先月〝富士山と桜〟を観に、富士宮市にある富士山浅間大社を参拝したとき、

富士五山の一つである『西山本門寺』を訪れました。

この寺を訪れた目的が、京都の本能寺で自刃した織田信長の首を

納めたと伝えられる首塚があるからです。

 

不思議なのは、京都から400キロ近くも離れた富士山の麓に、

なぜ信長の首塚があるのでしょうか?

それを自分の目で確かめるために西山本門寺へやって来ました!

 

当寺の入口である黒門から自然に包まれた参道を歩いて約20分で本堂に達しますが、

私は車で鬱蒼と茂る杉林の中の道を進み本堂のすぐ傍まで行きました。

◆妙円坊大門からの参道

◆西山 本門寺

静岡県富士宮市西山671

●山号・・・富士山

●宗派・・・単立

●寺格・・・本山

●創建・・・康永3年(1334年)

●開山・・・日代上人

●本尊・・・十戒曼荼羅

西山本門寺は康永3年(1344年)、日蓮の高弟で六老僧一人である日興上人

(白蓮阿闍梨)の高弟・日代上人(蔵人阿闍梨)が開山した寺院です。

日代上人の師・日興上人が正応3年(1290年)大石寺を開き、更に永仁6年(1298年)

重須に本門寺(北山本門寺)を開山しました。

日代上人が西山に本門寺を開山したため北山と西山に本門寺が両立することになりました。

紆余曲折を経て、天正年間には、当地で最大勢力を誇っていた武田勝頼の庇護を

受けていた西山本門寺も、天正10年の武田家滅亡後は、徳川家康から諸疫免除の

朱印を与えられ、徳川家の庇護を受けるようになりました。

本門寺には、後水尾天皇と皇后の位牌が納めされています。

位牌を安置したのは天皇の皇女常子内親王です。

常子は近衛基煕の夫人で、二人の間に生まれた娘(天英院)が徳川六代将軍家宣の

御台所となったために、本門寺は幕府から十万石の格式を付与されました。

江戸時代には七堂伽藍を完備した駿河屈指の名刹も、安政の大地震で大きな被害を

受け、現在は客殿(本殿)と鐘楼などを残すのみとなっています。

 

日興上人の法派を継承し、勝劣派、富士門流に属し、上条大石寺、重須本門寺、

下条妙蓮寺、小泉久遠寺とともに同門流の「富士五山」を構成し、さらに、

京都要法寺、伊豆実成寺、保田妙本寺とあわせて「興門八本山」の一つにも

数えられています。

境内は全体で約三万五千坪の広大な敷地があります。

 

西山本門寺の末寺、大詮坊は古来、「代官席」としての格式ある要職を占め、

大詮坊のみ山門建立が認められたそうです。

◆代官門

安政2年の大震災により代官門は失われましたが、

平成14年、唯一残っていた礎石を使用し再建されました。

大詮坊は、武田家出身の西山本門寺第十三代日春上人によって

永禄8年(1565年)に開創されました。

御朱印は当坊で戴けるとのことですが、

この日は残念ながらご住職がご不在の為、いただけませんでした。

◆大詮坊

盛時は30余坊を数えましたが、現在は浄圓坊・大詮坊・妙圓坊の3坊のみとなり、

塔中の奥には鐘楼と本堂があります。

立派な鐘楼には、寛永21年(1644年)に鋳造された梵鐘があります。

◆鐘楼

参道の正面に本堂(旧客殿)が見えます。

◆本堂

◆水屋 奥は本堂

◆大銀杏

◆本堂(旧客殿)

 

◆本堂 扁額

◆本堂(南東側から)

◆尊霊殿

◆境内

◆本堂(南西側から)

「信長公首塚」の案内板がありました。

「信長公の首塚」は庫裡の裏手にあるようです。

寺伝によると、18世日順の父である原志摩守宗安は、本因坊日海(本因坊算砂)

の指示により、本能寺で自刃した織田信長の首を当寺まで持ち帰り、

柊(ヒイラギ)を植え首塚に葬ったと伝えられています。

◆首塚へと続く小路

◆庫裏の裏手

◆大柊と首塚の由来

池の北側に信長の首塚があり、塚の上には樹齢約450年と推定される

大柊(ヒイラギ)が茂っています。

 

 

首塚に立つ大柊の分身(二代目)です。

首塚は高さ約5m、底部の幅は約12mほどで、信長の御首は、この3m下に

埋まっているそうです。柊を植えたのは、人が近寄らないようにするためだそうです。

◆信長公の首塚と大柊(ヒイラギ)

◆信長公首塚碑と御宝蔵

◆御宝蔵

◆御宝蔵

御宝蔵前からの景色です。右手に首塚と大柊があり、正面に見えるのが庫裡です。

織田信長の末裔にあたると自称されている織田信成氏が、

信長公の没後四百二十一回忌に記念植樹した大柊の二代目。

 

昨年暮れ「織田信長の墓」を周ったブログです。

◆西山本門寺と織田信長公首塚の云われ

寺伝によれば、「本能寺の変」当日、信長の供をしていた原志摩守宗安が、

本因坊算砂(日海上人)の指示によりこの寺に運んで供養したと伝えられています。

変の前夜に信長が算砂と鹿塩利賢に囲碁の対局をさせたことは良く知られていますが、

算砂は翌朝まで本能寺に留まり、戦乱に巻き込まれたと思われます。

そして信長の死を知り、旧知の原宗安に首を西山本門寺まで運ぶように命じたと

伝えられています。

二人にとってこの寺が馴染み深いものであったことは、算砂が後に本門寺の境内に

本因坊と云う坊舎を作って住んでいたことや、原宗安の子日順を弟子とし、

当寺の第18代上人としていることからも伺えます。

この日順上人こそ、常子内親王に働きかけ後水尾天皇夫妻の位牌を安置させた

張本人になります。

当寺には日順の自筆過去帳があり、

それには「天正十年六月、惣見院信長、為明智被誅」と記されています。

誅するとは、一般的には上位の者が罪ある者を成敗する場合に用いる言葉です。

日順上人は慶長7年(1602年)の生まれなので変の当事者ではありませんが、

師の算砂から事情はつぶさに聞いていたはずと思われます。

本能寺の変は、明智光秀が単独で織田信長を討ったのではなく、

朝廷の命を受けて事を起こしたと考えられます。

そうでなければ、主君を討った行為を誅すると表現するはずはありません。

 

◆後水尾天皇の位牌と信長公首塚について

西山本門寺に後水尾天皇の位牌が納められたことと、

信長の首塚とは密接な関係があると伝えられています。

当寺に後水尾天皇の位牌が納められたのは延宝6年(1678年)11月のことです。

日順上人は京都で布教し、寛文年間に京・大坂に末寺を建立し、第108代後水尾

天皇の息女常子内親王の御帰依を受け、御父君の後水尾天皇と御母君の新広義

門院の両尊牌を造立し、当寺に納められました。

後水尾天皇の第十六皇女であった常子は、異母兄の後西天皇と親しかったようです。

ところが後西天皇は万治3年(1660年)に起こった伊達騒動への関与を疑われて

皇位を追われ、跡を継いだのは僅か十歳の弟霊元天皇です。

この霊元天皇は幕府の傀儡に近い存在だったことから、後西天皇と親しかった

常子や夫の近衛基煕を冷遇しました。

失意の常子は、近衛家に出入りしていた日順上人に我身の不幸を訴え、

不幸の因縁を断ち切る方法を問いました。

日順の師本因坊算砂は囲碁をもって朝廷に出入りしていたので、近衛家とも親しく

常子が日順に帰依したのも、そうした縁があったからだろうと思われます。

常子の相談を受けた日順は、朝廷と近衛家の不幸の原因は信長の祟りだと

喝破しました。

信長の祟りを封じるためには、丁寧に御霊を祀るしかないものの、

常子の立場としては公に供養するわけにはいきませんでした。

そのようなことをすれば、信長を謀殺したのは朝廷と近衛家だと云うことを

天下に公言するも同じことになります。

 

常子は、亡くなった母の菩提を弔うため西山本門寺に位牌を納めることにしました。

寺伝が云うように父帝の位牌も同時に納めたのなら、

後水尾天皇は逆修(生前に仏事を行うこと)したことになります。

信長謀殺に朝廷が関わっていたと知ったことが、後水尾天皇にそのような決断を

させたのではないかと云われています。

信長の首塚に植えられている柊は、古代密教で呪いを意味する不吉な木とされて

います。

その柊をあえて植えたのは、人が近寄ることを避けるためばかりではなく、

信長の怨霊を封じ込めようと云う意図があったのかもしれません。

 

江戸時代には徳川家の外護を受け、西は芝川、東は三沢川の間、百数十町歩の

領域に、祖師、本尊、天王の三堂をはじめとし、楼門、鐘楼、鼓楼、経蔵、五重塔、

客殿、大庫裡、中庫裡、小庫裡、中門等、七堂伽藍が完備し、塔中三十坊が並び

駿河屈指の名刹となったのも、神仏好きな家康と徳川家の宗教顧問である天海が

信長の首塚を祀る西山本門寺を無視するはずはないと思っていました。

日本最大のパワースポットである富士山の麓に信長の御首が眠っていると思うと

何か特別な理由が他にもあると思えてしかたがありません。

 

黒門をくぐり本堂へと向かわなかったので、この景色を見ていないのが残念でした。

◆本山 本門寺のリーフレット

 

<参考文献>

・現地説明看板およびリーフレット

・富士宮市公式ホームページ

・安部龍太郎著書「信長はなぜ葬られたのか」

・WEB 歴史街道/楠戸義昭

・ウィキペディア