東京大学で松島・藤末研究室を創設し、大きなご指導を頂いた松島克守東京大学名誉教授が去る令和3年11月29日に永眠されました。ここに松島先生のご功績を讃え、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

松島先生と初めてお会いしたのは、1999年に通商産業省(現、経済産業省)から東京大学の教官になった時でした。1999年に東京大学工学部が新しい学科(システム創成学科)を作るために新たに外部から選ばれた教官同士でした。
システム創成学科には「知能社会システムコース」というサブ学科が設置されることになり、その新しいコースのミッションなど基本設計から講義プログラムの組み立てまで、多くの教官の仲間で議論したことを今でも思い出します。鎌倉にみんなで合宿したりしました。

特にバラバラになりがちな教官をとりまとめたのが松島先生でした。コンサルタントの経験とグローバルIT企業の営業担当役員を経験されており、知見も人をまとめる力も完全に私を含め他の教官を圧倒していました。
新しくできた学科は人気があり、学生の進学希望先として上位になりました。来てくれた学生も全く実績もない新しいところに来るだけあり、リスクがあっても挑戦するタイプが多かったと思います。卒業生はベンチャー企業や外資系を含め多様な就職先に進みました。

そして、新しい学科では、松島先生と研究室を組むことになりました。
お互いに技術経営が研究分野であったことと、そしてキャラクターが似ており相性が良かったことから自然の流れで一緒に研究室を組ませてもらうことになりました。

東京大学での印象深い仕事としては、2000年にビジネスモデル学会をお手伝いしたことです。これは日本では初めての「すべての活動をネット上で行う学会」でした。それもNPO(非営利団体)の組織です。私が勤めていた通商産業省の先輩方に説明に伺い、節理の支援をお願いしました。また、過去にNPOの学会を立ち上げた経験も役に立ちました。
また、2002年には、東京大学総合研究所の総合研究機構への改組も一緒にさせてもらいました。もうすぐ創設20周年です。創設当時よりも規模が大きくなっていることをうれしく思います。現在、この研究機構に所属されている方々は、基本設計や文部科学省への申請などを小宮山元東大総長や松島先生そして私が行ったことは記憶されていないと思いますが、二人で様々な資料を作り文科省に説明に行ったのを覚えています。文部科学省の窓口の課長補佐が本当に偉そうに対応することに二人で少々怒りを語り合いました。懐かしい思い出です。そして、2003年には総合研究機構で内閣府総合科学技術会議の緊急プロジェクト「動け!日本」を受け、小宮山工学部長(当時)を中心にとりまとめを行いました。
2004年に、私は参議院選挙に全国比例区から出ることを決断しました。妻をはじめ両親や親族が全て出馬に反対する中で、松島先生は私の背中を押してくれました。相談した方で出馬に前向きなアドバイスをしてくれた方は4名しかいませんでした。その中の一人が松島先生でした。結局2004年1月31日に東京大学を退官し、選挙に臨むことになりました。3人の学生の卒論指導を途中で松島先生に代わっていただきました。松島先生には、中途半端な仕事をフォロー頂き、本当に大きなご迷惑をおかけしましたが、先生の指導を引き継いだ学生のうち一人の卒論が学科で最優秀となったことが私にとっては救いでした。
政治家になってからは、後援会に入っていただき(退官された後は、後援会員の募集のビラにメッセージを寄せて頂きました)、また、先生は東大にイノベーション政策研究センターを設立されました。ここで作られた政策は、国会でも提案させて頂きました。改めて心から感謝申し上げます。
また、2010年の松島先生の最終講義では藤末の国会における質問主意書も出していただきました。

2011年の東日本大震災の時には、松島先生と一緒に菅総理に「復興の提言書」を説明しに行きました。
この時は松島先生のお力を大きくお借りしました。

 


最近では「藤末のブランドを構築しなおすべし」との指摘を頂き、ブランドコンサルタントなどを紹介いただきました(なかなか成果を出せていません)。
昔は、「藤末君が総理大臣になったら官房に雇ってくれ」と仰っていましたが、最近はそのお言葉が聞けなくなったのは私の不甲斐なさです。

最後に松島先生に連絡を最上げたのは、まさに今月(2021年11月)となります。
ご容態を伺っていましたの、近況報告をメールでさせて頂きました。
これが松島先生への最後のご報告となりました。

報告には、近況とともに、これからの私が何をするかを書かせて頂きました。

松島先生にご報告したことを必ず実現し、いつかまた松島先生に再会させていただくときに実現したころをご報告させて頂きます。

松島克守先生のご冥福をお祈りいたします。