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映画『オッペンハイマー』より

クリストファー・ノーラン監督作品だから見に行きました。以下のような彼の作品がだいたい高品質だったからです。

■テネット
■インセプション
■インターステラー
■ダンケルク

原爆の映画ではなく、人間の映画でした。

人間という原始生命の限界、愚かな人類社会の限界を描いているというか。

描かれていた米国の昔の「赤狩り」も、とても民主主義国家からはほど遠かったことが分かります。

「自由世界を守る!」と言いながら、当時の米国には思想信条の自由も言論の自由もなかったようです。

現在のロシアで、政権に反対する自国民を「外国の代理人」と指定する雰囲気と全く変わらないようでした。

共産主義に少しでも共感したことがある米国民はソ連のスパイと疑われる時代だったようです。

米ソ(米国とソ連)間の相互不信から、自国政権に反対する自国民を厳しく弾圧する点では、当時の米国も現在のプーチン・ロシアも五十歩百歩だと分かります。

こうした冷戦時代を俯瞰すると、英語の諺、「Extremes meet.(両極端は一致する)」を思い出します。

ところで、高校生時代、世界史の授業で寝ていた私の歴史に関する恥ずかしい無知が訂正されました。

米国が原爆をドイツには落とさず、日本だけに落としたのは、人種差別からだろう、と長年思い込んでいました。

ご存知のように、広島ではなく、米国は東京大空襲でも意図的に民間人を大量虐殺していたからです。原爆の死傷者数以上の民間人の大量虐殺です。

米国内で道義的に問題視されることもなく、米国の国家の意思として、このような民間人の大量虐殺が行われました。

真珠湾から始まる憎き侵略者への報復という正当性も理解できます。

それでも、意図的に民間人を狙った大量虐殺ができた真の理由は、日本人などアジア人のことをウジ虫程度に思っていたからだろう、とずっと思っていました。

しかし、事実は違っていたようです。ドイツではなく日本だけに原爆投下した理由は、原爆実験が初めて成功した時点で、既にヒトラーが自殺していたからでした。

つまり、実質、ドイツの無条件降伏が目前だったため、ドイツへの原爆使用が不要だったからでした。世界史の授業で寝ていた私だけが知らなかった常識なのでしょう。

このように、日本だけへの原爆投下が人種差別からではなかったことは、史実なのかもしれません。

それでも、一部の日本愛好家という変人を除けば、アジアに縁も関心もない一般欧米人の大部分には、アジア人蔑視という本音が秘められているでしょう。あからさまに口には出せないでしょうが。

半世紀以上前なら、なおさらのこと。広島、長崎への原爆投下には、それなりに人種差別も働いたのではないでしょうか。

できたての新型兵器を早く実戦で使ってみたい。が、ドイツ人の民間人相手に実験するのは良心が痛む。しかし、ドイツ人よりモルモットに近いジャップ野郎で実験するなら良心の痛みも軽くて済む」のような、トランプ的な白人至上主義がトルーマン大統領の心の奥底にも潜んでいたのでは?

当時、ドイツ系米国人は強制収容されず、日系米国人だけが強制収容されたことにも、白人にとっては特に悪意の自覚がない、自然な人種差別感が反映されていたのですから。

私自身は、遠い過去のことではなく、この映画に広島、長崎の惨状が一切含まれていないことに注目しました。

このこと自体が、クリストファー・ノーラン監督を含む現時点の一般的白人のアジア人蔑視を図らずもよく反映しているように感じました。

アウシュビッツのユダヤ人たちと違い、「アジア人の惨状など映画の絵として、それほどインパクトある素材ではない」との判断だったかもしれないからです。

この映画を見たNHKの桑子真帆アナウンサーも私と同じ印象を持ったようです。


クリストファー・ノーラン監督にインタビューした際、広島の惨状を描かなかった理由を彼に尋ねました。そのときの彼の不機嫌そうな憮然とした表情が印象的でした。

推測にすぎませんが、予期せぬ突然の質問で、自身も自覚していなかった秘められた本音が暴かれそうで焦ったのかもしれません。