引き続き、建材おじさんの2012年のブログから。

 

戦争末期の昭和19年8月、人間魚雷 「 回天 」が開発された。
この全長14.5メートル、直径1メートルの一人乗り小型潜航艇は、
93式魚雷を動力源に、1.55トンの爆弾を装填して標的に突っ込む特攻兵器。

 

 

死地から戻った元要因が、その経験を語る。

 

回天の訓練は厳しかった。
まず、操縦が難しかった。
発進するだけでも多くの操作が必要だったし、

機械が複雑なので、
発動ボタンを押しても燃料に点火されず、

発進しないことも少なくなかった。
目標の近くまでは、潜水艦で運ばれるのですが、
最終的には自分で小型潜望鏡を見て、

15秒以内に目標までの距離や方角、

目標のスピードを判断しなければならない。

一度発進したら、戻ることはできない。
脱出装置もない。
通信装置もない。

となると大海原の中では、

母艦を見つけることはできない・・・・。

~ 中略 ~

仲間が発進してから40分後、遠くに爆発音が聞こえた。
さらに5分後、再び爆発音が聞こえた。

「 見事にやったな 」 と思った。
いや、そう思わないとやり切れないのです。

 

しかし、帰還後の検討会では、自爆の可能性が高いと判断される。
今考えると、あの状況で敵を発見するのは難しかったのでしょう。

20歳、19歳の戦友を失った・・・・・・・。


建材おじさんは思う・・・・・
戦後79年、日本には戦争こそなくなったが、
福島原発の後処理、原発の安全管理など、第二次世界大戦の頃の政治家、軍部が起こした過ちと大差はない・・・・・
そして、大丈夫というマスコミに洗脳された国民がいる。
この国の将来はこのままでは、危ういだろう。

 

 

引き続き、2012年の建材おじさんのブログからです。

 

映画 「 硫黄島からの手紙 」 に、壕のなかで円陣を組んで手りゅう弾で自爆するシーンがありましたが、実際にはああいうことは、まずなかったそうです。

林中将から 「 陣地を死守せよ 」、自決も玉砕もせずに生きてゲリラとして戦えと言われ、みんな真面目に従った。

実際、飢えと渇きに苦しみ、
最後には壕の中に海水とガソリンを入れられ、焼け死んだ人たちもいる。

そういうことは遺族もご存じだから、せめて2月19日に死んでいたと思いたいのです・・・・。

また、大本営の参謀たちの作戦は、無謀、軽信、見込み違いだらけであった。

 

 



ガダルカナル島では食糧の補給がなく、次々と餓死者を出した。
しかも、南方の寄生虫などにやられて下痢をする。


「 下痢しても回虫は出る。 
最後は、それを焼いて食べるんですよ 


と証言した兵士もいた。

戦争で死んだ日本兵およそ 230万人のうち、半分以上は餓死者だといわれています。

8月15日は終戦記念日です。


皆さんも過去の日本人が起こした過ちをしっかり確認しようではありませんか!!

フィクションではない。 
真実なのですから・・・・・・

 

 

2012年の建材おじさんのブログですが、コピペします。

第二次大戦についてもう一度考えてみよう。

 

封印された 「 兵士の記憶 」 より。
 

ノンフィクション作家 「 保坂正康氏 」の講演(2、3年前)の後、
杖をついた老人が控室にやってきて、
「 ちょっと話をしたい と言った。

 

「 これから話すことは個人的な体験で、黙って死のうと思っていたが、
どうしてもこのままでは死ねない。だから、あなたに話す。
自分は名前も言わない。こういうことがあったと聞いてくれればいい
。」
と前置きした。


「 自分は特攻隊の整備兵だった 」 と話し始めた。

 

戦争も末期となると、鹿児島などいくつかの基地でも特攻隊を速成で編成するようになる。 すると、出勤命令が出て失禁したり、茫然自失になったり、訳のわからないことを話す兵士が出てくる。 

 

「 それを我々整備兵は、抱えて特攻機に乗せた 」 と言う。

 

 

そうした、 ” 特攻隊 ”の多くは沖縄どころか、鹿児島湾に落ちて死んでいったと思う。 私は彼らを死なせた殺人犯なのだ・・・・。

 

分かりました。お名前は聞きません。お話が事実かどうかも私にはわからない」 というと、

 

その老人は激昂して、
「 事実かどうかはあなたが考えることで、私が考えることじゃない。私がこういう体験をしたと言っているんだ 」 

 

今でも彼の言葉と表情が鮮明に残っています。

以上

いつの時代も、やられてしまうのは、若者である。
今の時代も同じである。
政治家や官僚は保身しか考えていない。


第二次世界大戦について、この時期だけでも考えてみようではないか?