●奈良の大仏

聖武天皇の発願により七四九年に竣工、七五二年に開眼供養された奈良の大仏。当時世界最大の金銅仏は、莫大な費用をかけた当時ではハイテクの産物だった。「大仏の力で天下安泰、国民を幸福に」と聖武天皇が宣言した二年前、凶作、飢饉、地震、疫病と、あらゆる災難が頻発して財政が苦しかったにも拘らず、すべての国に国分寺と国分尼寺といった巨大な二つの寺院の創建を命じた。その上でなお世界一の金色に輝く大仏を造った背景には、ある人物の大きな狙いが隠されていた。



●聖武天皇

たった一歳で病死してしまった男の子とほぼ時を同じくして、聖武天皇には二番目の男子の安積(あさか)親王(十七歳で突然急死)が生まれたが、藤原氏の血を引いていないということで指名なし。安積親王に次ぐ皇位継続候補の左大臣「長屋王」は、藤原家四兄弟から謀反という無実の罪を着せられて謀殺(その後四ヶ月で四人共死亡)されたことは一級資料に明記してある。そして前代未聞の珍事である、日本史上ただ一人の女性皇太子が誕生した。後の称徳女帝だ。



●平安京

東(清龍)流水(川)・・南(朱雀)沢畔(湖沼)・・西(白虎)大道(街道)・・北(玄武)高山・・平安京は多くの学者が指摘しているように、この四神に「相応」している。北には「船岡山」、西には「山陰道」、東には「鴨川」、南には「巨椋池」である。つまり、平安京は陰陽道によって設計された都であることを示しているのだ。そのうえ、陰陽道で最も不吉とされている鬼門には「魔よけ」として巨大寺院を建立してある。比叡山延暦寺がそれだ。桓武が最澄を可愛がった理由がここにある。ところが、面白いのはこれに留まらない。歴史は関連しているのである。



●平安京と江戸

東(青龍)に流水(川)南(朱雀)に沢畔(湖沼)西(白虎)に大道(街道)北(玄武)に高山。平安京は「四神相応」つまり陰陽道によって設計された都であると前回お伝えしたが、驚くことにそれから約800年後に造られた江戸も四神相応の都なのである。東に隅田川、南に江戸湾、西に東海道、北に上の山、そして鬼門には巨大寺院「東叡山寛永寺」を置くことまで京と江戸は一致している。東叡山とは読んで字の如し、東の比叡山という意味である。これだから歴史は面白い。



●小野小町

新聞や雑誌で分かるように、昔から不幸な死に方をした女性を「美人」と書いて、その霊が一番喜ぶ事を言って鎮魂するのが日本の常識だ。では日本一美人と言われた六歌仙の一人、小野小町は、日本一不幸な死に方をしたのか。古事記によると允恭天皇の皇女だったが、同母兄である木梨軽皇子(きなしかるのみこ)を愛してしまい、共に流罪に処せられてその地で死んだという。実の兄が愛してしまうのだから、本当に絶世の美女だったのかも知れない。また、同じ六歌仙の一人である文屋康秀とは明らかに親しい仲であり、古今集には「都落ち」を誘われて受け入れる場面も出ている。



●源氏物語

源氏とは藤原氏にとって最も強敵でありライバルであった。これは光源氏と言う若者が、ライバルである一族(当時の常識から言って明らかに藤原氏)に対して勝利を収め、摂関を超えた地位の准太上天皇になるという物語である。しかも、驚いたことに紫式部がこれを書いたことは誰もが知っており、藤原氏の氏の長者でもある道長も知っている。「紫式部日記」によると、道長はどうやら式部に当時では大変高価な紙やすずりを与えて、一種のパトロン的存在であった事は間違いないのである。変だ・・こんな変な事はない。

例えばプロ野球の読売ジャイアンツに勤める女性が「光るタイガース物語」という小説を書いたとする。小説はその年のペナンとレースにおいて「阪神タイガース」が明らかにジャイアンツとしか思えない「東京の球団」をコテンパンにやっつけて日本一になるという小説だった。これを書く女性を、ジャイアンツの社長や親会社の社長が支援して「やあ、よく書けたね」「面白くて私も愛読してるよ」などと褒めるだろうか。

源氏物語は誰が読んだって、源氏が善玉で、藤原氏が悪役なのだら・・・。これを傲岸不遜な道長が紫式部を処罰するどころか創作を応援していたのだから、こんな変な話はないのである。 



●続-源氏物語



一体なぜ、大学者藤原公任の「頭を踏んづけてやる」と言い放ったほどの傲岸不遜な藤原道長が、ライバル源氏の貴公子が「藤原氏」に圧倒的な勝利を収める物語を書く紫式部を応援するのかといえば、そうすることによって藤原氏に蹴落とされた源氏たちの怨霊が「気分をよくして穏やかに振舞う」と考えたからだ。物語が書かれた時点で源氏は没落していて、何を書こうが、天皇になった孫を何人も持つ外祖父の道長には痛くもかゆくもないことなのである。源氏物語は藤原氏に蹴落とされた源氏一族に対する「鎮魂物語」なのである。これは、学界でも怨霊であると全く異論のない菅原道真が憤死後に、太政大臣の官を追贈したのと同じ意味がある。



●平将門

東京都千代田区大手町一丁目一番一号に、三井物産などの大手近代ビルに囲まれて将門塚がある。平安の昔、朝廷に反逆した将門の首が葬られている所として、今なお丁重に祀られている。関東一円の大親分的ヒーローだった彼は「実力ある者が天下を取って当然」といった、当時では全くなかった考え方を初めて社会に打って出た《武士の先駆者》である。将門は神田明神の御霊神でもあるが、昔から大手町の将門塚を動かそうとすると、そのたびに人がバタバタと倒れて死んだり大怪我をしたことはご存知だろうか。現代でもこの塚の周囲のオフィスビルでは、塚に尻を向けた形で席を作るとタタリがあると真顔で語られているほどだ。



●武士の起こり

統治力を失った王は新しい王に代わられて当然として理論化し、これを革命として正当化したのは孟子である。しかし、これは日本では認められない。天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)によって、天皇を倒して天下を取る訳にはいかないのだ。では、天皇を倒さずしてどうやって権力を握るかとなれば、藤原摂関政治のような「寄生虫主義」を取るしかないのである。自浄作用が起こらなければ革命は起こらない。こういった地獄に対して武力を持って初めて抗議行動を起こした地方豪族が平将門だったが、摂関政治はピクリともせず絶頂期を迎えたのである。



●武士の成立



「日本の大魔王となって天皇家を没落させ平民をこの国の王にしてやる」自分の舌を噛み切って出した血で書いた呪いを遺し、崇徳天皇が讃岐で憤死して三年後、武士の平清盛が太政大臣になり、やがて政治の実験を握る。平治の乱で源氏に勝った清盛は実に「やさしい男」だった。当時中学生と赤ん坊であった、源義朝の遺児、頼朝と義経の命を助けた。この二人が成長して兵を挙げ、平家を滅ぼしたのである。つまり命の恩人の平清盛とその一族を皆殺しにしたのだ。優しさの結果は「一族滅亡」に終わった。1192年、鎌倉幕府は成立した。



源頼朝



神奈川県にある鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府の中央神殿ともいうべき建物である。豊臣秀吉が天下統一後にここへ参拝し、末社の白旗神社にあった頼朝の木像の肩をたたいて次のように言ったと言う。「微賤(卑賤)の身で天下を取ったのは貴公とわしだけだが、貴公は源氏の後胤(子孫)で皇統に近い。しかも関東になじみもある。しかし、わしは氏素性のない身から天下を取ったのだから、わしの方が上だ」

さて、源氏のプリンスが、何故身分が低くて卑しい「微賤」とされたのか・・そして何故、幕府を開けるまでになれたのか。来週は、神はいるかも知れないと感じられずにはいられないほど、大きな幸運が続くと微賤者でも天下を統一できるという歴史上の事実をお届けしたい。いよいよ北条政子もお出ましだ。



●源頼朝

頼朝は十四歳から三十四歳までの二十年間を伊豆で流罪人として過ごした。行動は比較的自由だったが「人間五十年」の時代だ。いわば人生の実りの部分を終身刑の囚人として過ごしたのである。その間、父を死に追いやった平家は着々と勢力を伸ばして、清盛は天皇の外祖父になり日本全国の半分を占めた。もちろん残りの半分も直轄ではないだけで平家の勢力下にあった。そんな状態から、頼朝は平家を倒したのである。不思議だ。奇跡だ。しかもそれは一つではない、幾つもあった。



●「北条時政」

当時「大番役」と言って、武士たちは交替で都の警固をする義務があった。頼朝は二十歳で、父親が大番役で居ない隙に八重という娘といい仲になり一人息子をもうけた。三年後に京から帰り「平家に逆らった天下の大罪人の子」と娘の仲を知った父は恐れを成し、即座に一人息子を殺して娘は他の男のところへ嫁に出した。慌てて蛭ヶ小島に逃げ帰った頼朝が、次に好きになったのが北条政子。やはり父の時政が大番役の時に、頼朝の方からラブレターを送っていい仲になる。京から帰った時政は仰天して政子を他の男に輿入れさせたが、政子は脱出して頼朝の待つ伊豆山別当寺に逃げ込んでしまう。さて、あなたが歴史好きなら、ここで《ミニ家康》と言われた時政がとった新しい形式に着目しなければならない。



●この時代、男が女の家に忍んでいくという「源氏物語」方式が普通だったにもかかわらず、当時としては新しいタイプの《輿入れ式》 にしたのは、実は時政が頼朝と政子の仲を承知の上で「俺は確かに山本判官に娘をやるという約束を守ったぞ」と世間に知らしめるため策ではなかったかと推測される。

天下の大罪人を娘婿にするなど、常識で考えればとんでもないことで下手をすれば家が滅びることになる。時政はこの時点で、平家政権は崩壊が有り得ると予測していたのではないか。

●夢を語るのと、実現のために行動するのとは違う。

大名たちは他国との領土争い、境界争いで手一杯だった。そんな状況で一足飛びに天下統一を目指すなど、まさに正気の沙汰ではない。天下を取るためには、周囲の大名を全て敵にしなくてはならないからだ。

ところが、織田信長は、明らかに若い頃から天下を統一するというビジョンのもとに戦争や領国経営をやっている。信長だけがグランド・デザインを持った天才だったのだ。たとえば武田信玄は信長のやることを横目で見ていて、「あんな若造にやれるなら俺も」と思ったに過ぎない。秀吉にいたっては完全に信長の敷いたレールの上を走っただけだ。

●話は戻る。頼朝も「平家を倒したい」という夢はあったかもしれないが、天下を取るような現実的計画はなかったし、それを実行するような気持ちもなかった。ではなぜ、頼朝が天下をとったのか・・・。

時政は「平家政権の崩壊」を予測していた。それを確信する事件が起こる。1177年「鹿ケ谷のクーデター」である。これは清盛の知るところになって全員が処罰された。当時の人々は「平家の体制は盤石だ」と思ったろう。しかし、時政だけは違っていた。

頼朝に娘を嫁がせて、あえて「源氏の株」を買ったのである。

1180年、時政の勘は見事的中した。後白河法皇の次男以仁(もちひと)王が「平家追討」の令旨を出して、それが全国の源氏に伝えられたのである。清盛の強引な決定によって清盛の娘と高倉天皇の間に生まれたわずか三歳の言仁(ときひと)に天皇の位を奪われてしまったため、以仁は親王にすらなれなかったのである。ここに源三位頼政という男が出現し、天皇になれなかった以仁に「平家追討」を持ちかけたのである。ここに平家崩壊の第一歩が刻み込まれた。



●ずうっと藤原摂関家の「番犬」だった源氏に取って、天下を奪った「武家」の平家が敵ということになれば、滅ぼすことに何の抵抗も罪悪感もない。平家追討令は全国の源氏に向けて伝えられたが、この計画は一ヵ月後に平家の知るところとなり、1180年5月26日に頼政は自害して以仁王も流れ矢にあたって死んだ。さて、ここでまた偶然は重なる。この計算を立てて殺された頼政の領地が何と伊豆であったのだ。頼朝が住む伊豆である。


清盛は怒り狂って「諸国の主だった源氏を皆殺しにせよ」と追討令を出した。そして、強引に京都から神戸へ遷都してしまう。ここから平家の崩壊が始まり、家来たった二、三人の天下の大罪人、頼朝の強運が、いよいよ全国土に向けて発揮されていくといった大奇跡が起こる。


































●太子の母、穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのひめみこ)が臨月に宮中を歩いていたところ、突然厩の前で産気づいて太子を産んだ。そこで厩戸皇子(うまやどのみこ)と名づけたと「日本書紀」に書いてある。聖徳太子と呼ばれるようになったのは、太子の死後のことだ。太子が「聖」なる「徳」のある偉大な人物だったからそう呼ばれたという考え方はごく一般的であるが、実はそういう考えでは日本の歴史の真の姿は見えてこない。


●「聖徳」といった美称で呼ばれるだけの、別の理由がちゃんとあるのだ。「太子は八人の訴えを一度に聞いて理解した」という伝説があるほど優秀な人材だったが、青年期は平和主義者ではなくむしろ戦う太子だった。まず蘇我と物部の崇仏論争において、太子は血のつながりの濃い蘇我氏と共に戦う。勝ったら建てると仏に誓った通り、太子は戦の勝利を仏に感謝して大阪に「四天王寺」を建立した。ここには青白く光を放ち刃こぼれひとつない七星(しちせい)剣・丙子椒林(へいししょうりん)剣という、太子が使った名刀中の名刀が国宝として保存されている。(現代に例えて)中学二年で知事だった父が死ぬ。その時副知事を務めていた馬子の娘と、高校三年で結婚し長男誕生。この時の知事は伯父だったが、太子の妻の家庭教師で不倫相手だった男から暗殺される。直後二人は駆け落ちを企てたが、男は義父に殺され妻は後を追って自殺。太子は父子家庭になって大きく動転した。


●「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」太子が小野妹子に持たせたこの国書はよく知られているが、これが如何にとんでもない手紙であるかはよく知られていない。当時世界で三本の指に入るほどの国家であった隋の皇帝煬帝に、何と「そちらに手紙を送るよ。どう、元気かい」といった感じの対等の言葉遣いで送っているのだ。外交感覚の極めて異常な太子に、皇帝煬帝はカンカンに怒った。

 

●妻に自殺された太子に、思いがけない事実が次々と明るみに出る。太子から見て異母兄が居たが、五年前に未亡人になった母は寂しさの余りその異母兄と肉体関係になって妊娠してしまう。悩んだ太子は亡くなった妻の父親(義父)に相談に行くが、そこで義父と叔母(推古天皇)との肉体関係を知る。太子はショックの余り、遂にノイローゼに陥った。


●崇峻天皇暗殺で、推古天皇の息子竹田皇子は幼過ぎて継げない。十九歳の太子が最適候補者だったが、推古女帝は意地で日本史上前例のない即位を果たして竹田皇子擁立までのつなぎとなり、一方で太子を崇峻天皇暗殺事件の主犯格だと噂を流した。太子は遂に強度のノイローゼに陥って、飛鳥を離れて恵慈法師と四年間のメンタルケアの旅に出る。


●転地療養をして回復した頃にたまたま竹田皇子が死んだので、太子は日本初の摂政として政界に復帰した。冠位十二階、十七条憲法を制定、遣隋使を派遣など功績は素晴らしかった。ただ「和を以て貴しとなす」と言いながら、外交では新羅出兵、「日出ずる処の天子・・」と極めて生意気な国書を煬帝に出して隋との強硬外交など武断主義を取る分裂的傾向が見られると指摘されている。


●内政においては虫も殺さない平和主義者で、外交においては出兵も辞さない武断主義者が太子なのだ。そんな人間は普通いないが、太子の強度のノイローゼに陥っていた過去が大きく影響していると考えるべきだろう。そうした欠点を有能な側近に助けられながら、太子は日本を豪族連合国から天皇中心の中央集権国家にする橋渡しの役を果たす。


●小野妹子などはその一人で、「日出ずる処の天子・・」といった侵略を招きかねない極めて危険な国書に宛てた隋の煬帝からの返事を「百済で盗まれた」と言いながら、わざと失くしたのも一例である。

推古天皇は七十五歳といった当時としては破天荒な長寿を保って死んだ。太子はその六年前の622222日に、妻の中でも一番低い身分の膳部婦人と心中して49歳で亡くなったと、太子を賛美するために書かれた≪ 太子伝暦≫にあえて記してある。太子は遂に天皇になれず終いで亡くなってしまう。


●殯(もがり)の期間は驚くことわずか8日。夫婦の遺体が後から加えられた太子の母親の陵は、三骨一廟と言われて叡福寺の後ろにある。太子の息子は山背大兄王(やましろのおおえのおう)の時に、孫も含めて蘇我一族に皆殺しにされ、遂に太子の霊を祀る子孫はそこで絶滅する。さて、太子の死後に付けられた、「聖徳」の名前の意味にいよいよふれて行きたいと思う。


●太子の死後、息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を殺すために蘇我入鹿が兵を挙げた時「私が軍を起こせば入鹿に勝つが、自分の都合で人民を殺傷したくないから、ならばこの身をくれてやる」と一家で集団首吊り自殺をして果てた。この時点で太子の血は絶えてしまう。


●「徳」のつく天皇は六人。36代目孝徳天皇は女房に逃げられ屈辱を味わって孤独死・48代目藤原氏の陰謀で即位した女帝称徳天皇は急死で暗殺説有・53代目文徳天皇は発病わずか4日で急死で暗殺説有・75代目崇徳天皇は天皇家を没落させると呪をかけて憤死・81代目安徳天皇は海中に投身自殺・84代目順徳天皇は流罪地で憤死・そして聖徳太子は自殺。「徳」の字を含む諡号(しごう)は「不幸な生涯を送り無念の死を遂げた人に贈るもの」という常識があったと考えられる。


●ではなぜ、隠岐に流されて亡くなった後鳥羽・土佐へ流されて阿波で亡くなった土御門の両上皇の諡号に「徳」ついていないのかといった疑問が残る。

土御門は大変優しい性格の人であった。統幕にも一切加わっていない。父後鳥羽と弟順徳が流罪になったのに自分だけ京に住めないと、自ら進んで土佐へ移った。幕府が「無罪なのでお戻り下さい」と気兼ねして嘆願した結果、ならばと、京に少し近い阿波に移ったのである。


●後鳥羽は、実は死後四年間だけ「顕徳院」と呼ばれていた。当時では、徳という字は「無念の死を遂げた怨霊あるいはその予備軍に送られる専用の字」になっていた。徳という字を死後贈る事で、鎮魂したのである。しかし、文徳のあたりまではこれで効き目があったのに、崇徳でまったく効き目がなくなった。その後も徳の字を与えながら、祟った二人目の天皇が出てしまう。それが顕徳である(歴史辞典にも明記)。それで再度後鳥羽に戻して、ここで徳の字鎮魂法に終止符が打たれたのであった。

徳とは「最高の人格者であり王者としての必須条件を示す字」である。そういった文字を本当にそうではなかった王者に与える事で、当時は「鎮魂」できると考えていた。


●明治天皇の即位式は、1864826日に勅使が崇徳院の霊に「謝罪」した翌日に行われたことは事実である。崇徳上皇が「崇って天皇制を崩壊させる」と宣言して憤死した後、それは宣言通り実現した。1164年に亡くなった12年後に平清盛が天皇を超える権力を得、さらに12年後には源頼朝によって鎌倉幕府が成立する。「崇」と「徳」という字がついた崇徳上皇は、日本の怨霊の帝王として自他共に許す存在なのだ(太平記)。だから明治天皇は即位前に「許してください」と謝りに行ったのである。


●皇室系図に、天智天皇は実の娘を四人を天武天皇に嫁がせたと明記。日本書紀には、天武が即位した時に三種の神器のうちの草薙剣が祟って天武が病気になったと明記。京都の泉涌寺(せんにゅうじ)は、明治以前の天皇家の菩提寺だが、驚くことにこの寺には天武以後称徳女帝までの七人の位牌がない。つまり天皇家は七人を無縁仏として扱い、更に驚くことに日本古来の神式による祭祀からも除外している。以上のことから天武は天智と無縁だと考えられる。


●天武天皇

天武は天智系から皇位を奪ったが、天武系は称徳女帝(何故か急死)で子孫が絶えて断絶。こういった幸運により、血統は天智系の光仁帝に戻る。これは正に奇蹟であり、この幸運が無かったら皇位は天智系に決して戻らなかった。光仁帝はヒステリックな称徳の粛清にあわないようアルコール依存症のふりをしていたとされ、六十二歳で即位した人物である。この光仁帝と百済系の帰化人の間に生まれた山部親王が皇太子となって完全な形で皇位が天智系に移行した時、平城京から平安京への遷都(せんと)が行われた。


●奈良の大仏

聖武天皇の発願により七四九年に竣工、七五二年に開眼供養された奈良の大仏。当時世界最大の金銅仏は、莫大な費用をかけた当時ではハイテクの産物だった。「大仏の力で天下安泰、国民を幸福に」と聖武天皇が宣言した二年前、凶作、飢饉、地震、疫病と、あらゆる災難が頻発して財政が苦しかったにも拘らず、すべての国に国分寺と国分尼寺といった巨大な二つの寺院の創建を命じた。その上でなお世界一の金色に輝く大仏を造った背景には、ある人物の大きな狙いが隠されていた。


●聖武天皇

たった一歳で病死してしまった男の子とほぼ時を同じくして、聖武天皇には二番目の男子の安積(あさか)親王(十七歳で突然急死)が生まれたが、藤原氏の血を引いていないということで指名なし。安積親王に次ぐ皇位継続候補の左大臣「長屋王」は、藤原家四兄弟から謀反という無実の罪を着せられて謀殺(その後四ヶ月で四人共死亡)されたことは一級資料に明記してある。そして前代未聞の珍事である、日本史上ただ一人の女性皇太子が誕生した。後の称徳女帝だ。


●持統王朝

嗣子たちは、草壁皇子28歳で死亡・文武天皇は25歳で死亡・聖武天皇は生涯病弱でノイローゼ気味(様々な記録に残る)・基王は1歳で死亡している。これを光明皇后は、徳川綱吉同様「呪われているから跡継ぎが生まれない」と考えた。藤原氏の手は血で汚れていた。長屋王を無実の罪で陥れて自殺に追い込み、やがて父・子・孫の三代にわたって皆殺しにした。ところが長屋王を自殺させた光明の四人の兄達は、その四ヵ月後に全員が天然痘にかかって一度に亡くなった。自分も跡継ぎを産めないし、藤原氏が聖武に新たな婦人を二人与えても男子は生まれない。だから聖武に「国分寺と国分尼寺を国ごとに建て、東大寺の大仏の建立してほしい」と強く勧めたのであった。

ちなみに国分尼寺は「法華滅罪之寺」とも言う。


●桓武天皇


称徳女帝の死によって天武・持統王朝は断絶して、光仁天皇の天智王朝が復活した。山部親王が皇太子になって桓武天皇として即位し、天武系のしがらみから全く解放された純粋な天智王朝の奇跡的復活だった。膨大な資本を投下して建設した平城京と東大寺をたった八十四年でアッサリ捨てたのが、この桓武天皇である。光仁天皇は桓武の弟で、東大寺に強い権力を持つ早良親王を次の天皇にする予定だったが、785年に無実の罪を着せられて断食して憤死。この直後から桓武天皇には不幸が立て続けに起こり、その原因を陰陽師に占わせたところ「早良の祟り」と出た。そして794年に平安遷都という大事件が起こる。平安京は陰陽道(日本では風水をこう呼ぶ)に則り「怨霊からの防御目的」のために建都された。

平安遷都に先立つこと二年の七九二年、怨霊を恐れる平和主義者の桓武天皇は、世界においておそらく空前絶後の政策を実行した。全国の成年男子の三人に一人が必ず徴兵されるという律令制度における大規模な「正規軍」を廃止して、「健児(こんでい)」という全国でたった3,155人の専門兵士の集団に変えて国の治安を護ろうとしたのだ。ところが驚くことに、健児は平安時代の中期以前に自然消滅してしまう。日本は平安時代の大半にあたる四百年にわたって何と「軍隊なき国家」になり、公式な死刑は一度も執行されていない。



●天智と天武天皇


天武は天智系から皇位を奪ったが、天武系は称徳女帝(何故か急死)で子孫が絶えて断絶。こういった幸運により、血統は天智系の光仁帝に戻る。これは正に奇蹟であり、この幸運が無かったら皇位は天智系に決して戻らなかった。光仁帝はヒステリックな称徳の粛清にあわないようアルコール依存症のふりをしていたとされ、六十二歳で即位した人物である。この光仁帝と百済系の帰化人の間に生まれた山部親王が皇太子となって完全な形で皇位が天智系に移行した時、平城京から平安京への遷都(せんと)が行われた。