9月に三浦半島の東端(観音崎)に鎮座する『走水神社』について
ブログで紹介しましたが、今回はその続きになり千葉県へやって来ました!
日本各地に10万社を超える神社が存在し、その数はコンビニより多いと云います。
神社の鎮座する位置、祀られている祭神との関係は、それぞれ由来や物語があります。
私はその物語や由来を巡りながら神社詣でするのを趣味にしています♪
と言う訳で房総半島にある日本武尊と弟橘媛ゆかりの神社を周ってきました。
最初に紹介するのは木更津市にある『吾妻神社』です。
アクアラインを渡ってから木更津駅へ向かう途中の東京湾近くに位置し、
最寄り駅は木更津駅西口から徒歩18分のところにあります。
この鳥居は大正10年(1921年)9月に建立されたものです。
◆鳥居
◆吾妻神社
千葉県木更津市吾妻2-7-55
【社格等】
旧村社
【ご祭神】
●弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)・・・日本武尊(やまとたける)の妃
【吾妻神社の由緒】
昔、この地を吾妻の森と云った頃、森の中心に小池があり、これを「鏡ヶ池」と
呼んでいました。これも日本武尊の悲しい物語に由来するものと思われますが、
つまびらかではありません。当神社のご祭神は弟橘媛で、江戸砂子に
「君去津吾妻大明神はすなわち弟橘媛の霊社也」とあり、社殿にも日本武尊御東征の
みぎり相模から上総へ渡ろうとした時、海上にわかに荒れ海に身を投じた妃のお袖が
数日後この近くの海岸に漂着したのでこれを納めて吾妻神社を建てたとあります。
当神社では流れ着いたと伝わる御袖を祭神として祀っています。
◆ご祭神(流れ着いた御袖)
◆弟橘媛(オトタチバナヒメ)について
西暦100年頃、第12代景行天皇に東征の命を受けた日本武尊と共に相模から上総へ渡る際に、
荒れ狂う海に身を投じた姫君が弟橘媛です。
走水の海に船を漕ぎ出したその途中、海峡に住む荒れ狂う神が船を転覆させて命を沈めようと
暴風と荒波を起こして船を木の葉のように漂わせ進むことができませんでした。
弟橘媛が云われるには、
「・・・海の神が命を沈めようとしているからです。それ故、私が命の身代りとなって
海に入りましょう。」と云われて海に入ろうとしました。
弟橘媛は涙を流して歌を詠まれました。
「山々の立ち並ぶ相模の国の 野を焼き払う野火の中に 私をかばってくださった
命の気持ちが忘れられない」と歌い終えて船から身を投げて神の怒りを鎮め、
日本武尊は無事に海を渡ることができたと伝えられています。
身を投じた妃のお袖が数日後、吾妻の近くの海岸に漂着したので、これを納めて
吾妻神社を建てたと伝えられております。
悲しんだ日本武尊は、しばしその地を離れなかったことから、
「君(日本武尊)」が「去らず」から 「君去らず」⇒「きさらず」になったと云います。
さらに「袖しが浦」から「袖ヶ浦」という地名ができたとも云われ、
木更津の近くに「富津」という地がありますが、古くは「布留津」と記され、
これは弟橘媛の袖(布)が流れ着いて、日本武尊がこの地(津)に留まった事に由来する
とも云われています。
◆弟橘媛の掛け軸
社号標の側面に日本武尊が亡くなった妃の弟橘媛を偲んだ歌が刻まれています。
「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影を 見るぞ悲しき」
◆社号標
◆表参道
「海上安全」「大漁祈願」と刻まれた文政13年(1830年)の
金比羅大権現の石灯籠があります。
表参道には注連縄をしたご神木の銀杏が色づいていました。
◆ご神木の銀杏
◆石灯籠
◆稲荷社
漁業の町として発展してきた旧吾妻村としての海の守り神として、
七福神とともに祀られています。
◆金比羅宮
文久3年(1863年)8月1日、徳行明鐘という修験者が富士山麓で33度の大願成就を
記念して建立したと云われています。富士山の火山岩を積み上げ、山頂に富士本宮の
祭神・木花咲耶姫と姉の磐長姫、夫の瓊瓊藝命の石碑が立っていました。
◆富士塚
山の神様として祀られています。
◆山王宮
三猿の石碑や延宝8年(1680年)の「従是東者(これよりひがしは)」
「江戸かいたう」と刻まれた庚申塔があります。
◆庚申塔
去年・一昨年とコロナ禍のため夏祭りが中止になっていましたが、
今年は2年振りに八釼八幡神社の大神輿が吾妻神社にやって来たそうです。
◆社殿
◆狛犬
◆拝殿
拝殿には龍と日本武尊と弟橘媛でしょうか?見事な彫刻が施されていました。
吾妻神社に保管されている「上總國望陀郡吾嬬村 吾嬬大権現縁起」です。
文政4年辛巳年8月(1822年8月)。
◆吾妻神社 縁起
社殿内には安西順一氏作の弟橘媛像(昭和32年に寄贈)が安置されています。
◆弟橘媛像
戦前に海を埋め立て、海軍航空隊基地が設置される以前は遠浅の海浜を臨む老樹松林の地でした。
◆拝殿前から鳥居を望む
社殿の西側にもご神木があり、その向こう側に鏡ヶ池があります。
◆本殿
かつて、この場所に吾妻の森があり、森の中心に水が綺麗に澄んだ形の良い池がありました。
日本武尊や従者たちは、その池の水で喉を潤し、水面を鏡の代わりにし、疲れ果てた己の姿を
見て、身なりを整えたといいます。
◆鏡ヶ池
その池は弟橘媛が使った鏡を沈めた所とも伝えられ、以来この池を「鏡ヶ池」と云われて
います。現在の鏡ヶ池は古い池を修復したもので、池の畔に水神様が祀られています。
◆水神宮
御朱印は木更津駅前の八釼八幡神社でいただきました。
◆御朱印
◆走水神社のブログ(2022年9月11日)
日本武尊が東征の帰途、碓氷峠から遠くの海を眺め、相模灘で荒波を静める為に
海中に身を投じた最愛の妃・弟橘媛を偲んで
「吾嬬者耶(あづまはや)」「ああ、いとしき我が妻よ」と呼びかけたと伝えられています。
以後、碓氷峠より東の国を、吾妻(あづま)と呼ぶこととなりました。(「日本書紀」より)
◆熊野皇大神社の境内
<参考文献>
・現地案内看板およびパンフレット
・吾妻神社公式ホームページ
・木更津市観光協会公式ホームページ
・ウィキペディア