私が格式の高い神社を参拝するときは自分なりのルーティンがあります。

参拝する前に必ず御祭神とご由緒を確認してから行きます。

一般的に神社へ参拝するのに作法がありますが

それ以外にも私が重要視していることがあります。

参拝するときは全ての境内社を周り、境外社にも参拝します。

どうしても参拝ができない境外社があるときは遙拝所で参拝します。

 

日本には神社が数多くあり、その数はコンビニより多いと言われています。

その中でも格式の高い神社はパワースポットとしても人気があります。

その理由は昔から多くの人々から崇敬されてきたという歴史と

神社のある場所が重要な位置にあるからだと思います。

格式の高い神社と神社(山など)が一直線に並ぶレイラインの存在は有名です。

また神社は昔から結界を構築するために鎮座していることが多く

格式の高い神社の境内社、境外社が鎮座している場所もそれなりの理由があると言われています。

境内社、境外社がその地に鎮座し結界を構築していると考えられています。

全ての境内社、境外社を参拝することで格式の高い神社の結界をクリアして

距離が縮まるように感じます。

 

出雲大社でも同様のルーティンに従って参拝して来ました。

これだけ格式の高い神社の場合、境内社や境外社の数が多いので

事前の下調べが重要になり周るルートを決めておかないと効率よく周ることができません。

今回の出雲の旅では日本神話ゆかりの神社へ参拝する事を優先したので

考古学的な場所を周ることは次回の楽しみに残すことにしました。

 

出雲大社(いづもおおやしろ)

島根県出雲市大社町杵築東195

【社格等】

式内社(名神大)、出雲国一宮、勅祭社、旧官幣大社、別表神社

 

◆勢溜の大鳥居と社号標

【ご祭神】

大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)・・・国津神の主宰神、蘆原中国(古代日本)の

          国造りを完成させる、素戔嗚尊の六世の孫、お妃は素戔嗚尊の娘

【御由緒】

日本最古の歴史書『古事記』『日本書記』によれば、大国主大神の国譲りに際して造られた

壮大な宮殿が出雲大社の始まりと伝わります。

大国主大神は、八千矛神(やちほこのかみ)・大穴持神(おおなもちのかみ)などと

多くの別名があり、古来、朝廷や武家をはじめ多くの崇敬を集めてきました。
『出雲国風土記』には、大国主大神のために大勢の神々が集まって宮を寸付(きづ)いたと

記されており、「杵築(きずき)大社」と呼ばれました。
出雲大社は、少なくとも8世紀には大きな社が建てられていたと言われます。

平安時代中頃に貴族の子供たちが教科書として用いた『口遊(くちずさみ)』には、

日本で一番大きな堂舎は雲太(出雲太郎)、つまり出雲大社で、二番は和二(大和二郎)、

東大寺の大仏殿、三番が京三(京三郎)、京都御所の太極殿という当時の大型建造物を示す

記述があり、出雲大社が最も大きいことを意味しています。

社伝によれば、出雲大社本殿の高さは、最古32丈(約96m)あり、その後16丈(約48m)

になったといい、現在は約24mになっています。

『口遊』に登場する平安時代の出雲大社は、16丈の壮大な建物であったと言われています。

現在の境内は、江戸時代前期、寛文7年(1667年)の造営遷宮で計画されたもので、

今もその時の建物が多く残っています。現在の本殿など瑞垣内のお社は、

その次の延享元年(1744年)の造営遷宮で建て替えられたものです。

遷宮は、その後、文化6年(1809年)、明治14年(1881年)、昭和28年(1953年)に

行われ、その都度本殿をはじめとする諸社殿の修理が行われてきました。

直近では、平成20年から平成31年にかけて「平安の大遷宮」の主事業として行われ、

平成25年5月10日には本殿遷座最が執り行われました。

 

◆大国主大神像

出雲大社の社殿は日本最古の神社建築様式の1つである「大社造り」になっています。

拝殿は、右側だけ霜除けの屋根が突き出て、その下に巨大な注連縄が張られています。

一般的な神社は左右対称の社殿構造になっていますが大社造りはアンシメトリーです。

◆拝殿

出雲大社の西門を出ると正面に神楽殿があります。

出雲大社と神楽殿の間を流れる素鷲川沿いに右折して三歳社へ向かいました。

◆大穴持御子神社(三歳社)案内図

一般道から参道(遊歩道)へ入り約300m(徒歩約8分)で大穴持御子神社(三歳社)です。

大穴持御子神社(おおなもちみこのかみやしろ)/三歳社(みとせのやしろ)【境外摂社】

出雲市大社町杵築東宮内226-1

‐御祭神‐

・事代主神(ことしろぬしのかみ)・・・大国主大神の御子神、恵比須様

・高比売神(たかひめのかみ)・・・下照比売命、大国主大神の御子神、

・御年神(みとしのかみ)・・・素戔嗚尊の御孫神、穀物の神様

<御由緒>

三歳社は延喜式内社で、大国主大神の御子神である事代主神を主祭神とし、

同じく御子神である高比売神、そして穀物の神である御年神を合祀しています。

殊に事代主神は〝えびすさま〟として信仰の篤い神であり、大国主大神に国土奉還の

ご進言をされ、天孫降臨に御力を尽くされた神です。

神楽殿は本来、千家国造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されていました。
明治に入り出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、

昭和56年に現在の神楽殿として規模を拡張して建て替えられました。

◆神楽殿

神楽殿の西隣に千家国造館があります。

天穂日命以来代々出雲大社に奉仕される出雲国造がお住まいになるのが国造館です。

◆千家国造館

平成26年(2014年)10月5日、高円宮憲仁親王の次女・典子女王は、

出雲国造の長男・千家国麿氏とご結婚され国民からも祝福を受け大きな話題となりました。

※下記画像はお借りしました

都稲荷社(みやこいなりしゃ) 

島根県出雲市大社町杵築東

‐御祭神‐

・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)・・・素戔嗚尊の御子神、食物を司る神様、お稲荷様
・佐田彦神(さたひこのかみ)・・・佐太大神(猿田彦命)、道案内の神様
・大宮能売神(おおみやのめのかみ)・・・太玉命の御子、天照大御神に侍女として仕えた女神
・田中神(たなかのかみ)・・・
・四神(しのかみ)・・・

<御由緒>

宇迦之御魂神はじめ五柱の神様を総じて「稲荷大神」と称します。

この社は江戸時代末期、第76代千家俊秀国造の弟、千家俊信氏により京都の伏見稲荷大社より

御分霊をお迎えしてお祀りされ、その由縁から社名に「都」と名付けられました。

祖霊社(正式には出雲大社教祖霊社)は、明治8年(1875年)に出雲大社宮司の千家尊福氏に

よって建てられました。創建当初の祖霊社は出雲大社銅鳥居前(現在の手水舎付近)にあり

ましたが明治19年(1886年)に現在の地に移され、規模を拡張して建てられました。

祖霊社(それいしゃ)

島根県出雲市大社町杵築東宮内254

出雲大社の東門を出て吉野川を渡ると、情緒あふれる真名井社家通りが続きます。

この通りにはかつて出雲大社に奉仕する神職の屋敷が立ち並んでいました。

左側に見えるのが北島国造館で、この先を歩いて行くと命主社真名井の清水があります。

◆真名井社家通り

神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ/命主社(いのちぬしのやしろ)

島根県出雲市大社町杵築東185        【境外摂社】

‐御祭神‐

・神皇産霊神(かみむすびのかみ)・・・天地開闢の造化三神の一柱、神産巣日神、創造の神様

<御由緒>

御祭神は天地開闢(世界のはじまり)の造化三神の一柱である神皇産霊神で、

大国主大神が八十神から迫害を受け焼石にて死に追いやられ生死の境にあるとき、

蚶貝比売命と蛤貝比売命を遣わせて大国主大神を生き返らせたといわれています。また大国主大神の国造りを助けられた

社殿のすぐ脇に立っているムク(椋)の巨木は推定樹齢1,000年と言われています。

高さ17m、根本周り12mもあり、昭和51年(1976年)に島根の名樹に指定されました。

「命主社のムクノキ」として新日本名木100選にも選ばれており、

日本を代表する巨樹の1本です。

◆命主社の御神木(命主社のムクノキ)

社殿のすぐ前の樹木のところに人が集まっていたので理由を聞くと

木の上に梟が止まっているのが見えました。

社殿の裏手には真名井遺跡の看板があり、寛文5年(1665年)出雲大社御造営のため、

命主社裏の大石を切り出したところ、銅戈(どうか)と硬玉製勾玉が発見されました。

「銅戈」は弥生時代を示す青銅器になりますが、勾玉と一緒に発見されたことに注目されました。

この発見された2品は、天孫系「三種の神器」のうち、剣と玉になります。

◆真名井遺跡

命主社から真名井社家通りを3分程歩くと左手に「真名井の清水」があります。

真名井(まない)の清水

島根県出雲市大社町杵築東9

‐御祭神‐

・彌都波能売神(みづはのめのかみ)・・・水の神、罔象女神、淤加美神

昔から絶えることなく湧き出ており、「島根の名水百選」に選ばれています。

出雲大社の神事に関わる神聖な水として11月23日に催される古伝新嘗祭の祭事中、国造の

寿齢を延ばす「歯固めの神事」には、この真名井の清水の小石を用いる習わしになっています。

『古事記』に天照大御神素戔嗚尊誓約(うけい)という神話が記されています。

素戔嗚尊は剣を、天照大御神は玉を取り出し、お互いに交換します。

それぞれの宝を天の真名井できれいに穢れを落とし、かみ砕きました。粉砕された粉を

ふっとひと息すると、剣からは三柱の女神が、玉からは五柱の男神が誕生しました。

清らかな女神を生み出した素戔嗚尊は、邪心がないことを証明したとことになります。

このように真名井は、神聖な儀式を行う前にお清めとして使われています。

◆日本神話 天照大御神と素戔嗚尊の誓約(うけい)のブログです

真名井の清水から更に東へ歩いて行くと出雲井社が樹木に覆われた中に鎮座しています。

出雲井社(いずもいのやしろ)/出雲路社(いずもぢのやしろ) 【境外摂社】

島根県出雲市大社町修理免

‐御祭神‐

・岐神(くなどのかみ)・・・魔除け、厄除け、道中安全の神、道案内の神、猿田彦と同一神

<御由緒>

大国主大神が国譲りをされるとき、大国主大神により天照大御神の使者の案内役として

諸国を巡られ、国内の平定に力を尽くされた神様です。

出雲井社から更に東へ歩いて行くと『出雲国風土記』にも記載のある

阿須伎神社(阿式社)が鎮座しています。

阿須伎神社(あすきじんじゃ)/阿式社(あじきのやしろ) 【境外摂社】

島根県出雲市大社町遙堪阿式谷1473

‐御祭神‐

・味耜高彦根神(あぢすきたかひこねのかみ)・・・大国主大神の御子、農耕の神

<御由緒>

延喜式式内社に比定され、『出雲国風土記』に「阿受伎社」と記載されいます。

また延喜式式内社十社が配祀神として当社に記載されています。

御祭神の味耜高彦根神(阿遅須伎高日比根命)は大国主大神の長男神で、

大国主大神と共に「切れ味のよい鋤(すき)」をとり、国土創生をされました。

当社は延喜式(927年)に11社、更に古い天平5年(733年)の『出雲国風土記』には

39社を数えるほど、この近在では、一番多くその名の見える由緒ある神社ですが、

現在は当社を遺すのみで他の同名の社は全て当社に合祀されたと伝えられています。

◆阿須伎神社(阿式社) 本殿

出雲大社から南東約850mのところに乙見社が鎮座しています。

勢溜の大鳥居から国道431号を東へ歩き、途中で右折して南へ歩き堀川を渡った右手にあります。

 

大穴持御子玉江神社(おおなもちみこのたまえのかみのやしろ)/乙見社(おとみのやしろ)

島根県出雲市大社町修理免上原920  【境外摂社】

‐御祭神‐

・高比売命(たかひめのみこと)・・・大国主大神の御子、下照比売命、天若日子のお妃

<御由緒>

御祭神は、大国主大神と多紀理比売命との間にお生まれになり、またの御名を下照比売命と

称されます。後に、高天原から国土奉献の使者として天降られた天若日子のお妃となられます。

 

午前中に出雲大社の境内と北島国造館、その東側にある境外摂社を参拝してから

出雲大社の近くにある『出雲そば 荒木屋』さんでランチを食べてから西側を周りました。

勢溜の大鳥居から国道431号を西(稲佐の浜)へ歩くと右側に大歳社が鎮座しています。

◆大歳社(おおとしのやしろ)

大歳社(おおとしのやしろ)   【境外末社】

島根県出雲市大社町杵築北

‐御祭神‐

・大歳神(おおとしのかみ)・・・素戔嗚尊の御子、五穀豊穣の神、年神様(お正月に迎える)

<御由緒>

御祭神は素戔嗚尊の御子神であり、田畑の守護神で穀物の豊穣を守られる神様です。

社殿の前に策で覆われた敷地がありますが、平成29年(2017年)に社殿を建て替えられる

以前の建物はこちらに鎮座していたそうです。

旧暦十月の神在月には、稲佐の浜に到着した全国の神々が出雲大社へ向かって歩かれます。

その際、下宮の次にで迎えてくれるのが上宮です。

全国の神々が「神議り」を行う場所として「仮宮」とも呼ばれています。

上宮(かみのみや)/仮宮(かりのみや)    【境外摂社】

島根県出雲市大社町杵築北仮之宮2962-1

‐御祭神‐

・素戔鳴尊(すさのおのみこと)・・・天照大御神の弟神、大国主大神の親神

・八百萬神(やおよろづのかみ)・・・数多くの神様のこと

<御由緒>

旧暦十月、全国各地の神々はこの地に集まられ、この社で神議りされると伝えられています。

旧暦10月10の神在月には、翌日からの1週間、出雲大社にて様々な神事・祭典が執り行われます。

その間、八百万の神々による「神議り」といわれる会議が開催されます。

神議りとは、人と人との「縁結び」をはじめ、様々なご縁、来年の収穫などが話し合われます。

このような重要な会議である「神議り」がここ「上宮」で執り行われます。

そして、「神議り」を終えた神々は、出雲大社の神等去出祭を経て、出雲市斐川町の

万九千神社に向かわれます。万九千神社では、神議りの〆めと、直会(神宴) を経て、

それぞれのお国にお戻りになられると伝えられてます。

旧暦十月の神在月に稲佐の浜に到着した全国の神々を最初に迎えてくれるのが

天照大御神を祀る下宮です。その次に出迎えてくれるのが素戔嗚尊を祀る上宮です。

 

下宮(しものみや)    【境外末社】

島根県出雲市大社町杵築北2965-1

‐御祭神‐

・天照大御神(あまてらすおおみかみ)・・・皇室の御先祖であり、日本の総氏神、太陽神

<御由緒>

天照大御神は皇室の御祖先神です。優れた御霊徳で、御神徳は広大無辺とされます。

出雲大社の西方約1kmのところに国譲り、国引きの神話で知られる稲佐の浜があります。

『古事記』『日本書記』などの日本神話の舞台となった海岸です。

高天原の使者である建御雷神(タケミカヅチ)が、この浜に剣を立てて

大国主大神と国譲りの談判をしたことでも有名です。

弁天島の岩の上に沖御前神社が鎮座しています。

稲佐の浜の名前の由来が、近くに鎮座する因佐神社(いなさのかみのやしろ)ということで、

国譲り神話は、この稲佐の浜を舞台に行われたということがわかります。

◆稲佐の浜

稲佐の浜に一際目立つ丸い島があります。
地元では「べんてんさん」と呼ばれて親しまれている島で、

かつては稲佐湾のはるか沖にあったため、沖ノ御前、沖ノ島と呼ばれていたそうです。

 

沖御前神社(おきごぜんじんじゃ)

島根県出雲市大社町杵築北稲佐

‐御祭神‐

・豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)・・・海や水の女神、神武天皇の祖母

<御由緒>

神仏習合の頃には「弁財天」が祀られていましたが、明治の頃から豊玉毘古命が祀られています。

◆弁天島

旧暦の10月10日、稲佐の浜では「神迎え神事」が執り行われます。

全国的に10月は神無月ですが、出雲地方では神在月といわれ、

全国から八百万の神々をお迎えします。

出雲大社から西の方角、稲佐の浜北端付近の山際に建御雷神を祀る

因佐神社(いなさのかみのやしろ)が鎮座しています。

この社は平安時代の「延喜式神名帳」にその名で記載され、また奈良時代の

『出雲国風土記』では「伊奈佐乃社」として登場する由緒ある古社です。

またの名を「速玉社」(はやたまのやしろ)とも呼ばれています。

 

因佐神社(いなさのかみのやしろ)/速玉社(はやたまのやしろ)  【境外摂社】

島根県出雲市大社町杵築3008

‐御祭神‐

・建御雷神(たけみかづちのかみ)・・・武勇の神様、鹿島神宮の御祭神

<御由緒>

『出雲国風土記』に「伊奈佐乃社」と記される式内社です。

御祭神は、天照大御神の命により天降られ、稲佐の浜で大国主大神と国譲りの話し合いを

された建御雷神を祀ります。地元では速玉(はやたま)さんと呼ばれています。

社殿は東を向いており、この方角には出雲大社があります。

まるで国譲り後の監視をしているようにも思います。

この因佐神社(速玉社)の近くに、国譲りを交渉した現場とされる屛風岩があります。

◆因佐神社(速玉社) 社殿

稲佐の浜から東に約50m入った住宅街に屛風岩があります。

この岩陰で大国主大神と高天原の使者である建御雷神(タケミカヅチ)が

「国譲り」の話し合いをしたという伝承が残っています。

◆屛風岩(別名 国譲り岩)

ここから先は、屏風岩が倒壊する恐れがあるため立入禁止となっています。

◆屏風岩

◆「古事記」からの引用

◆日本神話【国譲り】-建御雷神の派遣-のブログ

出雲大社から南に約3kmも離れた住宅街に境外摂社の湊社(みなとのやしろ)が鎮座しています。

社殿の前には神楽殿が配置され、社殿は真南を向いています。

◆湊社 神楽殿

湊社(みなとのやしろ)  【境外摂社】

島根県出雲市大社町中荒木四軒家南

‐御祭神‐

・櫛八玉神(くしやたまのかみ)・・・料理の神様、五十三磯命

<御由緒>

国譲りの後、膳夫となって鵜に化身して海底に潜り、海藻や魚を神饌として

大国主大神に献じたとされています。

勢溜の大鳥居のすぐ東に島根県立古代出雲歴史博物館がありましたが

今回は時間がなかったので立ち寄りませんでしたが是非とも見学したい博物館です。

◆島根県立古代出雲歴史博物館

◆出雲大社境内図

◆出雲大社周辺マップ

出雲大社から真っ直ぐ北に向かって、日本海にぶつかった入江に鎮座しているのが

境外摂社の伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ)です。

『出雲国風土記』や「延喜式神名帳」にも記載されている由緒ある古社です。

◆神門

伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ) 【境外摂社】

島根県出雲市大社町鷺浦102

‐御祭神‐

・稲背脛命(いなせはぎのみこと)・・・天穂日命の御子、天之夷鳥命、天鳥船命

-配祭神-

・八千矛神(やちほこのかみ)…大国主大命の別名、出雲大社の御祭神

・稲羽白兎神…稲羽の白兎、膚が剝がれて苦しんでいた白兎

・稲羽八上比売神・・・大国主大神が因幡の国へ行かれた折に見そめられ契りを結ばれ出雲に

          連れて帰られたが、嫡妻須世理売命を畏みて後に因幡に帰られました

<御由緒>

御祭神は、出雲国造の祖神 天穂日命の御子神です。

天照大御神の勅を受け建御雷神等と共に稲佐の浜に降り立ち、国譲りの神勅を大国主大神に

伝えた時、大国主大神の御子の事代主神は美保関に釣りに出掛けられていました。そのため

稲背脛命が使いに出され、事代主命を呼び還し国譲りについての諾否を問い、国譲りが武力に

よらず平和裡に解決されました。

◆神楽殿

本殿は垣根に囲まれて近くに入ることはできませんが、

本殿は明治14年(1881年)に造営されたものです。

◆本殿

◆出雲大社案内マップ

<参考文献>

・出雲大社公式ホームページ

・現地案内看板

・出雲大社の歩き方

・大社町民のブログ

・ウィキペディア