殺された頼政の領地が何と伊豆であったのだ。頼朝が住む伊豆である。
清盛は怒り狂って「諸国の主だった源氏を皆殺しにせよ」と追討令を出した。そして、強引に京都から神戸へ遷都してしまう。ここから平家の崩壊が始まり、家来たった二、三人の天下の大罪人、頼朝の強運が、いよいよ全国土に向けて発揮されていくといった大奇跡が起こる。