浦賀といえば、

幕末の嘉永6年(1853年)7月、アメリカ海軍のペリー提督率いる東インド艦隊の4隻が

東京湾の入口にあたる浦賀沖に現れた〝黒船の来航〟で有名です。

今回は『中島三郎助と浦賀』についてのブログです。

 

ペリー来航時、中島三郎助は浦賀奉行所与力でしたが、ペリー側に乗船を拒否されると

機転をきかして自分を副奉行と偽って、日本人として初めて黒船に乗り込み、

アメリカ側と交渉に当たった人物です。

その後、日本初の大型洋式軍艦「鳳凰丸」建造に尽力したり、

勝海舟たちと長崎海軍伝習所一期生として学ぶなど活躍しました。

幕府崩壊後は、榎本武揚とともに箱館戦争に参加しますが、

明治2年(1869年)5月、千代ヶ岡陣屋で戦死してしまいます。

 

浦賀奉行所は享保5年(1720年)、下田から移され、幕末までの約150年間

江戸湾(東京湾)の船舶監視や外国船からの警備などを担っていました。

現在、更地となっている浦賀奉行所の跡地は、昨年11月27日に住友重機械工業から

横須賀市へ寄付されたとニュースで知りました。

◆浦賀奉行所跡

神奈川県横須賀市西浦賀5-17-2

地元では、奉行所開設300年の節目に合わせ、

当時の奉行所の復元を求める動きも出ているそうです。

◆浦賀奉行所跡

現在では、奉行所を取り囲む塀の石垣があるだけで、

当時の様子を偲ぶことは難しくなっています。

明治24年(1891年)、中島三郎助の23回忌にあたり、彼を追慕する地元の有志によって

中島三郎助招魂碑が浦賀港を見渡す愛宕山公園に建立されました。

愛宕山公園は、招魂碑が建てられる際に開園した市内で一番古い公園です。

◆愛宕山公園(浦賀園)

神奈川県横須賀市西浦賀1-9

公園から浦賀港が一望できます。

碑の篆額(てんがく)題字は榎本武揚(箱館政権下・総裁)によって書かれました。

この碑の除幕式の席で、かつて箱館戦争のときの同志であった荒井郁之助(箱館政権下

・海軍奉行)が「中島三郎助のために浦賀に造船所を造ったらどうか」と提唱し、

榎本武揚は即座に賛成して地元の有力者に働きかけ、

明治30年(1897年)浦賀船渠株式会社が創設されました。

中島三郎助を〝近代造船の父〟と慕い、彼の業績を偲ぶ人々の手によって、

浦賀は、日本を代表する造船の町として新たなスタートを切ることになりました。

◆中島三郎助招魂碑

 

与謝野鉄幹と晶子夫妻の歌碑も立っています。

港側からは愛宕山公園の入口がわからず車で迷いながらも反対側から登って来ました。

道はかなり狭く、雑草も伸び放題だったのが、少し寂しく感じました。

愛宕山公園のある愛宕山からは浦賀水道、房総半島が一望できます。

その愛宕山に、坂本龍馬像(高さ20m)建設予定地の看板が雑草の中に立っていました。

なぜ横須賀の浦賀に龍馬像なのか、私には理解が出来ませんでした。

横須賀に像を建てるなら小栗上野介、浦賀になら中島三郎助だと思うのですが・・・。

浦賀警察署とドラッグストアーの間に「大衆帰本塚の碑」が建っています。

この碑は、元治元年(1864年)に建てられたもので、

この地が開発される以前の様子と無縁仏を供養する思いなどが記されています。

◆大衆帰本塚の碑

神奈川県横須賀市浦賀町5-1-1

篆額は江戸時代後期の国学者・大畑春国が書き、

碑文には浦賀奉行所与力・中島三郎助の文章と筆跡がそのまま刻まれています。

  

ペリーの帰国後、中島三郎助は老中・阿部正弘に提出した意見書で

軍艦の建造と蒸気船を含む艦隊の設置を主張しています。

後に江戸幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置し、直ちに軍艦の建造を始め、7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造しました。

しかし小栗忠順(上野介)らにより、横須賀港に製鉄所(後の横須賀造船所、横須賀海軍

工廠)が建設され、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は明治9年(1876年)に

閉鎖されました。

 

京浜急行浦賀駅の階段を下ると、巨大な建物が海側の道路沿いに続いています。

一世紀以上に渡って約1000隻にのぼる艦船を造り続けてきた浦賀ドックの跡地です。

◆浦賀船渠跡(通称:浦賀ドック跡)

 

また安政6年(1859年)には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸の

整備が行われ、万延元年(1860年)に咸臨丸がここから出港して太平洋を横断しました。

◆浦賀港

明治27年(1894年)に中島三郎助の意志を継ぎ、荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が

中心となり、明治30年(1897年)に浦賀船渠株式会社が設立され、

かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設されました。

昭和44年(1969年)に住友機械工業と合併し住友重機械工業浦賀造船所となりますが、

平成15年(2003年)に閉鎖されるまで、日本丸や海王丸をはじめ、青函連絡船、大型

タンカー、自動車運搬船、護衛艦などの艦船がこの浦賀ドックで建造されました。

  

◆明治43年(1910年)の浦賀の様子

◆浦賀周辺マップ

ここからの画像は、2年前に土方歳三の足跡をたどり函館を周ったときのものです。

 

戊辰戦争の箱館戦争の時、箱館政権下(旧幕府脱走軍)の三大軍事施設と云えば

五稜郭、弁天台場、そして千代ヶ岡陣屋です。

◆千代ヶ岡陣屋跡(現在の千代台公園野球場)

 

明治元年(1868年)の旧幕府軍による箱館占領後、陣屋は若干手を加えられますが

明治2年(1869年)5月11日、新政府軍による箱館総攻撃が開始され、

土方歳三が一本木関門で戦死、中島三郎助率いる千代ヶ岡陣屋は砲隊の他、

伝習士官隊、小彰義隊、陸軍隊、会津遊撃隊などが守備についていました。

現在、箱館戦争に散った中島父子に因んで、千代ヶ岡陣屋のあった付近が

中島町と命名されています。

そして中島町には「中島三郎助父子最後之地」碑が立っています。

近所の中島廉売商店街の人達や地域の有志の人々によって

毎日、この碑の管理・清掃を続けているそうです。

◆中島三郎助父子最後の地碑

北海道函館市中島町36-12

 

◆中島三郎助 ※中島登「戦友姿絵」から

◆中島三郎助父子

◆中島三郎助と幕末

文政4年(1821年)に浦賀奉行所の与力・中島清司の次男として生まれた三郎助は、

幼少の頃から和歌、俳諧、漢詩文など父の教育を受け14歳で奉行所に出仕します。

槍術の宝蔵院高田流、剣術は天然理心流、北辰一刀流など武士としての槍術・剣術を備え、

特に砲術に関しては高島流砲術で、砲手、大筒鋳造、砲台建設に至るまでの専門技術を

備えたスペシャリストです。

 

天保8年(1837年)のモリソン号砲撃事件では「異国船打払令」に基づき砲撃を行った際、

砲手を務め、砲術の腕前を見せ褒美を受けています。

嘉永2年(1849年)、三郎助の父・清司が与力を退役し、三郎助は29歳でその後を継ぎます。

その後、イギリスのマリナー号が浦賀に来航した際、三郎助は艦長の許可を得て、

船大工達を同行させ、艦内を見学し、その構造を細かく見分しました。

嘉永6年(1853年)、ついにアメリカ海軍東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督率いる

4隻の軍艦が浦賀沖に来航しました。

三郎助は浦賀奉行所与力でしたが、ペリー側から幕府の相応の地位の役人が来ない限り、

一切の問答をしないと云う姿勢に、独断で「自分は副奉行である」と偽って通詞の堀達之助

と共に旗船サスケハナ号に乗船しました。その後、浦賀奉行・戸田氏栄ら重役に代わり、

香山栄左衛門と共にアメリカ側使者の対応を務めています。

当時のアメリカ側の記録でも、この時の三郎助は船体構造、搭載砲、蒸気機関を入念に

調査したことから、密偵のようだと記されています。

ペリー艦隊が去った後、三郎助は老中・阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と

蒸気船を含む艦隊の設置を主張。

これにより幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置しました。

嘉永7年(1854年)に完成した日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の製造掛の中心として活躍し、

完成後はその副将に任命されました。

奉行所の与力でありながら、造船技術者、海防問題の専門家として三郎助は既に著名な

存在であったため、吉田松陰と宮部鼎蔵の訪問を受け海防について教授したり、

長州藩士の桂小五郎(後の木戸孝允)も、中島家に寄宿し造船学を学んでいます。

 

日米和親条約が締結された時点から、幕府は海軍の創設に着手し、安政2年(1855年)

幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、造船学・機関学・航海術を

修めました。

安政5年(1858年)に築地軍艦操練所教授方出役に任ぜられ、安政6年(1859年)に

日本初のドライドックを浦賀に建造(現在は住友重機械工業の敷地内)し、

そこで咸臨丸の修理を行いました。

この後、三郎助は軍艦頭取手伝から軍艦頭取に昇進し、同時に家格も御家人から旗本へと

昇格しますが病身のため、慶応2年(1866年)三郎助は46歳でそれらの役職を辞し、家督を

長男・恒太郎に譲り隠居しました。

慶応3年(1867年)、オランダで建造されていた幕府の新鋭艦開陽丸が、

長崎海軍伝習所で二期生として学んだ榎本武揚とともに帰国しました。

開陽丸は、この当時のアジアでは間違いなく最大最強の軍艦でした。

幕府はこの開陽丸の配備をもって艦隊を編成し、正式に徳川海軍となり、三郎助に対して

再奉仕を命じられ、三郎助は再び徳川海軍に戻り、徳川海軍の士官となりました。

この時期、尊王攘夷の嵐が吹きすさび、15代将軍・徳川慶喜は大政奉還をしますが、

その後、薩摩・長州両藩が中心となって出させた「王政復古の大号令」により、

幕府廃止と新政府の樹立を宣言。

慶応4年(1868年)1月、それを潔しとしない旧幕府軍が薩摩・長州勢と鳥羽・伏見で激突し、

戊辰戦争が勃発すると、同年8月、榎本武揚は薩長中心の政治に不満を抱く旧幕府軍

約2,000人を8隻の艦船に分乗させて、江戸・品川沖を脱走しました。

この時、三郎助は浦賀奉行所の与力であった二人の息子・恒太郎と英次郎、かつて浦賀

奉行所で三郎助の配下であった者達と共に開陽丸に乗り込み、この脱走に参加しました。

榎本は総司令官を務め、開陽丸艦長には澤太郎左衛門、三郎助は機関長を務めました。

この脱走に当たって、三郎助は出陣と決意を以下のように記しています。

『慶応四辰年 将軍辞職ノ挙二乗シ 王側ノ好悪恐多クモ冤罪ヲ負ハシム。此二於テ

北軍同盟ノ諸侯公会ヲ助テ義兵ヲ起シ 実二天下騒乱 戦国ノ世トナル。因テ三郎助

恒太郎 英次郎三人 主家報恩ノ為二出陣スル也』

この並々ならぬ決意から見ても、三郎助は再び生きて浦賀の地を踏むことはあるまいと

覚悟を決めていたと思われます。

同年8月末に仙台藩内の松島に寄港し、奥羽列藩同盟が崩壊して行き場を失った

大鳥圭介や土方歳三などの旧幕府脱走兵を艦隊に収容、蝦夷地(北海道)へ渡海し

箱館戦争に至ります。

旧幕府軍は箱館および五稜郭などの拠点を占領し、事実上の箱館政権を成立させました。

(通称、蝦夷共和国または榎本政権)

しかし、旧幕府軍は松前、江差などを占領する際に軍事力の要となる開陽丸を悪天候で

座礁沈没させてしまい、その後の戦局に重大な影響を及ぼすことになります。

三郎助は、箱館政権下では平時においては箱館奉行並、戦時においては軍艦頭並、

砲兵頭並を務め、息子や浦賀奉行所の面々と本陣前衛の千代ヶ岡陣屋に布陣し、

陣屋隊長として戦いに備えました。

年が明けて明治2年(1869年)、新政府軍の攻撃が伝えられ、死を覚悟した三郎助は

妻子に別離の便りを出しています。

『我等事、多年の病身にて若死いたすへきの処、はからすも四十九年の星霜を経しは

天幸といふへきか。こたびいよ決戦、いさぎよくうち死と覚悟いたし候。与會八(三男・三歳)

成長の後ハ、我が微意をつぎて、徳川家至大の御恩澤を忘却いたさず、往年忠勤をとぐ

べき事頼入候

明治二年三月三日  中島三郎助 永胤

お寿々殿  与會八殿(以下娘三人の名略)』

この年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が始まり、土方歳三は一本木関門で戦死、

千代ヶ岡陣屋も攻撃を受けて三郎助は腹部に敵弾を受けました。

腹部に被弾した三郎助は、病院に入るよう周囲から勧められますが、「この地は我が

埋骨の地なりと早くに定めておる」として頑としてそれを受け入れず戦い続けました。

5月15日に新撰組が守っていた弁天台場も降伏し、残るは五稜郭と千代ヶ岡陣屋だけと

なりました。

榎本は、千代ヶ岡陣屋から将兵を全員五稜郭に引き揚げることを決めましたが、三郎助は

これを拒否し、徹底抗戦を主張して千代ヶ岡陣屋に留まりました。榎本は、千代ヶ岡守備隊

全員の討ち死にを心配し、三郎助の息子のうち一人だけでも五稜郭へ入れようとしますが

父子三人にきっぱり拒絶されたと伝えられています。

5月16日早朝、新政府軍が千代ヶ岡陣屋を襲撃しました。

三郎助は砲隊50数名と共に激しい戦闘を展開します。

三郎助は自ら大砲を操作して敵を攻撃しますが、新政府軍の猛攻は止まらず、

目の前まで迫って来ます。三郎助は意を決し白兵の接戦に出ることにし、

長男・恒太郎(22歳)、次男・英次郎(19歳)と共に刀を抜いて敵部隊に突入し、

壮絶な最期を遂げたと伝えられています。こうして千代ヶ岡陣屋は落ちました。

その翌日、榎本は降伏勧告を受け入れ、5月18日に五稜郭を明け渡し、

戊辰戦争最後の箱館戦争は終焉を告げました。

現在、中島三郎助父子は浦賀にある菩提寺の東林寺に眠っています。

 

中島三郎助は、幕末の始まり「黒船の来航」と幕末の終わり「箱館戦争」の激動の時代に

その最前線で立ち会った人物です。

世界情勢にも明るく、日本の造船の先駆者でもある彼が、父子揃って勝ち目のない戦いに

赴いた理由は何だったのでしょうか?

彼を師と仰いでいた木戸孝允(桂小五郎)は、いたくその死を惜しんだそうです。

残されている「主家(徳川家)報恩ノ為二出陣スル也」と云う文章からは、

「ひたすら徳川家のために戦う」という強い意志が読み取れます。

 

旧幕府軍において、土方歳三や榎本武揚などと比べると知名度はイマイチ低いですが

箱館で壮絶な最期を遂げた土方歳三と共に、己の信義に殉じ、死して義を貫く、

彼も本物の「幕府侍」であり、まさに『ラストサムライ』です!

彼が表舞台から退場して〝幕末〟と云う時代が終わったことにより、

彼もまた、日本の近代化に殉じた熱き漢の一人でした。

 

<参考文献>

・横須賀市ホームページ

・現地説明看板

・函館博物館展示品

・西野神社社務日誌

・合田一道「義を貫いた中島三郎助」

・ウィキペディア