前回のブログで〝江戸五色不動〟の3つ目の
「目黄不動」を祀る『最勝寺』を紹介しましたが、
目黄不動は、『最勝寺』の他にも『永久寺』があります。
また近年、『龍巌寺』も名乗りをあげています。
永久寺の最寄り駅は、東京メトロ日比谷線三ノ輪駅から徒歩1分、
交通量の多い昭和通り(日光街道)と明治通り、この2つの道路の交差する
大関横丁の交差点のすぐ近くにあります。
外観はお寺のように見えないので見過ごしてしまいそうでした。
◆養光山金錍院永久寺(通称:目黄不動尊)
東京都台東区三ノ輪2-14-5
山号・・・養光山
宗派・・・天台宗
創建・・・南北朝時代
本尊・・・阿弥陀如来
【由来】
当寺の創建は14世紀の南北朝騒乱の頃とされています。
当初は真言宗の寺院で名称も唯識院と呼ばれていたようです。
このことは当寺の板碑に書かれていましたが、
板碑のいたみが激しくそれ以上詳しいことが判読できない状態でした。
その後、幾度か戦乱によって焼失し、再建を繰り返してきました。
高僧の道安和尚によって諸堂伽藍が整備され、名も白岩寺と改められ、
禅閣として隆興を極めました。また、寺院名も大乗坊さらに蓮台寺と変遷を重ね、
宗旨も真言宗から禅宗、そして日蓮宗と移り変わってきました。
江戸時代に入って、出羽の羽黒山の圭海という行者によって天台宗の寺院となりました。
さらに寛文年間、幕臣・山野嘉右衛門、号して藤原の永久という方が、
諸堂を再建し、境内も拡張・整備され、名を永久寺と改められ、中興の祖となりました。
寛永年間の中頃、東海道など五街道が整備されますと、街道の道中安全を
祈願することが幕府によって命じられました。その時、寛永寺の天海大僧正の発願
によって江戸府内の由緒ある古刹が五色不動として五街道沿いに定められました。
その際、南北朝以来の古刹であり、また日光街道に面した永久寺が目黄不動尊と
して指定されました。
門を入って左奥に目黄不動を祀る不動堂があります。
慈覚大師作と伝わる不動明王が祀られています。
◆不動堂
不動堂前にお墓も1基あり多くの戒名が刻まれていました。
本堂前に板碑が2つありましたが、損傷の激しい板碑とはこの碑のことなのでしょうか。
不動堂には「目黄不動尊」の扁額が掲げられていました。
◆不動堂 扁額
本堂もお寺っぽくない雰囲気で賽銭箱がなく参拝することができませんでした。
◆本堂
本堂と庫裏は一体となった建物で、奥にある窓口で御朱印をいただきました。
日光街道のところに永久寺があることが確認できます。
◆江戸切絵図 嘉永2年(1849年)-文久2年(1862年) 浅草
書き置きの御朱印をいただきました。
◆御朱印
◆永久寺案内マップ
〝目黄不動尊〟のもう1つが、神宮前にある『龍巌寺』です。
最寄り駅は東京メトロ銀座線外苑前駅から徒歩8分、
昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックに合わせて整備された
外苑西通り(キラー通り)から少し入った、日本オリンピックミュージアムの裏手にあります。
◆古碧山龍巌禅寺
東京都渋谷区神宮前2-3-8
山号・・・古碧山
宗派・・・臨済宗南禅寺派
創建・・・寛永7年(1630年)
開山・・・喚室
本尊・・・釈迦如来
【由来】
もとは名主・半右衛門の屋敷があり、喚室を開山に迎えて寛永7年(1630年)
創建したと伝えられています。
境内には大師堂があり、熊野神社の別当浄性院が神仏分離令により廃寺と
なったことから移したもので、堂内に安置されている不動尊を目黄不動と呼ばれ、
府内八十八ヶ所霊場九番の札所となっています。
◆山門
山門の入口に「檀信徒以外の出入りをお断り申す」とあったので
境内に入るのをやめました。
山門を入って右手の奥に、八幡太郎義家が腰を掛けたと伝えられる腰掛石があります。
義家は、この寺の天満宮で出陣の連句をやって社前に奉納したことがあり、
この天満宮は俗に句寄(くよせ)の天神と呼ばれています。
龍巌寺の山門前にある緩い坂は勢揃坂と呼ばれ、後三年の役に出征する
八幡太郎義家(源義家)の軍勢が、この場所で軍勢を揃えて進軍したことが
坂名の由来となっています。
◆勢揃坂
◆勢揃坂の説明板
◆江戸切絵図 嘉永2年(1849年)-文久2年(1862年) 青山
かつては「笠松」または「円座の松」と呼ばれた松の銘木があり、江戸名所図会にも
取り上げられるほどの名所でしたが、その後、枯れてしまいこの松は現存していません。
◆江戸名所図会 龍巌寺
◆龍巌寺案内マップ
<参考文献>
・現地説明看板およびパンフレット
・天台宗東京教区ホームページ
・国立国会図書館デジタルコレクション
・ウィキペディア