三浦半島の東端(観音崎)近くに鎮座する『走水神社』は、
『古事記』や『日本書記』に登場する日本武尊(ヤマトタケル)の東征神話に
ゆかりのある神社です。
日本武尊が東征のため、走水から上総(千葉県の房総半島)に向けて出船した際、
海が荒れて船が沈没しそうになりました。これは海神の怒りによるものだと考えた
日本武尊の后・弟橘媛命(オトタチバナヒメ)が自ら海に飛び込んで海神の怒りを鎮め、
日本武尊は無事上総へ渡ったと伝えられています。
『走水神社』は日本武尊と弟橘媛命をご祭神として祀っています。
夫を助けるために自ら犠牲になったという神話により、
最近は、女性のパワースポットとして人気がある古社です。
◆走水神社
神奈川県横須賀市走水2-12-5
【社格等】
旧郷社
【ご祭神】
●日本武尊(やまとたけるのみこと)・・・第12代景行天皇の皇子、伝説的英雄、倭建命とも表記
●弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)・・・日本武尊の后
【走水神社の由緒】
景行天皇即位40年(110年)、東国の騒動を静めるため日本武尊にその鎮定を命じました。
勅命を奉じて日本武尊は、伊勢神宮に参詣され戦勝祈願をして、神宮の斎宮であった
叔母の倭姫命(ヤマトヒメ)より神宝の雨叢雲之剣(あめのむらくものつるぎ)と
火打袋を授けられ、東国に東征の軍を起こされました。途中、静岡(焼津)において
賊にだまされ火攻めの難に遭遇されましたが雨叢雲之剣で草を薙払い向火を放ち形勢を
逆転させて賊を討伐したと云われ、これよりこの神宝を草薙之剣(くさなぎのつるぎ)
とも呼ばれ、以来熱田神宮の神宝となっています。
日本武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。
ここに、御所(御座所)を建てました。(現在の御所が崎といわれています)
走水の地において、軍船等の準備をし上総に出発するときに村人が日本武尊と弟橘媛命を
非常に慕いますので、日本武尊は自分の冠を村人に与えました。村人はこの冠を石櫃に
納め土中に埋めその上に社を建てました。(これが走水神社の創建になります)
日本武尊は、上総国へ軍船でいっきに渡ろうと船出されましたが、突然強い風が吹き
海は荒れ狂い軍船は波にもまれ進むことも戻ることもできず転覆するかの危機に、
日本武尊に付き添ってこられた御后の弟橘媛命が「このように海が荒れ狂うのは、海の神の
荒ぶる心のなせること、尊様のお命にかえて海に入らせて下さい。」と告げ、
「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と御歌を残し、
海中に身を投じられました。たちどころに海は凪ぎ風は静まり日本武尊一行の軍船は
水の上を走るように上総国に渡ることが出来ました。以来、水走る走水と言われております。
上総、下総、常陸、日高見の国々の蝦夷を討ち平らげて大和に帰る途中、碓氷峠から
遥か東方に光る走水の海の輝きを望み、その海に身を投じ武運を開いてくれた媛を偲び
「あ~吾が妻よ」と嘆き呼びかけられたと云います。
そしてこれをもって東国を東(吾妻)「アズマ」と呼ぶようになったと云われています。
奈良時代初期に編纂された『古事記』『日本書記』にも記されています。
また、弟橘媛命が入水されてから数日して海岸に櫛が流れ着きました。村人たちはその櫛を
日本武尊と弟橘媛命の御所があった御所が崎に社を建て、櫛を納め橘神社としましたが、
明治18年(1885年)に御所が崎が軍用地になったため、橘神社は走水神社の境内に移され、
明治42年(1909年)に走水神社に合祀されました。
◆境内案内図
◆社号標と鳥居
◆一の鳥居
江戸時代の弘化4年(1847年)に奉納された狛犬です。
◆狛犬
鳥居をくぐると小高い丘の中腹に真っ直ぐ延びる参道の先に社殿が見えました。
◆鳥居から社殿を望む
手水舎の神水は深さ30mより湧き出ている真水です。富士山より長い歳月を掛け、
この辺り一帯に湧き出ていると言い伝わっています。
白砂はかつて橘神社があった御所が崎東海岸から小舟で運んで来て整斉したものです。
◆手水舎
走水神社には〝河童伝説〟があります。
ここで御朱印を書いていただきました。
◆社務所・授与所
おみくじは「かっぱおみくじ」です。
◆絵馬掛
当神社のご祭神である弟橘媛命の御名を同じくする橘の木です。
当神社の社紋も「橘」の花を模っています。
◆橘の木
◆二の鳥居
◆二の鳥居から社殿を望む
参道の石段途中の左側にご神木のイチョウが聳えています。
◆ご神木
◆神輿庫
◆宝物殿
弟橘媛命が荒海を鎮めた故事に因み、昭和50年(1975年)に海の安全と平和を祈念して建立。
東京湾岸の地名で「袖ヶ浦」「袖ヶ浜」などは、弟橘媛命の着物の袖が岸に流れ着いた話に
よって名付けられました。
◆弟橘媛命 舵の碑
弟橘媛命の櫛は走水神社近くにある御所ヶ浜にも流れ着き、地元の人は
房総半島へ出発前に2人が過ごした御所ヶ崎に弟橘媛命をご祭神とする橘神社を創建しました。
◆弟橘媛『前賢故実』より
「草枕 旅のまる寝の 紐たえば あが手とつけろ これの 針もし」
万葉集 椋椅部弟女 昭和58年に針と衣類などに感謝するとして建立されたものです。
◆針の碑
◆日本武尊・弟橘姫命顕彰の碑
日本武尊が当地に立ち寄ったとき、大伴黒主が料理を献上したことから、料理番にとり
たてられたという故事に因み、包丁供養のため昭和47年(1973年)に建立されました。
◆包丁塚
急な石段を登った先に社殿があります。
石段を登り切ると拝殿があります。
◆社殿
社殿には龍や獅子の木鼻などの彫刻が施されていました。
日露戦争の戦利品のロシア製機械水雷で、国家の平和を祈念するためここに置かれています。
弟橘媛命記念碑の除幕にあたり、発起人の1人で建立のため中心的な役割を果たした
海軍中将・上村彦之丞から当神社に寄贈されたものです。
◆機械水雷
社殿の右には水神社と稲荷神社があります。
稲荷神社には豊受姫命、宇迦之御魂神を祀っています。
◆稲荷神社
稲荷神社の横にかつて使われていた旧別宮がありました。
◆旧別宮
水神社は、かつて走水神社裏の清流に河童が住んでいたという〝河童伝説〟によります。
遭難した人を助けたり、漁業の手引きをしたと伝えられています。
◆水神社(河童大明神)
◆河童の恩返し
拝殿前からは海が一望でき、その先に房総半島もハッキリと見えます。
◆社殿から東を望む
社殿は海と山に囲まれ、パワースポットと云われるのも頷けました。
◆社殿
社殿の左手に平成25年(2014年)に改築された別宮が鎮座しています。
西暦110年10月15日、弟橘媛命の後を追い入水された侍女たちと
同行した武勇士十人(十王)たちを祀っています。
◆走水神社 別宮
別宮の少し先に見晴らしの良いスポットがありました。
弟橘媛命が海に身を投げた際に詠んだ歌は、東郷平八郎、伊東祐享、井上良馨、
乃木希典、高崎正風、上村彦之丞、藤井茂太の7名が発起人となり、
明治43年(1910年)に歌碑として建立され、除幕式にも参列しています。
さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
勲一等昌子内親王書
題字は恒久王妃昌子内親王(明治天皇の第六皇女)の揮毫です。
◆弟橘媛命記念碑
嗚呼此は 弟橘比賣命いまはの御歌なり命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う時端無く暴風に遭ひ 御身を犠
牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり御歌に溢るゝ真情はすべて
夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず其の貞烈忠誠まことに女子の亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし平八郎等七人相議り同感者の賛成を得記念を不朽ならしめ
むと御歌の御書を 常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り彫りてこの石を建つ
明治四十二年十月
発起人
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 | 東郷平八郎 |
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 | 伊東祐亨 |
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 | 井上良馨 |
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 | 乃木希典 |
樞密顧問官兼御歌所長従二位勲一等 男爵 | 高﨑正風 |
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 | 上村彦之丞 |
陸軍中将従四位勲二等功二級 | 藤井茂太 |
御歌所主事従五位勲六等 阪正臣謹書 |
旭海鶴永富萬治敬刻 |
◆弟橘媛命記念碑の裏面
社殿にの左側から裏山へ通じる山道を登って行くとお三の宮の鳥居がありました。
◆お三の宮の鳥居
お三の宮の手前に旧稲荷社跡がありました。
日本武尊の一行が東征成功の祈願を行ったと伝えられています。
◆旧稲荷社跡
◆お三の宮
左から諏訪神社、神明社、須賀神社が鎮座しています。
◆裏山からの景色
神社の駐車場には、国防婦人会渋谷上原分会員であった櫻庭タニ子さんの殉職碑が
立っていました。
◆桜庭タミ子殉職の碑
◆御朱印
◆走水神社案内マップ
<参考文献>
・現地案内看板およびパンフレット
・走水公式ホームページ
・トラベルjp
・ウィキペディア