今回は 『鉄舟寺』を訪れたブログです。

久能山東照宮から日本平へロープウェイで往復した時、

片道5分間〝これぞプロ〟という観光ガイドを聞きました。

しかも往復で内容が全く違うガイド内容でした。

久能山の由来、久能寺、久能山東照宮などについてです。

 

もとは久能山東照宮の鎮座する久能山の山頂に『久能寺』があり、

武田信玄によって現在の地へ移され、江戸時代末期までに荒廃したものを

山岡鉄舟が再興し『鉄舟寺』となったことを聞き、

まったく予定に入れてなかった『鉄舟寺』を訪れました。

◆鉄舟寺

静岡県静岡市清水区村松2188

●山号・・・補陀落山

●宗旨・・・臨済宗

●宗派・・・妙心寺派

●本尊・・・千手観音菩薩

飛鳥時代に久能忠仁が、現在の久能山東照宮が鎮座する地に建立したお堂を

奈良時代に行基が「補陀落山久能寺」と号し伽藍を整備し、静岡茶の始祖といわれる

円爾(聖一国師)など多くの名僧が往来しました。

平安時代に入って建穂寺と駿河を二分するほどの隆盛を極めましたが

嘉禄年間(1225年頃)山麓の失火によって類焼し、昔の面影はなくなりました。

永禄11年(1568年)に武田信玄が駿河に侵攻すると、久能山が要害の地であることから

信玄による久能城の築城のため現在地に移されました。

江戸時代後期あたりから衰弱し、世が改まり明治御一新となると住職もない廃寺と

なってしまいました。

 

明治16年(1883年)、旧幕臣で〝幕末の三舟〟として有名な山岡鉄舟はこれを惜しみ

再興しようと発願し、臨済宗から今川貞山を招いて開山とし、

広く寄進を募ることとなりましたが、鉄舟は明治21年7月に53歳でこの世を去り、

鉄舟寺の完成を見ることが出来ませんでした。

鉄舟の意志を、信仰の篤い清水の魚商・芝野栄七や清水次郎長(明治26年没)が引き継ぎ

幾多の困難を乗り越えて明治43年(1911年)3月、名刹久能寺は遂に完成し、蘇りました。

久能寺は山岡鉄舟の功績を称えて鉄舟寺と改められました。

 

◆仁王門

両側に仁王像が安置されています。

仁王門の「補陀落山」の扁額。

仁王門をくぐると、正面の山門石段下の両側にみがわり観音(左)、文殊地蔵(右)が

安置されています。

◆村上静雄の句碑

◆文殊地蔵

◆みがわり観音

階段上にある山門は閉じられ、境内へ入ることが出来ませんでした。

◆山門

閉じている山門の脇からさらに登ると康平5年(1062年)に勧請された熊野十二社が

鎮座しています。

◆熊野十二社

せっかく鉄舟寺を訪れましたが、境内へ通じる山門や入口が閉まっており

外からその佇まいを見るだけになるだろうと半ば諦めていたところ

庫裏(寺務所)へと続く道を見つけました。

◆寺務所

◆全国送電線路工事殉職者慰霊の碑

正面が宝仏殿、右側が本堂になります。

◆本堂

◆本堂の扁額

本堂前に鉄舟の歌碑が建っています。

「晴れてよし曇りてもよし不二の山 もとの姿ははからさりけり」

◆原爆慰霊碑

◆刷毛塚

◆鐘楼

 

左から山岡鉄舟座像、山岡鉄舟の墓、月庵老師の墓

◆山岡鉄舟座像と年譜

  

清水次郎長も鉄舟寺の再建に大いに尽力することとなり、

人夫等を繰り出したり、土工を監督したり、伊豆国から船で巨石を取り運んだりしています。

◆宝仏殿

寺務所で御朱印をお願いすると、ご年配の女性が本堂を案内してくれました。

ご本尊の千手観音像(行基作)までご案内して戴き、すぐ前でお参りすることが出来ました♪

また色々な部屋を説明しながら案内して戴き、皇太子殿下や与謝野晶子、川端康成らが

来訪された写真を見せて戴きました。

鉄舟寺には、貴重な文化財が多数所蔵されているとのことです。

現在最古の一品経とされる国宝の法華経19巻(現在は東京国立博物館に寄託)を

所蔵されていたり、源義経が牛若丸と云われた頃の龍笛が所蔵されているそうです。

この笛は鉄舟寺が久能寺と云われた時代に義経より寄進されたと伝わっているそうです。

下の肖像画をもとに境内にある鉄舟座像が造られたそうです。

鉄舟寺には鉄舟の書いた書が数多く所蔵され、あちこちらに掲げられています。

鉄舟は募金のために沢山の書を揮毫して清水次郎長に与え、次郎長は大いに奔走します。

この時、次郎長のために書いた募金趣意書が、鉄舟の手控帳の中に記されています。

「鉄舟時庫裏建立墓縁山本長五郎簿」

寺を建てても何もならぬ。親を大事にしてもなんにもならぬ。

わが身を大事にしてもなんにもならぬ。なんいもならぬところを能く能く観ずれば、

又、何かあらん。山本長五郎御往時を考えここに尽力することあり、

諸君なんにもならぬ事を諒察あらば多少の喜捨あるも又、

なんにもならぬ何かあるの一時也

明治二十一年二月  山岡鉄舟しるす

◆鉄舟書の屏風

◆御朱印

◆鉄舟寺周辺マップ

◆山岡鉄舟

天保7年(1836年)、江戸本所で小野朝右衛門高福の四男として生まれました。

母は塚原磯(常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の娘、先祖に塚原卜伝)。

剣・禅・書の達人として知られています。

家が武芸を重んじる家だったため武術に天賦の才能を示し、

一刀正伝刀流(無刀流)の開祖となりました。

幕臣として、清川八郎と共に浪士隊を結成、

江戸城総攻撃のため官軍が東征する中、15代将軍・徳川慶喜の命を受け、

単身で駿府まで進軍してきた官軍の大本営に赴き、官軍が警備する中を

「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行したと云い、

総参謀・西郷隆盛に面談し、江戸城無血開城の道を開きました。

後に西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような

人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と称賛させたと云われます。

明治維新後は、徳川家達(徳川家16代当主)に従い駿府に下りました。

静岡藩藩政補翼となり清水次郎長と意気投合、「壮士墓」を揮毫して与えました。

西郷の依頼により、明治5年(1872年)から10年間の約束で侍従として明治天皇に

仕えました。

明治21年(1888年)7月19日、皇居に向かって結跏趺坐(ヨガの蓮華座)のまま絶命。

死因は胃癌であったと云います。享年53。

山岡鉄舟が死去し、谷中全生庵で行われた葬儀には、清水次郎長一家で参列しています。

◆山岡鉄舟の墓(全生庵)

◆全生庵

東京都台東区谷中5-4-7

山岡鉄舟が幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために創建を発願。

国泰寺から越叟義格(松尾義格)を開山に招聘して

明治16年(1883年)に創建さた寺院です。

山号は普門山、臨済宗国泰寺派、本尊は葵正観世音菩薩。

<参考文献>

・鉄舟寺公式ホームページ

・現地説明看板およびパンフレット

・ウィキペディア