先月、北アルプスの常念岳に日帰り登山をした後
常念岳の中腹にある『アンビエント安曇野』に宿泊しました。
翌日は朝から雨が降っていたので山登りは中止して
ホテルの近くにある『万願寺』に行って来ました。
万願寺は、安曇野の西、浅川山の麓にあります。
さらにその西には北アルプスの常念岳や槍ヶ岳が聳えています。
安曇野きっての名刹で、庶民による信仰のよりどころであるとともに
松本城主たちからの崇敬が厚く、大切に保護されてきました。
江戸時代の後半に札所巡りが流行すると、信濃三十三番札所の二十六番札所として
安曇平では代表的な観音霊場と位置づけられた寺院です。
万願寺の境内の入口(浅川山の麓)にあたるところに微妙橋と地蔵堂があります。
地蔵堂の横に専用駐車場があります。
◆寺号標と地蔵堂
◆微妙橋と地蔵堂
◆万願寺
長野県安曇野市穂高牧1812
山号・・・栗尾山
宗派・・・真言宗豊山派
創建・・・神亀年間(724年-729年)
本尊・・・千手観音菩薩立像
【万願寺の由緒】
寺伝によると、神亀年間(725年頃)裏山の奥にある長者ヶ池から出現した一寸八分の
黄金の仏像を、聖武天皇の勅願によって堂宇を建立して安置したのが始まりと云います。
その後、延暦14年(795年)坂上田村麿が有明山麓の八面大王討伐を御本尊に祈願した
ところ、霊夢の中で秘策を授けられ悪鬼を退治できたので、自ら1尺2寸の琥珀仏を
刻んでその尊像を御本尊の体内に奉安し、堂平に堂宇を建立して救療山観音坊と号し、
国家鎮護の霊仏として崇敬されたと言われます。
養和年間(1181年)、木曽義仲が堂宇を修繕し、山林を寄付しました。
天正12年(1583年)、松本城主小笠原定敬公は現地を寄附し、古来の地(現在地より
上に「堂宇」の地名あり)より堂宇および本尊を移し、尊慶法印を中興の開山として
小笠原公の祈願所としました。
天正13年(1585年)、細萱河内守が寺領若干を寄附した時から、領主代に七十七石
並びに唐沢山林150町歩を付し、また修繕の度に一の宮林より用材を下付することを
習いとされました。
当時の伽藍は、栗尾山全山にわたり諸堂が点在し、三十六堂伽藍を備えた霊場として
すこぶる壮麗で、この山全体を極楽浄土に真似て造られていましたが、
文化11年(1814年)の火災によって諸堂および庫裡を焼失しました。
が、文政年間に裕賢法師がこれを再興しました。
明治4年(1871年)、松本藩戸田光則公の廃仏令によって、いったん廃寺となったが、
建物はそのまま残されていました。明治12年(1879年)、奈良県長谷寺の塔頭良興院
の寺籍を起こして再興され、明治42年(1909年)檀信徒の強い願いによって旧称の
万願寺に改称し、現在に至っています。
◆栗尾山つつじ園案内図
参道の入口に架かる長さ10m、幅2.5mの欄干屋根付きの太鼓橋があり
「微妙橋」と呼ばれています。
お寺の境内が極楽浄土をイメージして造られており、
三途の川に架かる橋(微妙橋)を渡るところから参道が始まります。
◆六地蔵と微妙橋
橋板の裏側にお経が書かれていることから別名「お経橋」とも云われています。
越中立山の無明橋、高野山の無妙橋とともに日本三霊橋に数えられています。
◆微妙橋
この橋については、当時の勧進状に「御堂の前に川あり、三途の河と号す。ここに橋あり」
と記されており、悪人の渡る橋ではなく、善人の渡る橋とされています。
微妙橋の下を流れる川が三途の川で、この世とあの世を隔てる境と伝えられ、
その左右の山を死出ノ山と呼び、後ろは地獄、お経を唱えて渡らないと極楽浄土へ
行けないとされています。
◆北ノ沢
微妙橋(お経橋)を渡ったところに地蔵堂があります。お堂の中には500体以上の
お地蔵さまが祀られ、子授け地蔵として古くから信仰を集めています。
このお地蔵さまを借りて行って添い寝すると子宝に恵まれると云われています。
◆地蔵堂
地蔵堂の横には沢山のお地蔵さまが安置されています。
万願寺の境内には湧水が豊富に湧き出しています。
ひと口飲んでみると冷たくてとても美味しいお水でした♪
参道を登った中腹には、安曇野でも一番規模の広い回遊式のツツジ園が広がっています。
◆参道
さらに参道を上って行くと立派な仁王門が建っていました。
◆仁王門
仁王門には「救療山」と書かれた扁額が掲げられています。
◆仁王門 扁額
仁王門の左右には阿形・吽形の仁王像が安置されています。
◆仁王像
◆参道
仁王門を入ると左手に石仏が並び、その奥に祠がありました。
説明書きがなかったので詳細は不明ですが、絵図から察すると神明社なのか
かつて「霊杉」と呼ばれた栗尾山万願寺の大杉を祀った社なのかはわかりません。
そのすぐ近くには苔生した石が並んでいました。
参道の至るところに石仏があり参拝者を迎えてくれます。
◆手水舎
◆鐘楼堂
梵鐘には弘法大師千百五十年御遠忌記念と刻まれています。
◆梵鐘
かつて当寺は栗尾観音の別当寺になっていました。
◆栗尾観音
明治28年(1895年)東穂高村在住の木曽福島大工瀬川伊勢松の建築です。
◆聖天堂
正面は唐破風の軒、柱、斗、には繊細で華麗な彫刻が施されています。
聖天堂の横には安永5年(1776年)に建立された銅製宝篋印塔がありました。
聖天堂の前から階段が伸びていましたが進入禁止になっていました。
絵図から察するとかつてこの上に本堂があったと思われます。
延暦14年(795年)に坂上田村麻呂が八面大王を倒す際に、
力を貸したため彼による中興とも伝えられています。
◆本堂
◆お掃除小僧
◆弘法大師修行像
当寺に残る、天正10年(1582年)に武田氏を滅ぼした織田信長から発給された禁制には
「万願寺」の名前が初めて登場し、「天下布武」の朱印が捺されていました。
◆本堂
本堂の前には摩尼車(まにしゃ)が置いてありました。
この摩尼車には般若心経が刻して、回転するようになっています。
これを1回まわせば、お経を一巻読んだのと同じ功徳が得られるといいます。
◆摩尼車
本堂の扁額には「沼津侍従書」とあり、「水野」の文字が見える落款が捺されているので
水野忠成の揮毫と思われます。
◆本堂 扁額
◆御休処
文化11年(1814年)、火災により庫裡などが焼失しました。
その直後、十辺舎一九が当寺を訪れ滞在しています。
さらに「続膝栗毛」では、当寺を参詣する場面が描かれています。
◆庫裡
朱印所がありましたが、まだ閉まっていたため
大玄関から入らせてもらい御朱印をお願いしました。
◆大玄関
御朱印を書いていただく間、本堂に上がらせてもらいました。
万願寺と云えば「地獄極楽変相之図」が有名です。
全部で大きな絵が4枚掲げられており、死後の世界が描かれています。
死出の山を越えてあの世へ旅立つ、父の恩は山より高く、母の徳は海より深し
最初に賽の河原と地蔵尊、その左側に三途の川とお経橋(微妙橋)が描かれています。
その左には葬頭河の婆、脱衣婆・剝ぎ取り婆、血の池地獄、針山地獄が描かれています。
◆地獄極楽変相之図
中央に閻魔大王が描かれ、その下に地獄の釜責め、右側に邪淫の苦、火の車、
左側にたち臼の中の折檻、浄玻璃の鏡、最期は白骨となって河に棄てられる絵です。
右上が人間道(毎日の生活)、右下が餓鬼道に堕ちて食べられない苦しみは貪欲の結果なり。
中央に六道能化の地蔵尊みんな自分の心の中に生じる。
左上は修羅道で喧嘩・口論、娑婆のすがた。左下は畜生道に落ちて引きずり廻される。
右側は邪悪の煩悩を断滅して仏道修行に精進する。中央に観世音、勢至諸菩薩の御来迎。
左側は仏様の仲間に入るという絵です。
◆本堂
◆本堂
◆御朱印
この絵図は当寺が復興から15年経った明治25年(1892年)に描かれたものになります。
画面を斜めに中房道で区切って、左上を「万願寺」、右下を「死出ノ山」、
その間に微妙橋の架かる「さいのかわら」が描かれています。
◆信濃国栗尾山図
◆万願寺周辺マップ
<参考文献>
・現地案内看板およびパンフレット
・ふるさと安曇野 きのう きょう あした
・長野県の情報「E-CURE」
・ウィキペディア