日を改めて、増上寺に再訪問しました。

今回の目的は、もちろん徳川将軍家墓所への拝観です!

偶然、昨日上野寛永寺からも「徳川将軍御霊廟」の特別参拝に関する連絡がありました♪

先日から徳川家つながりでご縁を感じます。

平成27年4月2日より「徳川将軍家墓所」の特別拝観を実施しています。

◆徳川将軍家墓所 鋳抜門

徳川将軍家墓所の鋳抜門の両側に並ぶ石燈籠、上野東照宮で見た石燈籠に似ています。

鋳抜門は旧国宝で、もとは文昭院殿霊廟(6代将軍徳川家宣)の宝塔前「中門」でした。

左右の扉に5個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています(青銅製)。

◆徳川将軍家墓所 入口

埋葬されているのは、2代将軍秀忠、5代将軍綱重、6代将軍家宣、7代将軍家継、

9代将軍家重、12代将軍家慶、14代将軍家茂の6人の将軍です。

女性では将軍正室として2代秀忠夫人崇源院(お江)、6代家宣夫人天英院(近衛熙子)、

11代家斉夫人広大院(寧姫)、13代家定夫人天親院(鷹司任子)、14代家茂夫人静寛院

(皇女和宮)の5人、将軍の側室としては3代将軍家光の桂昌院(お玉)、6代将軍家宣の

月光院(喜世)など5人、その他、将軍の子女を含む計38人です。


◆徳川将軍家墓所 内部

正面右側に2代将軍秀忠の墓所があります。

焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでした。しかし、惜しくも木造のため、

空襲で焼失してしまいました。現在は、正室・崇源院と共に合祀されています。

◆右側が6代将軍家宣夫妻の墓(青銅製)、左側が2代将軍秀忠夫妻の墓(石塔)

◆台徳院殿(2代将軍徳川秀忠)、崇源院殿(お江の方)

徳川秀忠は、徳川家康の三男、母は西郷局(お愛の方)。

寛永9年(1632年)正月24日に薨去。54歳で逝去しました。

同年2月から増上寺本堂南側の南御霊屋に東を正面(現在のザ・プリンスパークタワー

東京の敷地)として、総奉行を土井利勝が務め、霊廟の建立が開始されました。

秀忠御正室のお江の方は、浅井長政の三女で、母はお市(織田信長の妹)で、所謂

浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉の側室、次姉・常高院(お初)は

京極高次の正室であることは有名です。

◆文昭院殿(6代将軍徳川家宣)

徳川家宣は、甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継(7代将軍)。3代将軍家光の孫にあたります。

正徳2年(1712年)10月14日に薨去。霊廟は増上寺境内北側(現在のプリンスホテル敷地)に設けられ、建立は同年12月から開始され、翌年の正徳3年(1713年)9月に完成しています。

昭和20年の太平洋戦争の空襲で大部分の建物が焼失してしまいました。

左側から7代将軍家継の墓(石塔)、9代将軍家重の墓(石塔)、12代将軍家慶の墓(石塔)

◆有章院殿(7代将軍徳川家継)

徳川家継は、6代将軍家宣の四男。母は側室でお喜代の方(月光院)。

父の逝去、兄二人の早世でわずか3歳にして七代将軍職を継ぎます。

正徳5年(1715年)皇女八十宮と婚約しますが、元来が病弱で実現を見ぬまま

翌正徳6年(1716年)に8歳で亡くなられました。

史上最年少で任官し、また史上最年少で死去した征夷大将軍です。

廟は文昭院殿廟に並んで造営されました。

◆惇信院殿(9代将軍徳川家重)

徳川家重は、8代将軍徳川吉宗の長男で、母は側室でお須磨の方(深徳院)。

生まれつき多病で、49歳で将軍職を譲り、宝暦11年(1761年)、51歳で逝去しました。

復元された容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようです。

◆慎徳院殿(12代将軍徳川家慶)

徳川家慶は、11代将軍徳川家斉の次男、母は香琳院(押田敏勝の娘)。

嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ(黒船来航)、幕閣がその対策に追われる中、6月22日に薨去。享年61

右側から14代将軍家茂の墓(石塔)、静寛院和宮の墓(青銅製)、将軍生母側室の

墓(石塔)。

静寛院宮の宝塔は当時のもので、実際、家茂と並んで祀られていました。
宝塔の形はご夫婦同じ物でしたが、家茂の石塔に対して青銅製です。

宝塔には菊のご紋が掘り出されています。

◆昭徳院殿(14代将軍徳川家茂)

徳川家茂は、13代将軍家定の従弟にあたり、将軍就任前は徳川御三家紀州藩第13代

藩主で、徳川斉順(清水徳川家および紀州徳川家の当主)の嫡男、母は松平晋の娘(みさ)。

世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が始まりましたが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院宮)を正室に迎えます。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、慶応2年(1866年)、家茂は長州征伐の途上、大坂城で病に倒れ、同年7月20日逝去しました。享年21。

◆静寛院宮(14代将軍御正室 皇女和宮)

仁孝天皇の第八皇女で、母は側室の橋本経子(観行院)。

異母兄の孝明天皇より和宮の名を賜わります。

6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していましたが、婚儀間近になって公武合体策に

よって降嫁しました。

家茂の死後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈変転厳しい時代のなか、明治10年

(1877年)9月2日、療養先の箱根塔ノ沢環翠楼にて31歳という短い生涯を閉じました。

塔ノ沢阿弥陀寺で通夜と密葬が行われました。

没後遺体は京都へ戻すよう沙汰がありましたが、本人の遺言にしたがい、

家茂と同列に並んで増上寺に祀られました。

 

家茂が第二次長州征伐のために上洛の際、「土産は何がよいか?」と問われた和宮様は、

西陣織を所望したと云います。しかし家茂は征長の最中に大坂城にて病没、西陣織は

形見として和宮様の元に届けられました。

和宮様は「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」の和歌を添え、

その西陣織を増上寺に奉納、のちに追善供養の際、袈裟として仕立てられたと云い、

これは〝空蝉の袈裟〟として現在まで伝わっています。

◆合祀塔

現在の合祀塔には、3代将軍家光の第三子で、家宣の実父である徳川綱重をはじめ、

家光側室で5代将軍綱吉の生母桂昌院、11代将軍家斉正室広大院、家宣側室月光院ら

南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や子女の多数が埋葬されています。
なお宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔が使われています。

◆旧徳川将軍家霊廟(御霊屋)

旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に

立ち並んでいました。

墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、その当時の最高の技術が駆使された

厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも戦前国宝に指定されていました。

昭和20年(1945年)、空襲でほとんどが焼失してしまいました。、焼失した御霊屋は

しばらくのあいだ荒廃にまかされていましたが、昭和33年(1958年)から文化財保護

委員会が中心となり、詳細なる学術調査が行なわれ、土葬であった御遺体は桐ヶ谷にて

荼毘に付され、南北に配していた墓所は一か所にまとめられ現在地に改葬されました。

調査によれば、埋葬は、地中かなり深い部分に頑丈な石室を設け御遺体を安置し、

二枚の巨石を蓋にして、その上に基檀と宝塔は安置されていたと云われています。

 

◆プリンスホテル

かつて北御霊屋のあったプリンスホテル。

◆台徳院殿(2代将軍秀忠)霊廟 惣門

入母屋造八脚門。芝公園内の「ザ・プリンスパークタワー東京」入口に建っています。

 

  

◆仁王像

旧台徳院霊廟(二代将軍徳川秀忠)の左右に安置されていた寄木造り、砥粉地彩色の仁王像です。本像は、18世紀前半頃に江戸の仏師によって制作されたものと推測されています。

仁王像はもと埼玉県川口市の西福寺にあったもので1948年に浅草寺に譲渡され、

さらに1958年頃に現在の惣門に移されたとのことです。

  

地下鉄御成門駅近くの東京プリンスホテル敷地内に、有章院殿霊廟の二天門(正門)と

御成門が建っています。

 

◆有章院殿霊廟 二天門

かつて増上寺北御霊屋にありました。現在は補修工事を行っていました。

  

かつては増上寺の裏門としてつくられましたが、将軍が参詣するときに使われていたので

「御成門(おなりもん)」と呼ばれるようになったと云います。

現在は、周りに雑草が生い茂りかなりの老朽化が目立ちます。

◆御成門

  

 

徳川将軍家墓所への拝観に際して記念品をいただきました。

記念品に入っていた絵葉書と増上寺境内図をご紹介します。

◆大日本東京芝三縁山増上寺境内全図

 

◆①大徳院殿(2代将軍秀忠)霊廟 惣門  ※旧国宝、現在は重要文化財

寛永9年(1632年)造営。大徳院殿霊廟の表門にあたり、奥に見える勅額門から本殿、

奥院へと続きます。戦災による焼失を逃れた数少ない建造物です。

◆②大徳院殿(2代将軍秀忠)奥院宝塔 ※旧国宝

寛永9年(1632年)造営。昭和20年(1945年)戦災により焼失。

奥院、八角の覆堂内部に祀られた宝塔(墓塔)。

◆③文昭院殿(6代将軍家宣)霊廟 拝殿内部 ※旧国宝

正徳3年(1713年)造営。昭和20年(1945年)戦災により焼失。

本霊廟は増上寺北廟の南半を占めていました。二天門から勅額門、中門を抜け、

渡廊を進むと、霊廟主要部である拝殿、相之間、本殿へ至ります。

◆④文昭院殿(6代将軍家宣)左右廊内部 ※旧国宝

正徳3年(1713年)造営。昭和20年(1945年)戦災により焼失。

第三の門である中門の左右に続く廊内部。中門の内に、拝殿、相之間、本殿より成る

権現造りの御霊屋(霊廟主要部)がありました。

◆⑤文昭院殿(6代将軍家宣)奥院 中門 ※旧国宝

正徳3年(1713年)造営。左奥から文昭院殿中門(現在の増上寺御霊屋入口)、

右手前が慎徳院殿(12代将軍家慶)中門。これより手前に昭徳院殿(14代将軍家茂)・

静寛院宮(家茂御正室和宮)中門へと続きます。

◆⑥文昭院殿(6代将軍家宣)鐘楼 ※旧国宝

正徳3年(1713年)造営。昭和20年(1945年)戦災により焼失。
勅額門から中門に至る参道の右に鐘楼、左に水盤舎が相対し配されていました。

◆⑦文昭院殿(6代将軍家宣)奥院 唐門 ※旧国宝

正徳3年(1713年)造営。昭和20年(1945年)戦災により焼失。

本殿横の仕切り門を出て西進すると、奥院前の石段へ至ります。

奥院は唐門、拝殿、一段上がって中門(現存)、宝塔(現存)が一直線に配されていました。

◆⑧有章院殿(7代将軍家継)霊廟 中門・左右廊内部 ※旧国宝

享保2年(1717年)造営。昭和20年(1945年)戦災により焼失。

有章院殿霊廟主要部(拝殿、相之間、本殿)の入口である、中門、左右廊内部より、

勅額門を望んだ写真です。

◆⑨有章院殿(7代将軍家継)勅額門 ※旧国宝

享保2年(1717年)造営。昭和20年(1945年)戦災により焼失。

勅額門左右の外透塀は、霊廟主要部の左右廊に至るまで百七間(約195m)に及びます。

外透塀奥には門内右手にある鐘楼が見えます。

◆⑩有章院殿(7代将軍家継)水盤舎および井戸屋形 ※旧国宝

享保2年(1717年)造営。昭和20年(1945年)戦災により焼失。

本霊廟は増上寺北廟に、文章院殿廟と並んで造営されました。勅額門を入ると右に鐘楼、

相対して左に水盤舎(写真左)、井戸屋形(写真右)がありました。

◆「江戸図屏風」に描かれた台徳院霊廟

  

◆江戸城無血開城について

小説、テレビドラマ、映画などでは、慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに勝利し、東進する新政府軍は江戸総攻撃を3月15日と決定します。予定されていた江戸城総攻撃の直前の

13日と14日に江戸薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟が会談し、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行った結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸

住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われたと・・・。

江戸城無血開城については西郷隆盛と勝海舟の二人がクローズアップされて、まるで我が国

を救った英雄のように描かれることが多いのですが、私は心情的にその危機を救ったのは

薩摩の出身で島津斉彬の養女であり、13代将軍徳川家定の正室として江戸城大奥の

総責任者であった天璋院(篤姫)と、明治天皇の叔母にあたり14代将軍徳川家茂の正室

静寛院宮(和宮)の二人だったと思っています。

嫁姑関係の静寛院宮と天璋院は共に夫たちは既になく、子もなく、和宮の兄・孝明天皇も

いませんでした。

 

かねてから大政奉還を奏上し、将軍職の辞退も願い出ていた15代将軍徳川慶喜も

朝敵と目されるようになると、それまで江戸には近づかなかった慶喜も、和宮と天璋院に

すがらざるを得ない状況となります。

家茂の没後、和宮は帰京のすすめを断って江戸に留まり、落飾して静寛院宮と称します。

静寛院宮は、東征大総督有栖川宮とかつて婚約者であり、かつ東海道鎮撫総督の

橋本実梁と従兄妹の間柄であったことから、大総督府首脳部との縁故がありました。

静寛院宮は慶喜の願いを聞き入れ、将軍慶喜の命乞いと徳川家の存続を願う嘆願書を

書いて、侍女の土御門藤子を使者として遣わしました。

また、家定の御台所であった天璋院も、いまや新政府軍の主戦力となっている薩摩の

出身であることを鑑み、徳川家の家名存続のために尽力しました。

 

同年4月9日には静寛院宮が清水邸に、10日には天璋院が一橋邸に退去します。

そして11日をもって江戸城は無血開城し、大総督府が接収、東征大総督有栖川宮が

21日江戸城へ入城し、正式に江戸城明け渡しが完了しました。

後日談として、慶喜は後年、静寛院宮の命日(9月2日)には必ず芝増上寺の静寛院宮の

お墓にお参りし、口ぐせのように「命の恩人だ」と云っていたことが、慶喜の息子(九男)の

嫁の話として伝わっています。

実際は、新政府軍をバックアップしていたイギリスの意向が働いたようですが、

徳川家に嫁に入った皇女和宮と篤姫、共に若くして夫が急死、同時期に身内の不幸が続き、孤独となった境遇も似た嫁姑が、最後に徳川家のために尽力したことに心が震えます。

 

<参考文献>

・増上寺公式ホームページ

・徳川将軍家墓所拝観記念のパンフレットおよび絵葉書

・現地説明看板

・ウィキペディア