大東亜戦争で日本が敗戦をした後、

昭和天皇は国民に向けて、正式な形での〝お気持ち〟を語られる機会がありませんでしたが

深い苦悩を抱えておられ、戦争の責任をとって退位を考えていらしたことは

宮内庁初代長官の田島道治氏の日記や書類などから拝察することができました。

詳細については、以前のブログ「封印された昭和天皇のお気持ち」、

「昭和天皇の〝人間宣言〟」で紹介した通りです。

昭和天皇は、安易に退位する道を選ばれず、二千年の皇統を絶やすことなく

戦後も日本国のために尽くすことが自分の責務であるとご決意されました。

敗戦直後、全国が焼け野原になっていたとき、敗戦国の国民として打ちひしがれた

日本人を励ますため、陛下自身の発案によって、全国御巡幸の決意を示されました。

昭和20年(1945年)10月、宮内省次長の加藤進氏に次のように指示されました。

「この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。

この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位を考えた。

しかし、よくよく考へた末、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、

また復興のために立ち上がらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思ふ。

このことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。ついては、宮内官たちは

私の健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、

健康とか何とかはまったく考へることなくやってほしい。

宮内官は、その志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。」

当然、天皇は全国を御巡幸されようとすると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の

許可を得なければなりません。ところが図らずも、GHQはすぐに許可を出しました。

それにはある魂胆がありました。GHQの高官たちの間では、こんな会話が交わされました。

「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石の一つでも

投げられりゃあいいんだ。ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを

日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。

それが生きた民主主義の教育というものだよ」

西洋の王室しか知らない人間でしたら、当然こういうことを思うようです。

戦争になって国民が大変酷い目に遭ったんだから、王様は当然その責めを受けるだろう。

それから王様というものは堂々として立派じゃなくてはいけないのに、

この日本の天皇は40歳を過ぎた猫背の小男なんだ、と。

これが当時のアメリカ軍にとって、ごく普通の皇室の認識でした。

そして、ここから全国の御巡幸が始まりました。

昭和天皇は、昭和21年(1946年)2月~昭和29年(1954年)8月まで、

アメリカ統治下の沖縄を除く日本全国を約8年半をかけて周られました。

行程は3万3千km、総日数165日となりました。

 

昭和21年(1946年)2月19日、最初のご訪問の地は、昭和電工の川崎工場でした。

食料生産に必要な化学肥料を製造しているところで、こういう工場が一刻も早く

再建しないと、食料生産が進まないということで、選ばれたようです。

空襲で70%の設備が破壊され、社員が必死で復旧に努めていました。

ここで昭和天皇は一列に並んだ工員たちに、「生活状態はどうか」「食べ物は大丈夫か」

「家はあるのか」と聞かれました。こういうお言葉を聞いて、感極まって泣いている者

も多かったということです。案内していた森社長は、陛下が身近な質問ばかりされるので、

宮中で安楽な生活をされていたら、こんなことは口だけでは言えまい、と急に親しみを

感じたと言います。

二度目の御巡幸は同年2月28日、大空襲で一面焼け野原となっていた都内を周られました。

新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ち構え、自然に「天皇陛下、万歳!」の声が

巻き起こりました。昭和天皇は帽子を取ってお応えになると、群衆は米兵の制止を振り切って

車道にまでなだれ込みました。

これ以降、御巡幸される先々で、このような光景が繰り返されました。

昭和21年(1946年)には、関東と東海の各県を全部回られました。

それから翌年の昭和22年(1947年)6月には、大阪、兵庫、和歌山、

そして8月の酷暑の中を東北全県の巡幸を希望されました。

周囲の人は天皇のご健康を心配して、もう少し涼しくなってから行かれてはと

延期を願いましたが、昭和天皇は「東北の運命(食料生産)は真夏にかかっている。

東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励してやりたい」とおっしゃって

東北を周られました。

敗戦直後で、宿舎がままならず、列車の中や学校の教室に泊られたこともありました。

「戦災の国民のことを考えれば何でもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」

と言われて、行幸を続けられました。

出炭量の40%を占める重要なエネルギー供給基地である福島県の常磐炭坑で詠まれた御歌が

「あつさつよき 磐城の里の 炭山に はたらく人を ををしとぞ見し」

昭和天皇は地下450mの坑内を歩かれ、40度の中を背広、ネクタイ姿で上半身裸の鉱夫たちに

「こんな暑い中で働いて体は大丈夫か、とか食べ物は十分あるのか」と質問され、

激励されると深い坑内で万歳の声が轟いたそうです。

炭鉱の坑道の暑さの中で鉱夫たちが、食べ物も不十分なのに一生懸命石炭を掘り出してくれる

のを見て、ありがたいなというお気持ちが「ををしとぞ見し」の「ををし」という言葉に

表れていると思います。これは肉体的に雄々しいということだけではなく、精神的にも

こういう人たちの頑張りが日本を支えてくれるのだと、そういうお気持ちであったと思われます。

この2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に出られました。

最初に浅間山の初雪の中を2kmも歩かれて、山麓の大日向開拓村を訪問されました。

この辺りは土地が痩せていてなかなか農業生産も思わしくないということで、満州への

分村移民を全国で最初に実行した村です。終戦直前また直後にソ連の満州侵略により、

この移民が694名中、命からがら逃げ帰った人たちは半分くらいしかいませんでした。

その人たちが故郷の浅間山麓に戻って来て、標高1,095mの荒れ地を切り開いて入植して

いました。天皇をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は幾度となく涙で途絶えました。

そして昭和天皇のお顔も涙に濡れました。この時に陛下が詠まれた御歌が

「浅間おろし つよき麓に かへりきて いそしむ田人 とふとくもあるか」

この「尊くもあるか」というところに陛下のお気持ちがよく表れていると思います。

 

この年、11月から12月にかけては、さらに鳥取、島根、山口、広島、岡山を周られました。

島根県では、新川開拓団で3万人の奉迎に応えられた後、伊波野村で農作業をご覧になられました。

農業会長が、働いている老夫を指して「我が子を二人とも失いましたが、村人の助けも得て、

屈することなく働いております」と説明すると、天皇は次のようなお言葉と御歌を賜りました。

「この度は 大事な二人の息子を失いながら、猶屈せずに食糧増産に懸命に努力する老農の

姿を見、一方又これを助ける青年男女の働きぶりを見て、まことに心を打たれるものがあった。

このような涙ぐましい農民の努力に対しては深い感動を覚える。いろいろ苦しいことも

あらうが、努力を続けて貰いたい」。

「老人(おひびと)を わかき田子らの たすけあひて しそしむすがた たふとしとみし」

12月5日、広島に入られました。広島市では戦災児育成所の原爆孤児64名に会われました。

原爆で頭の禿げた一人の男の子の頭を抱えるようにして、目頭を押さえられた。周囲の群衆も

静まり返って、すすり泣きました。爆心地の相生橋を通過されて、平和の鐘が鳴る中を

元護国神社跡で7万人の奉迎を受けられました。周囲には黒焦げの立木、飴のように曲がった

鉄骨が残る中で、天皇はマイクで次のように語られました。

「この度は、皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。本日は親しく市内の災害地を

視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思ふ。広島市民は復興に努力し、

世界の平和に貢献せねばならぬ」。

「ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ たちなおる見えて うれしかりけり」

冒頭の「ああ広島」という一句が、ここに昭和天皇の非常に安堵されたお気持ちが表れて

います。広島に来られる前は原爆で大変な災害を受け、その広島の市民たちも生き残った

とはいえ、大変な思いで暮らしているのではないかと、そう思ったところが「平和の鐘も

鳴りはじめ」復興の兆しが見えてきていると、これが「うれしかりかり」という心に繋が

っていると思います。

こういう光景を見て、中国地方行幸のお目付役として同行していた占領軍総司令部民生局

のケントは、原爆を落とされた広島の地ですら誰一人、天皇を恨む者がいないことに、

ただただ驚くばかりだったと云います。

昭和天皇は各地で熱狂的な奉迎を受けた一方、ガソリン不足が深刻な中で大規模な車列を

組むことや東京裁判の渦中において「天皇制存続キャンペーン」をしているというGHQ

民生局からの批判もある中、兵庫県で小学生たちが禁止されていた日の丸を振ってお出迎え

したのを「指令違反」であるとして、GHQ民生局は以後の御巡幸中止を命じました。

しかし、御巡幸を期待する九州・四国地方や各地からの嘆願や要請が宮内府に殺到し、

昭和天皇も直接マッカーサーにお話しされた模様で、翌々年に再開が許可されました。

昭和24年5月18日~6月10日にかけては、九州全県を巡幸されました。5月22日に立ち寄ら

れた佐賀県三養基郡基山町の因通寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮がありました。

孤児たちの中に、位牌を2つ胸に抱きしめていた女の子がいました。昭和天皇はその女の子

に近づかれて「お父さん?お母さん?」と尋ねられました。

「はい、これは父と母の位牌です」とはっきり返事をする女の子に、さらに「どこで?」と

尋ねられると、「はい。父は満州境で名誉の戦死を遂げました。母は引き上げの途中病の

ために亡くなりました」。天皇は悲しそうな顔で「お寂しい」と言われると、女の子は

首を横に振って「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子供は亡くなっ

たお父さんとも、亡くなったお母さんともお浄土に行ったら、きっともう一度会うことが

できるのです」と言いました。昭和天皇は、スッと右の手を伸ばされ、女の子の頭を2度、

3度と撫でながら「仏の子供はお幸せにね。これからも立派に育っておくれよ」と言われ

ました。数滴の涙が畳の上に落ちました。「お父さん」、女の子は小さい声で昭和天皇を

呼びました。

「みほとけの 教へまもりて すくすくと 生い育つべき 子らに幸あれ」

因通寺の参道には、遺族や引揚者も大勢つめかけていました。昭和天皇は最前列に座って

いた老婆に「どなたが戦死をされたのか」とお声をかけられました。

「息子でございます。たった一人の息子でございました」声を詰まらせながら返事をする

老婆。「どこで戦死をされたの?」「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、

息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです…。天皇陛下さま、息子の命は

あなたさまに差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをして

ください」老婆は泣き伏してしまいました。

 

それから引揚者の一行の前でこういうシーンがありました。昭和天皇は引揚者の一行に

対して、深々と頭を下げられて「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」

とお言葉をかけられました。その中の引揚者の一人が前に進み出てこう言いました。

「天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかった

のでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは

決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります」

ソ連による抑留下で共産主義思想と反天皇制(天皇制廃止論、君主制廃止論の1つ)を

教え込まれ洗脳されたシベリア抑留帰還者が、昭和天皇から直接お言葉をかけられ、

一瞬にして洗脳を解かれ「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。

俺が間違っておった。俺が誤っておった」と泣き伏してしまいました。

天皇は泣きじゃくる青年に、頷きながら微笑みかけられました。

九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、

各県とも6・7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになりました。

御巡幸はその後も、四国、北海道と続きました。

北海道の御巡幸は、日本共産党の活動が活発であったことや、朝鮮戦争及び日本の主権回復

の過渡期にあってソ連の動向を含む北方情勢が不安定であることの懸念により、吉田茂首相

がなかなか同意せずに、昭和29年(1954年)8月に最後の訪問地として実現しました。

同年6月の警察法改正により、国会での乱闘や警察法改正無効事件が惹起され、混乱の中

での行幸となりました。北海道では、行幸の途上、陸上・海上自衛隊の部隊が天皇に栄誉礼

や観艦式さながらの敬礼で出迎え、一方、共産党は「天皇制」反対運動を行い、また室蘭の

労働組合は赤旗と日の丸を同時に振って歓迎されました。

 

昭和天皇は8年半の間に沖縄を除く、全都道府県を周られ、お立ち寄り箇所は1411カ所に

およびました。奉迎者の総数は数千万人に達したそうです。

「戦の わざはひうけし国民を 思ふこころに いでたちてきぬ

わざはひを わすれてわれを 出むかふる 民のこころを うれしとぞ思ふ

国をおこす もとゐとみえてなりはひに いそしむ民の 姿たのもし」 

大日本帝国が崩壊して、初めて国民は間近に天皇を拝する機会を得ました。

驚くべきことに、それは人々と共に悲しみ、涙を流す天皇でありました。

一人ひとりが孤独に抱えていた苦しみ、悲しみに天皇が涙を流された時、

人々は国民同胞全体が自分たちの悲しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、

そこから共に頑張ろうという気持ちが芽生えていきました。

戦後の目覚ましい復興のエネルギーはここから生まれました。

昭和天皇は全国46都道府県を御巡幸されるも、沖縄県の御巡幸だけは終戦後も長らく

アメリカ占領下であった上、返還後も昭和50年(1975年)に皇太子殿下(当時)で

あった明仁親王と同妃美智子夫妻が訪沖の際、ひめゆりの塔事件が発生したこともあり、

遂に果たすことができませんでした。

その後、病臥した昭和62年(1987年)秋に第42回国民体育大会(沖縄海邦国体)への

臨席が予定されていましたが、自ら訪沖することが不可能と判明したため皇太子殿下

明仁親王夫妻を名代として派遣し、「おことば」を伝えられました。

「思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」との御製が伝わり、

深い悔恨の念が思われました。

翌年9月、昭和天皇が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れました。

40数年前の御巡幸で昭和天皇に励まされた人々も少なくなかったであろうと思います。

昭和天皇は病床で「もう、だめか」と言われました。

医師たちは、ご自分の命の事かと思ったそうですが、

実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたそうです。

御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、

上皇陛下(当時は天皇陛下)によって平成5年(1993年)に果たされました。

<参考文献>

・伊勢雅臣「昭和天皇の祈り」から

・ウィキペディア