先日、大磯にある『妙大寺』へ参拝に行って来ました♪
妙大寺は、JR大磯駅の北側にある羽白山の麓にあり、大磯に日本初の海水浴場を開設し
寂れていた大磯を別荘地帯として、新しく生まれ変わらせた大磯の大恩人である
松本順(明治以前は良順)の墓があることで知られています。
さらに大東亜戦争の直前に、ナチス・ドイツの迫害から多くのユダヤ人を救出したことや
昭和20年(1945年)8月15日の終戦の日後の8月18日以降、ソビエト軍の侵攻から
北海道を守った旧陸軍中将・樋口季一郎の墓を参るために訪れました。
◆妙大寺
神奈川県中郡大磯町大磯町東小磯19
山号・・・乗勝山
宗派・・・日蓮宗
創建・・・寛正2年(1461年)
開山・・・法性院日悟
本尊・・・釈迦如来
当寺の詳しい由緒などはわかりません。
日蓮宗らしく参道入口には南無妙法蓮華経の題目碑が立っています。
◆題目碑
題目碑の裏側をみると「天保」と刻まれていましたが、建立された年月日は
読み取れませんでした。
当寺には6年前に新撰組ゆかりの地を歩いていたとき松本良順の墓があるので
訪れていましたが、今回は樋口季一郎中将の墓参りが目的で訪れました。
◆参道と山門
◆山門
山門には観音経の一節である「慈意妙大雲」の扁額が掲げられています。
◆山門 扁額
山門を入ると、両側に緑の樹木に包まれた石畳の参道の正面に本堂が見えます。
参拝を終えて帰りに客殿のインターホンを押して御朱印のお願いをしましたが
残念ながらこの日は対応できないとのことでした。
◆客殿
◆本堂
本堂の正面には見事な龍の彫刻が施されています。
本堂には山号の「乗勝山」の扁額が掲げられています。
◆本堂 扁額
◆永代供養墓 山之宝塔
墓地のほぼ中央に松本良順の墓があり、案内板が立っているのでわかります。
松本良順と新撰組とのつながりは深く、そのあたりの詳しい話は以前のブログ
(新撰組探訪)で詳しく紹介した通りです。
墓石には従三位勲一等男爵松本順先生墓と刻まれています。
正三位勲一等子爵林薫謹書とあり、実弟である林薫の揮毫によります。
◆松本順(明治以前は良順)の墓
明治19年(1886年)~20年頃に松本順は大磯に別荘を構えたと云われています。
当寺の西側一帯から御嶽神社の間にかけて松本の功績を讃えて町民から贈られた土地で、
ここに別荘を建て、晩年を過ごしていたそうです。
明治40年(1907年)3月12日大磯の邸宅にて満74歳で死去、17日に当寺で葬儀が行われ
鴫立庵に埋葬されました。昭和29年(1954年)に遺骨を当寺に改葬されています。
◆松本順先生の墓誌
◆松本順(明治以前は良順)天保3年6月16日(1832年7月13日)‐明治40年(1907年)3月12日
天保3年(1832年)に江戸麻布で生まれる。佐倉藩で病院兼蘭医学熟「佐倉順天堂」を
開設していた父佐藤泰然の元へ行き、助手を務める。嘉永2年(1849年)、幕府奥医師
松本良甫の養子となり、幕府に出仕します。オランダの軍医ポンペに西洋医学を学び、
奥医師に進み、医学所頭取となる。将軍侍医を務め、将軍徳川家茂などの治療を行い、
会津藩の下で京都の治安維持のため活動していた新撰組の局長・近藤勇とも親交があり、
隊士の診療も行う。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、歩兵頭格医師として
幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏。
戦後一時投獄されたが、明治2年放免され、出獄後に東京の早稲田に西洋式病院の蘭疇院を
設立。明治4年(1871年)に従五位に叙せられた後、「順」に改名。
明治6年(1873年)大日本帝国陸軍初代軍医総監となる。明治23年(1890年)、
貴族院勅撰議員などを務める。号は蘭疇。外務大臣の林董は実弟にあたる。
◆林薫 嘉永3年2月29日(1850年4月11日)‐大正2年(1913年)7月10日
下総佐倉藩の蘭方医佐藤泰然の五男として生まれる。松本良順の実弟。
慶応4年(1868年)、幕府滅亡後は縁戚の榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊に身を投じ、
箱館戦争時には佐藤東三郎と名乗り、翌明治2年(1869年)の敗戦後捕らえられ、
明治3年(1870年)に釈放されます。その後、政治家として外務大臣を務める。
明治28年(1895年)に日清戦争の処理と三国干渉のため、清へ特命全権公使として赴任。
日露戦争後の明治38年(1905年)12月、初代駐英大使に任命され、日本の外交官として
初めての特命全権大使となる。
昨年5月、北海道石狩市にある樋口季一郎記念館を訪ねたときに、
お墓が当寺にあることを知り、今回お参りに訪れました。
私が子供の頃、大東亜戦争後に北海道の半分(留萌と釧路を直線で結んだ北側)、
もしかすると北海道全部をソ連に取られるところだったと聞いたことがありました。
その時に北海道を死守したのが第五方面軍兼北部軍管区司令官の樋口季一郎中将です。
彼が北海道を守ってくれなければ、私は生まれていなかったかもしれません。
◆樋口季一郎の墓
樋口将軍は、昭和45年(1970年)10月11日東京都文京区白山にて老衰のため死去。
同月19日、葬儀は文京区の吉祥寺で行われました。樋口将軍の戒名は真如院殿伯堂日季居士。
祭壇の中央には昭和天皇から御差遣いただいた弔文が供えられ、生前の武功を称える
勲一等旭日大授章が燭台の灯をうけて、燦然と輝いていたそうです。
翌年、長男の季隆氏によってこの墓が建立されたようです。
◆樋口季一郎 明治21年(1888年)8月20日 ‐ 昭和45年(1970年)10月11日
兵庫県淡路島の奥濱家(廻船問屋)に生まれ、岐阜、樋口家の養子となる。
陸軍士官学校・陸軍大学校を経て、ウラジオストック、ハバロフスクの特務機関に勤務した。
昭和12年(1937年)ハルビン特務機関長となる。昭和13年(1938年)にナチスのユダヤ人
狩りからポーランドに逃れてきた多くの凍えるユダヤ難民を人道上満州へ入国させるため
時の関東軍司令官・東條英機、満鉄総裁・松岡洋右を説得して実現させたのである。
その難民たちの8割は大連、上海経由で米国へ渡り、残り2割は開拓農民として満州に留まった。
昭和17年(1942年)北方軍司令官に着任。孤立していたキスカ島の撤退を敢行、6千人近くの
救出に成功した。昭和20年(1945年)8月15日敗戦後、武装解除、撤退命令が出ていたが、
ソ連軍が南樺太、千島列島の占守(しむしゅ)島に侵攻してきたので、断固反撃を全軍に
命令してソ連軍を撃退した。戦後、ソ連のスターリンは樋口を戦犯に指名したが、ニューヨーク
に本部を置く世界ユダヤ人協会は「オトポールの恩返し」として樋口救済運動をお越し、
マッカーサー元帥を動かして戦犯にさせなかった。樋口季一郎の名は、イスラエル国の
ユダヤ人の恩人の顕彰碑である「ゴールデンブック」に〝偉大なる人道主義者・ゼネラル樋口〟
と刻まれている。終戦後は北海道小樽市、宮崎県小林市(都城市)、世田谷などに住んだが
昭和34年頃から数年大磯町に住み、毎日の散歩コースの妙大寺が大変気に気に入りで、
生前岐阜にあった墓を当寺に移し菩提寺とした。
樋口将軍が大磯に住んでいた頃、「あかつき戦闘隊」の原作者・相良俊輔氏が
取材のため初めて樋口将軍に会った時、「私は、アッツ島で、山崎大佐と二千六百人の
部下を玉砕させた。山崎大佐に死んでくれ、と命じたのは、この私なのだよ」と言ったそうです。
それ以降、深い親交を結ぶようになり、樋口季一郎を主人公にした物語である
「流氷の海 ある軍司令官の決断」を執筆しました。その相良俊輔の墓も当寺にあります。
◆妙大寺周辺マップ
<参考文献>
・現地説明看板
・歴史の町 大磯
・相良俊輔著書「流氷の海 ある軍司令官の決断」
・ウィキペディア