昨年暮れに義父が他界しました。

新年のお祝いや神社への参拝は忌中のため控えることにしました。

我が家の神棚も封じました。

 

「忌中(きちゅう)」とは、仏教において、故人が亡くなった日を1日目として、

四十九日法要が執り行われるまでの間を指します。

昔から家族は忌中の四十九日間、故人の成仏を祈り、家で穢れを祓うとされてきました。

また、神道では四十九日法要にあたる五十日祭を終えるまでが忌中となります。

神道ではその間は穢れの状態であるため、神社への参拝は避けるべきだと考えられています。

また、忌中は静かに故人を偲び弔う期間として、お祝いの席への参加や新年のお祝いは

避けた方が好ましいというのが慣わしとなっています。

 

建国記念日の翌日が忌明けとなり、我が家の神棚封じを解きました。

神棚の中央には天照皇大神、右側に氏神神社の伊豆美神社、

左に産土神社の蘆別神社と崇敬神社の箱根神社の御神札を祀っています。

今年最初となる神社への参拝は氏神様神社である伊豆美神社へ行きました。

◆伊豆美神社 社号標と一の鳥居

伊豆美神社は寛平元年(889年)に創建された古社です。

当時、武蔵総社六所宮と呼ばれた大國魂神社から分霊を勧請されました。

◆伊豆美神社 拝殿

翌日は靖國神社へ参拝に行って来ました。

毎年元旦は、伊豆美神社と靖國神社へ初詣に行くのが恒例となっているので

忌中が明けて、先ずこの2社を参拝しました。

◆靖國神社 社号標と第一鳥居

歴史や史跡・社寺めぐりが趣味で、特に新撰組と会津藩贔屓の私は

かつて靖國神社に参拝することを頑なに拒絶していました。

◆第二鳥居と神門

約10年程前から本当の日本の歴史が知りたいと思い近現代史について自分なりに調べました。

戊辰戦争から明治維新、大東亜戦争を経て現在までずっと一本の線で繋がっていること、

何故、日本は日清・日露戦争、大東亜戦争を戦わなければならなかったのか。

何故、日本は大東亜戦争で負けたのか。

何故、日本は技術があり勤勉な国民が真面目に働いているのに約30年も所得が上がらないのか。

先人たちが命を懸けて守ろうとしたものとは何だったのか。

などなど自分がずっと不思議に思っていた事を整理していくうちに

靖國神社へ参拝することに抵抗がなくなりました。

◆神門

それでも靖國神社が創建された歴史を考えると

完全にわだかまりが解消された訳ではありません。

◆神門から拝殿を望む

現在、平和ボケした日本でのうのうと暮らしている自分が

あの当時の世界情勢の中で先人たちが命を懸けて戦った結果だけを見て

現在の歴史認識と一般常識だけで判断するのはあまりにも傲慢で不遜な事ではないかと思います。

◆中門鳥居と拝殿

私の行きついた答えは

欧米列強からの植民地支配を受けずに天皇を中心として二千年以上続く我が祖国を

先人たちは命を賭して護り、後世の日本人に未来を託したのだと思います。

そんな思いから英霊に感謝の誠を捧げるため靖國神社に通うようになりました。

◆拝殿

靖國神社では、英霊の遺書や書簡を毎月、社頭に掲示しています。

◆英霊の言乃葉

参拝したこの日は、昭和20年3月19日に特攻隊として戦死された

海軍少尉 馬渕哲男命(享年23)の遺書が掲示されていました。

遊就館は明治10年(1877年)西南戦争が終わるころ設立の構想が出され、

同12年に陸軍卿・山県有朋を中心に、「御祭神の遺徳を尊び、また古来の武具などを

展示する施設」として構想され、イタリアの雇教師カペレッティーの設計により、

明治14年にイタリア古城式の建物が竣工し、翌15年2月25日に開館式が行われました。

◆遊就館

◆特攻の勇士像

遊就館の入口フロアには零戦や満州を走っていたC56型31号機関車、

八九式十五粁加農などの実物が展示されています。

境内には、東京管区気象台が開花を観測するために指定した桜(ソメイヨシノ)の

標本木があります。

◆桜の標本木

靖國八千代食堂で〝特攻の母〟として有名な鳥濱トメさんの玉子丼を食べたブログです。