ウェストミンスター小教理問答 問26 | 日本人とキリスト教

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■ウェストミンスター小教理問答書を中心として

問26 キリストは、どのようにして王の責務を果されるか。

 

答 キリストは、私たちを御自身に従わせ、私たちを治め、守り、また、彼と私たちのすべての敵を抑制し、征服することによって、王の職務を果される。

 

 キリストは、その低い状態においても、その高い状態においても(問23参照)、「王」の職務を果される。しかし、「私たち」との関り、特に贖われた「私たち」は、キリストの高い状態(問28参照)における「王」の職務に慰めを見出す。キリストは「天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」(マタイ28:18)のであって、私たちは、どこにもコワイものはない。これは、私たちのツヨガリでなく、信仰によってのみ把えることができる客観的事実である。だから、キリスト者は、逆境の時この「信仰」が試される。しかし、「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」(ローマ5:3、4)のであって、この真の希望は、キリスト者をして、王としてのキリストの御名を讃美させる生活へと導く。さて、教会とはこの「王」であるキリストの「体」である。私達の「王」はキリスト以外の何ものでもない。教会の牧師も長老も、根底的な意味では「王」ではない。誰も人は、人を支配することはできないのである。支配者は王の王(キング・オブ・キングス)であるキリストのみである。だから、もし人が人格的に人を支配しようとするなら、それは、神の主権を犯す、神に対する冒涜である。だから、日本の封建的家父長制的人間関係を教会の中には断じて持ち込むべきではない。それは単なるモノの考えの古さとか新しさの問題で済ますことは許されないのである。神に罪を犯すか否かの問題である。神に栄光を帰すか、奪うかの問題であり、それによって教会の生命は左右されるのである。(1) 私たちの「王」はキリストである。

 



(1) cf. 60頁(問63、65)