第12章宗教という朝人間的秩序

 宗教は差別や意見の相違、不統一の根源。想像上の社会秩序は脆弱で、その構造に超人間的正当性を与えるのが宗教。宗教は今日人間的な秩序の信奉に基づく、人間規範と価値観の制度と定義。宗教の特性いつでもどこでも普遍的な超人間的秩序を信奉していること。この秩序を多数に広めること、宣教がもためられる。アニミズム信仰の前は人類の規範と価値は動植物や死者の霊といったほかの無数に存在する見地やりがいを考慮する他になかった。これは局地的な信仰であったが、農業革命と宗教革命は同時進行。動植物は人が操作,所有することにより農業革命の宗教的結果として信仰から資産へと格下げとなった。人間とは口の聞けない動植物と仲介するのが神の役目であり、それによって豊作や多産という恩恵を預かる様になった。そして公益ネットワークができると限定的ではなく交易の広さに比例する様な紙が必要となった。そして多神教が完成。アニミズム信奉者は自分達は多くの生き物の一つにしか好きな糸考え、多神教信者達は世界を神と人間の関係の反映と見る様になり,起こりうることは関係の悪化や改善と捉えた。

偶像崇拝の恩恵、多神教の根本的洞察は、世界を支配する神は関心や偏見を持っておらず、人間の欲望や心配には無頓着である。だから、古代多神教信者はわざわざ生贄を素下げたり神殿の建築は行わなかった。この世界の神に近づく唯一の理由は全ての欲望を捨て善も悪も受け入れること。敗北貧困死すらも受け入れる。多神教の一部は多神教の神から自分のお気に入りを選び国教として制度化。善と悪の戦い、何故行いを守っているのに悪が訪れるのか、それは悪いことが起きることによっていいことが存在するからだ。自然の法則、道教儒教や地中海は神に無関心であり、世界を支配している超人的秩序は神の意思ではない。ゴータマは渇愛は常に不満を伴うと悟った。割愛の火を消し去ればそれに変わる完全な満足、平穏が訪れる。(涅槃)ブッダ曰く、「苦しみは渇愛から生まれるので、苦から解放される唯一の方法は渇愛からの完全解放。心を鍛え現実をあるがまま経験すること」と説いた。(ダルマ)仏教は繁栄や権力ではなく最終的目標の苦しみからの完全な解放を目指した。人間の崇拝、自然法則の新宗教の自由主義、共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムは自らを宗教とは認めずイデオロギーという。違いは神を信じて行うか否か。信念の基づき方の違いでしかない。(宗教とは超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系。人間の思考に基づいたというのがミソ) 有神論宗教(人間至上主義〜至高の善はサピエンスの善、資本主義,自由主義、国民主義)自由主義の人間至上主義は個人の自由は神聖でありそれは一人一人に宿っている。そのここに眠る内なる核心が世界に意味を与え,倫理的政治的権力の源泉となる(人権というもの)。例えば自由主義者は死刑反対、犯罪者は秩序を乱したとして、宇宙秩序の均衡を取り戻すみんなが秩序の再確立を見届けるために見せしめにするが、近代ヨーロッパは最も人道的な方法で、尊厳を守り、再建さえ認め犯罪者の人間的性質を尊重することが、己の人間性に気づくこととなる。殺人者が不当な扱いをしたものを正当に扱うのだ

社会主義的、人間至上主義。(人間性は個人ではなく集合的なもの、全人類の平等。不平等は冒涜であり、人間の普遍的本質よりも皮相的な特性を優遇することになるから、例えば、富める者が貧しいものより優遇されることはそれは人間の普遍的本質よりもお金を重んじることになるから、この本質は全ての人間が同じなのに)、一神教と縁を切った人間至上主義宗派ナチス、(人類を退化から守り斬新な進化を促すこと、人類の最も進んだ進化人種のアーリヤ人を尊び他を抹殺する)オーストラリアが排他的なのは白人至上主義のため人種による区別があった。ドイツの生物学テキストには自然の法則として不適当なものは排除され生き残ることができるものは全て選ばれる。この法則は容赦なく不変。(我が闘争)、現代の自由主義的な政治制度と司法制度は伝統的キリスト教の生まれ変わりであり帰ることのできない信念となっている。しかし昨今はこの信念はどの動物にも起こりうるホルモンの働き。この事実を隠し通せるのか。

 第13章歴史の必然と謎めいた選択

 後知恵の誤謬、歴史を理解しているものは選択されなかったことに対しても多くを知っている。後から振り返って必然に思えることも当時は明確ではなかったのが歴史の鉄則。現在の人権を信奉する主義はただの偶然。歴史の研究は、正確な予想をするためではなく視野を広げ、現在が必然でも自然でもなく多くの可能性があることを,理解するため。盲目のクレオ歴史の選択は人類の利益のためになされるのではない。文化的概念も人の心で生きていてまるで寄生虫。文化は精神的寄生体。「ミーム学)

第4部科学革命

第14章無知の発見と近代科学の成立

進歩には科学と政治と経済のサイクル支援に依存している。無知な人、古代知識は人間にとって重要な事柄は神が示してくれていが、近代科学は最も重要な疑問に関して集団的無知を認めている。私たちの現在の科学的答えは仮のものでしかない。ニュートンは自然という書物が数学という言語で書かれていることを示した。健在のスコットランドの未亡人という保険会社、統計学が生まれた。知は力、進歩の理想、無数の神話は人間の限界を越えようとする試みは必ず失望と惨事につながると考えるが近代では、まだ知られていない重要な事柄が多数あることを認め無知の自認が新しい力を与えてくれる。進化は可能であると思いはじめた。死、病、災害など全ての問題は解決しうると考える。(ベンジャミンフランクリンの避雷針による神の武装解除)。現に生物学的貧困からは解放されている。ギルガメッシュプロジェクト、多くの信仰は死にたいし意味を与えることに励んだ。しかし医療は確実に進歩し2050までにアモータル「非死)が可能となると言う。化学を気前よく援助する人、私たちの問題の答えは科学とテクノロジー。科学者が化学研究の優先順位を決定するのではなく政府や企業が決定し資金援助する。科学には未来になにが起こるべきかを知る資格はない。宗教度イデオロギーだけがこの問いに応える。研究の恩恵に預かれるか否かが補助金実行を決定するのだ。科学は自らの優先順位を設定できない。

第15章科学の帝国の融合

 太陽と地球の距離を知るため世界各地に観測隊のジェイムズクックを派遣すると、各地の科学を大量に持ち帰ったがそれと同時に植民地も増やしていった。「タスマニア、アボリジニ、マオリ人)これが母学革命と近代帝国主義の切っても切れない関係。なぜヨーロッパなのか?、ヨーロッパの成功はテクノロジーの刷新によって起こされた。中国人やペルシア人に欠けていたのは西洋で何世紀もかけて形成され成熟した価値観や文化、政治を模倣したり取り組んだりしなかったのだ。日本が首尾よく西洋に追いついたのは、西洋文明を採用した上、社会と政治の多くを手本として作り直したから。西洋は近代前期の貯金があった。この近代前期は、近代化学と近代資本主義が互いに補完し合いながら作り出した。制服の精神構造、西洋の学者も征服者も無知を自覚していた。富と権力を求めて征服したモンゴルやアステカとは違い、西洋は新たな領土と知識を欠くことを望んだ征服。空白のある地図、コロンブスは無知を自覚していなかった。近代人第一号はコロンブスの発見したアメリカ大陸を探検しアジアではないとしたアメリゴヴェスプッチ。当時の王たちは近隣諸国のみを自国の安全のために征服していった。鄭和ていわも航海をしたが隣国日本すら征服しなかった。近代人ヨーロッパ人は未知の大陸を王のものだと宣言したいという意欲に駆られた。宇宙からの侵略、スペイン人「エルナンコルテス)はカリブ諸島(アステカ、インカ帝国など)をほとんど制圧し奴隷としたが,その奴隷も感染症などで死ぬとアフリカ奴隷を輸入。コルテスはアステカ族皇帝モンテスマを捕虜に。インカ帝国はピサロが抑えた。こうしている中でもそれを知ったアジア諸国は制服を真似ようとはしない。唯一日本はアッツ、キスカ島を1942年になって遠征隊を送ったくらい。この侵略は20世紀になってから、アルジェリアの独立戦争により反植民地主義の世界ネットワークに支えられようやく反転し出す。帝国が支援した近代科学、 近代ヨーロッパにとって帝国建設は化学的事業であり科学の学問領域の確立を望んだ。ローリンソンのべヒストゥン碑文の解読。ウィリアムジョーンズの比較言語学。帝国が科学によってイデオロギーの面で自らを正当化できた。科学領域の殆どが帝国の成長に尽くす僕として始まったのだ。

第16章拡大するパイという資本主義のマジック

近代経済は1500年の全世界の財とサービスの総生産量は2500億ドル一人当たり550ドル、現代は60兆ドル一人当たり8800ドルに成長。将来の資力が現在とは比べ物にならないほど豊かになるという信用、想定の上成り立っている。古代シュメールにもクレジットは存在したが、将来が今より良くなるとは思えずあまり使わなかった。富の総量は限られていると考えていたからである。ゼロサムゲームの如く富むことは他では貧を産むと考えていたので大金を稼ぐことは罪とされた「キリスト)。故にキリスト教徒は富を得たら貧しい人への贖罪として寄付が行われる。拡大するパイ、進歩は自分が無知であることを認め研究巣に投資すれば物事が改善するという見解の上になりたっつている。進歩の考えのもと人々は未来を信頼するようになる。アダムスミスは強欲は善であり個人の裕福は全体の裕福、利己主義は利他主義である。利益は再投資されるべき。資本主義は資本を富を区別する。資本主義の宗教的第一原則は経済成長は至高の善。お金をするのは政府と中央銀行だが、それに見合った価値を生み出すのは科学者なのだ。近代政府は金を擦りまくって心配バブルが弾ける前に新たなるテクノロジーがうまれることをねがっている、見せかけのお金で支えながら。コロンブス投資家を探す、商業的な考えの発達は国王によって変わる。商人たちは喜んで税金を払うので、軍よりも権力が増していった。探検家のために出資するリスクを減らすための有限責任の株式会社の誕生。プロテスタントのオランダとカトリックのスペイン人の激しい戦いにも見て取れるよう、スペインは信用供与の,金融制度を発達させ多くの領土と財宝を手にした。しかしオランダは反乱をおこしアムステルダムを金融の町として発展させる。信用制度をきちんとしたものにするために司法制度を整えそこに資本は流れ込む。スペインは約束を反故にし投資家の信用を失い、オランダは信頼を勝ち取り海上帝国を建設、この帝国を作ったのは法の支配と私有財産の権利を尊重したオランダ商人たち。オランダ東インド会社は最も有名。このVOC資金のおかげでインドネシア征服。この時代は民間企業が帝国樹立することもあった。これは近代の企業が利己利益を追求するとどうなるかを物語っている。フランスのミシシッピ会社と取締役ジョンローであり、財務省であった。フランスは政治的影響力を利用したので、信頼を失った。フランスでさえ融資に困ったんだ。仕方なく高利で借金。その間にイギリスが着々と領土を拡大。その結果フランスは革命へ、その隙にイギリスが。インド亜大陸もイギリス東インド会社の傭兵軍によって制服。インドは商店主たちの国と呼ばれたが、その後イギリスの国の支配下へ。資本家の名の下に、イギリスと中国のアヘン戦争1840。それによりイギリスは香港(魔薬取引地区)を割譲要求。エジプトのスエズ運河建築資金として出資、エジプトへの介入を深め、保護領に。ギリシア独立に伴うギリシア独立債権を発行を持ちかけ担保つき債権者となる。すべて

投資家のための戦争。イギリス軍の後ろ盾の元どんどん投資。今日の国家の信用格付けはその国の所有する天然資源よりその国の財政健全性にとってはるかに重要。信用格付けは、経済データ、政治的要因、社会的要因、文化的要因が加味される。だからこそ教育制度の維持と,ハイテク産業を育む(儲かる産業)資金を低利で借入できるのである。自由市場というカルト、投資家は市場の政府介入は政治的利益が絡んで成長が鈍るという。多くの実業家に言わせれば、国民に預けるより実業家に使わせた方が雇用を生み経済活性が起きる。この考えに従えば、政治を経済関与させず、課税と政府の規則を最低限にして、自由市場を作り出せば良いということ。個人投資家は政治的思惑にとらわれることなく好きなところに投資するようになる。そのために政府は介入しないのが賢明。というが、政治的偏見のない市場などあり得ない。経済の大切なことは未来への信頼。その信頼を揺るがす不正行為に対する制裁を法制化して信頼確保に努めなくてはならない。資本主義の地獄、アダムスミスは自由主義が最高と言ったが、なんの抑制も受けない市場原理が奴隷のような労働者を作り出したのは事実。アメリカ大陸でサトウキビの栽培が始まるとヨーロッパ人は安価に仕入れることができるようになり甘党になった。そのサトウキビは奴隷労働者が担った。自由市場の欠点は利益が公正な方法で得られることも公正な方法で分配されることも保証されない。成長のみが至高の善となりりんりは後回し。資本主義が不平等で奴隷的であるという批判に対し、1資本主義は資本主義者にしか動かすことのできない世界を作った。他の動かし方は共産主義のみ。2後もう少しだといういいわけ。

第17章産業の推進力

木と鉄の材料かプラスチックゴム、チタン、アルミニウムへ変化する産業革命。人類はエネルギー変換という技術を肉体しか持っていなかった。熱を運動に変換する、蒸気機関の発明。蒸気機関車から原子まで発明。そのごは石油から電気へ。エネルギーの大洋、人類は次から次へと無限のエネルギーを生み出し続ける。太陽エネルギー(エクサジュール)、重力エネルギー、核エネルギー,を持っている。原材料も技術の発達で新たに生み出した(プラ、シリコン、アルミニウム)。ハーバーが編み出した空気中からアンモニアを取り出す方法によりドイツは戦えた。ベルトコンベヤー上の生命、産業革命は、安価で豊富なエネルギーと安価で豊富な原材料の組み合わせを実現した。人間至上主義により神的存在に成り上がったと感じるとともに、動植物の生存期間の長さと質は企業の損益によって決まるようになった。この時、動植物の社会的,生理的欲求は一切関心がない。動物にも複雑な感情があるのは事実だが機械のように扱うことによりさまざまなストレスにさらされる。奴隷貿易も彼らに憎悪があったわけではない。無関心が原動力なのだ。しかし、今日の科学は家畜たちにも感情的苦痛も被りうるとしている。進化心理学では、資源界で形作られた社会的欲求は、生存と繁殖に必要がなくなった時でさえ主観的には依然として感じられる。家畜の客観的欲求には大いに応えるが(利益のために)主観的な欲求は無視する。ハーロウの猿の代理母実験では、猿たちは物質的な必要に加えて心理的な欲望があり、それが満たされなかった結果情緒障害の症状を見せた。これは他の家畜にも言えることであり、農業の工業化以前はほとんどが農民や家畜を食べさせるために浪費されていたため人口が多かったが、工業化が進むと農業で生計を立てる人が減り農業は衰退、他国のために輸出することもできるほど余っている。この工業化があったからこそ産業にも手が回った。するとい供給が需要を上回りモノが余る。ショッピングの時代、消費主義。過去の倫理観のような欠乏状態がデフォだったがこの価値観を捨て貴族のように消費することが善となった。欲望の満足は善で、倹約は自己虐待だとうたう(just do it ナイキの標語)。昨日まで知らなかったものを欲しがり、厳粛な日ですらもセール日とし(自由の擁護者たちの死は無駄ではないかのように)た。肥満は消費主義にとって二重の勝利。資本主義と消費主義の価値体型は表裏一体で、二つの戒律が合わさったもの。いかなる宗教信者も教えとは違ったことをしたが、資本主義と消費主義の理想を守備よく体現しているのは今日のこの二つの合わさった現代宗教が初めてである。


第18章国家と市場経済がもたらした世界平和

サピエンスの必要性に応じて世界は作り替えられる産業革命。人類は資源不足は回避できるが生態系の悪化は間違いなく進んでいる。これはサピエンス自体の生存を脅かす。近代の時間、サピエンスは自然に翻弄されることは無くなったが、近代産業と政府の命令に支配されるようになった。伝統農業では植物や自然サイクルに依存していたが、近代産業は自然には左右されないで、正確さと画一性に重きを置いている。たった二世紀の間でそれまでの認知革命、農業革命でも揺るがなかった人間社会の基本的構成要素(家族、部族、帝国など)が果たした役割が国家と市場の手に移った。家族とコミニティの崩壊、互いをよく知り相互依存の関係、家族は福祉,医療、教育、保険と全ての役割を果たしていた。コミニティーは地元の伝統と互恵制度に基づき救済を求めた。この時市場の役割は小さく対価も存在しない。ここでは君主の力もそこまで強くなく集団の中で徴税や刑罰が与えられた。伝統的集団から外れることは死を意味していたが、伝統的集団の行っていた役割を国家がやることによりそれぞれ「個人」になることを薦めた。集団から離脱してもその重要な役割は国家が提供するとして。


しかし、もちろん今だに家族は私的欲求を満たす。これは国家や市場は代替できないのだ。親の権威は見る影もないく、親からの解放が進むが、子供の人生でうまくいかないことは全て親のせいにされる。想像上のコミュニティ、古代中国は皇帝をトップとする家族イスラムのコミュニティは皆兄弟であると想像しこれが、親密なコミュニティを補う役割を果たしていた。後者は衰退しこの感情的空白は想像上のコミュニティに委ねられた。想像上のコミュニティは国民と消費者であり、皆が同じ過去、利益、未来を共有している(共同主観的現実)。この国民主観は産業革命後に誕生したものであり元から持っているものではない。中東は各々のコミニティー内容を考慮することなくフランス人に線引きした。国民という集団は線で引いて完成するものではない。国民コミュニティも消費者部族も同じく自分達への定義の構築、アイデンティティの要となり影を潜めつつある。変化し続ける近代社会、秩序とは安定性と継続性。ここ二世紀はゆったりと革命が起きたが(フランス革命、ヨーロッパ内の革命、フランス革命)、近代はカメレオンの色のように次から次へと改革が起こる。伝統的秩序の堅持を謳うものは誰もいなくなり、社会秩序は柔軟であり、意のままに設計したりできると考えているばかりか多くの人が変化にもなれた。対戦後は格段に平和な状態でプレートは動いているがいつ火山が噴火するかはわからない。現代の平和、自分がいかに平和な時代に生きているか実感していない。今や戦死者より自殺者の方が多い。暴力は常に限られたコミュニティ内で起こる不和の結果だったがそれも国家によりなくなりつつあふ。その暴力はソマリアやコロンビアなど弱小国で起きる。帝国の撤退、国家間の紛争は,かなり減少している。ヨーロッパ諸国の崩壊、イギリスはインドから撤退。ソ連の崩壊。ゴルバチョフは帝政時代に獲得した領土をすんなりと手放した。フランスは往生際が悪かったが、それも現在のベトナムとアルジェリアは秩序のある国家が残っている。原始の平和(パクスアトミカ)、上記の帝国から独立した国家は戦争には無関心であり戦争は当たり前の出来事ではなくなった。中東ですら内戦クーデターであり征服を目的としていない戦い。戦争勃発の見込みがないということが平和の定義。そう考えると少し前まで国家間は弱肉強食であった、!現代のように楽観視できる状況はこれまで一度もない。戦争がなくなった理由1代償が大きい核戦争2利益の減少(現代の富は略奪や接収が難しい技術やノウハウ、銀行など複合多岐にわたる。イラクのクウェート信仰など戦争が未だに起こるところは物質的富(油田、金)のあるところ。3平和の方が利益が出る。4平和を善と考えるエリート人がトップに立つ、グローバルな政治文化に構造転換が起きた。

この四つの要因はフィードバックループの形成になり、大量殺人〜平和主義促進〜交易が盛んに〜交易により利益増大、戦争代償拡大ー戦争への歯止め。すると各国の独立性は弱まる。故世界帝国となる。私たちは天国と地獄の両方の入り口に立っていて、どちらの入口に入るかいつ落ち着きなく迷っている。歴史は心を決めかねており偶然が重なりにより決定をしている。

第19章文明は人間を幸福にしたのか

現在の考察で国民主義は政治的自決権を、共産主義者はプロレタリアート独裁こそ善、資本主義者は経済成長物質主義が優先故自由市場が善と、果たしてこれまでに出した考えは善なのか。進歩主義的考えは現代は最高に幸せに発展できたのだ、反対意見は,真の幸せにそぐわない生活になってしまった。現代の幸福は先住民などの弱者の上でなりだったことをわすれてはならない。そしていつくか挙げられるサピエンスの幸福も他のあらゆる動物の運命も考慮に入れるべき。動物愛護運動家の意見を少しでも容認したら近代農業は市場最悪の犯罪となりうる。地球全体の善としてみれば生きとし生けるもの全てを考慮するべきだ。幸福度を測る、社会的、倫理的、精神的要因も物質的な条件も同じように幸福に重大な影響を与えるという。物質のみでは幸せになれないのである。幸福とは「主観的構成とされる。」幸福とは心の中で感じるものであり計測は難しい。わかったこと1富が幸福をもたらすのだがそれは一定水準までだということ。2病気は端的には幸福度を下落させるが長期的苦痛となるのは悪化の一途をたどったり心身を消耗させるときのみであり、ひとはその病気に適用し出す。3家族やコミュニティは富や健康より幸福に影響する。幸福は過去と不変のものであり、現代の自由はわたしたちに不利に働いている可能性もある。自分自身の人生を自由に選択できる故、その決定権の行使により深い関わりを持つことがますます難しくなっている。幸福は客観的条件(富や健康より社会的関係)と主観的な期待との相関により決定する。持てるものに満足する方が、欲しいものをより多く手に入れるよりもはるかに重要。

他人の部室的諸条件に自分の期待を押し付けてしまうため相手の気持ちは測れない。幸福は期待によって決まるならマスメディアと広告産業は満足を枯渇させつつあるのかもしれない。不満は、今までの不幸(疾病、貧困政治的)だけではなく先進国の標準に接触することにより助長される。情報の中の最良な人やものが比較対象となる。不老不死さえも不満につながる可能性も。化学から見た幸福、体内の生化学システムは幸福水準を比較的安定的に保つ。幸福と不幸は進化の過程で生存が繁殖を促すか妨げになるかと言う程度しか担っていない。全ての幸福は生化学の電気信号だ。空調システムのように一定に戻る。結婚に関しては,結婚して幸せになるのではなく幸せだから結婚できたのかもしれない。幸福ホルモンが婚姻関係を生み出し維持する。陽気な生化学特性を持った人は幸せになれるのである。生物学者は幸福は主に生化学によって決定されると述べており、心理的要因や社会学的要因にもそれぞれ役割があると言っている。歴史は外的刺激にはなりうるが分泌されたホルモン濃度を変えることはできないので幸福度に影響はあまりない。つまり生化学的特性には影響を与えない。ニューエイジのスローガン「幸せは身のうちより発する」、永続する幸福感はホルモンからのみ生じる。(オルダス、ハクスリー素晴らしい新世界)人生の意義、ダニエルカーネマン曰く幸せか否かは人生全体が有意義で価値のあるものとみなせるかどうか、各人の価値観次第で天地の差があり、自分を子供に支える惨めな奴隷と捉えるか、新たな命を育んでいると捉えるかによる。ニーチェ曰く、あなたに生きる理由があるのならばどんな生き方にもたいてい耐えられる。幸福の歴史は近代を必ずしも高く評価しない筈だ。中世では死後は幸せが待っているはずだという信仰のもとの幸福があった。これまでの科学的視点から言えば人生は目的も持たずに展開する進化の過程の所産であり無意味であると言える。中世の人の信仰も妄想であり現代の人間至上主義等の全ての思想も妄想だ。それならば、幸福は人生の意義について個人的妄想をその時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。汝、自信を知れ、幸福とは(快感であれ,意義であれ)ある種の主観的感情である。自由主義が神聖視する主観的感情はルソーの言う私がいいと感じるものはいい、私が良くないと感じるものは良くないということ。現代は常にこれをスローガンとして歌い広めている。幸か不幸かは自分がよくわかっていると考える傾向にある。客観的尺度の無視。汝自身を知れとは普通の人は自分の真の姿を知らず、故に真の幸福も無知であることを示唆している。利己的な遺伝子説によれば、人間も他の動物と同じで、不適切な選択だったとしても、自分の遺伝子の複製に有利な選択をするように自然選択によって仕向けられていると言う。DNAは悪魔のように束の間の快楽に誘導しているのだ。このように宗教や哲学は自由主義とは真逆の探究方法をとってきた。特に仏教は、幸せは身体の内で起こっている過程に起因すると言う見識は同じだが結論は違う。幸福を渇愛し苦痛を避けるようになる。普段の何気ないことから戦争すらも心地よい感情を得ようとしているに過ぎない。しかし!これには問題があり人の感情は移ろう。次から次に移ろう褒賞はそこまで重要なのか。苦しみの根源は束の間の感情を果てしなく追うことではないのか。追うことは緊張や混乱し心は満足はできない。なぜならこの感情がすぐに消えてしまうことを恐れると同時に、もっと幸せを渇愛するからだ。瞑想は絶えず消えては湧き上がる自分の感情が確認できる。そしてどんな感情も受け入れられ,意味のない空想をやめ今を生きるようになる。喜びを必死に追い求めることに人生を費やしている人には皆目この感情は見当つかないでしょう。ニューエイジたちは幸せは身のうちに発すという。ブッダは外部の追及のみならずうちなる感情の追求も止めることなので少し違う。仏教哲学では真の自分を知る(自分が何者なのか、なんであるかを理解すること)ことが幸福への鍵となるとしている。自分の感情や思考好き嫌いと自分自身を混同している。感情は自分自身とは別のもので執拗に追い回しても意味のないこと。歴史書の人物たちは何したか史実は書いてあるが、幸せや苦しみにどう影響したかは書けていない。

第20章超ホモサピエンスの時代へ

本書は歴史を物理現象から科学現象,生物学的現象へと連なる連続体として捉えている。サピエンスは自然選択の法則から抜け出し知的設計の法則へ移行しようとしている。ヒトは知性の活用。自然選択を受け入れて生存してきた。これに農業革命がおこる。現代では自然法則の掟を破る研究者達。科学革命はまだまだ序の口で生物学的科学革命となりうる。過去については生物学者は正しいが未来に関してはインテリジェントデザインの提唱者が正しいのかも。知的設計は、自然選択を1生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学の三つを変える。マウスと人の合成、去勢から始まる遺伝子工学、人類を奴隷とする種を作ることができる科学者達を恐れる運動家。倫理政治イデオロギー状の問題が発生する。ネアンデルタール人の復活絶滅種の復活

。サピエンスとの交配,優れたサピエンスの創造も否定する理由がない。認知革命は脳の整理機能に目立った変化を必要としなかったのなら小さな事で第二の認知革命が起きるかもしれない。技術はあるが倫理的政治的意義のみが研究の邪魔をするら、バイオニック生命体眼鏡ペースメーカー、昆虫動物を使った兵器の開発、聴力、視力、触覚を作り出すバイオニックアーム等、アカゲザルの脳の電気信号を外部装置へ伝達、瞼しか動かせない人の意思疎通装置、最終的に脳のとコンピュータを直接結ぶインターフェイスの開発。アイデンティティとは、汝自身を知れとは?人の存在は多くの人の熱望の中の存在に特異点シンギュラリティいづれ訪れる非有機体のためにさまざまな難問を代謝しなくてはならない。個別化医療の発達によりそれぞれにあった最適医療が訪れる。しかし、個人をヒトゲノムの特性から特定できるため保険の申し込み、履歴書での差別が起こるかも。医療のあり方として、予防と治療ではなくなり、人間能力を高めることに専心するようになったらエリート達の化けの皮が剥がされるかも。未来のテクノロジーのもつ可能性は、感情や欲望にも容易に及ぶ。全ての欲望が満たされる未来が待っている可能性がある。これはサイエンスフィクションでは無い。ビックバンのような新たな特異点に近づいているのかもしれない。私たちの世界に意義を与えているものの一才が意味を持たなくなる。なんであれそれ以降に起こる出来事は無意味なのだ。フランケンシュタインの予言「フランケンシュタインあるいは現代のプロメシュース」フランケンシュタインの神話はこのままだとテクノロジーが進化し続けサピエンスは全く想像もできないような認知世界や情緒的世界を持った異質な存在になるだろう。フランケンシュタインの物語は体はいじれてます心はいじることは決してできないから。歴史の次の段階は人間の意識とアイデンティティの根本的変化も含まれる。考えるべきは私たちは何になりたいか。科学者達はテクノロジーの発展の意図を治療と人命救護だというだろう。というより私たちは何を望みたいのか?という疑問が起こる。

あとがき

わたしたちサピエンスは誇れるようなものはいまだに生み出していない。世の中の苦しみは減らすことができたか。強力な力を持ったがそれをどう使えばいいかはわからない。自分が何を望んでいるかわからない不満で無責任な我々神々ほど危険なものはあるだろうか。

役者あとがき

アジアが遅れを取ったのは探求と征服の精神構造と、それを支える価値観や神話、司法組織、社会政治体制構築の遅れがあったから。サピエンスの数は増えたがそれに伴って幸福が増したかというと疑問。サピエンスは過去の行いをしっかりと見つめてかえりみるべきだ。歴史の進行は未来の改善では無い。歴史研究は視野を広げ可能性の見極めに他ならない。