新撰組探訪の京都編、最初は〝新撰組発祥の地〟である壬生を歩いたブログです

阪急電鉄大宮駅、京福電鉄四条大宮駅から歩いて約10分ほどのところに

新撰組ファンには必見の八木邸や旧前川邸、壬生寺、光縁寺、新徳寺などがあります

 

◆新撰組誕生について

幕末の文久2年(1862年)に庄内藩郷士・清河八郎の献策により、幕府が第14代将軍

徳川家茂の上洛に際して、将軍護衛の名目で募集した浪士組の結成が決定します。

翌、文久3年(1863年)2月、将軍家茂上洛にあたりその護衛の為に上洛した浪士達は

京都到着後に清河の裏切りにより、間もなく江戸に呼び戻されることになりました。

しかし、その中で八木家を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、

山南敬助、新見錦、原田左之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、

平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から分かれて京都残留を希望し、3月15日に

残留希望の浪士24名は新撰組の前身である「壬生浪士組」を結成しました。

壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、京都守護職の松平容保から主に不逞浪士の

取り締まりと市中警護を任され、ここに『新撰組』が誕生しました。

 

◆八木邸

京都市中京区壬生梛ノ宮町24

TEL:075-841-0751

営業時間:9時~17時(受付は16時30分まで)

拝観料:大人 1,000円(見学(ガイド付)と屯所餅・抹茶付)、中学・高校生 600円(見学のみ)

※建物内は撮影禁止

新撰組結成当時の屯所、八木源之丞邸は今も当時の面影を残し旧態をとどめています

当時の敷地は現在の数倍もあったと云われ、近藤、土方、芹澤ら13名が住んでいた

離れの建物はありませんが、母屋はほとんど当時のまま残っています

◆道端の入口に建つ新選組遺蹟の碑(左)と新選組屯所遺蹟の碑(右)

  

当時は十家程あった郷士の家も現在は四家しかなく、、当時の建物を大切に保存しています

現在の八木家は、御菓子司「京都鶴屋 鶴壽庵」として営業してしています

 

壬生は往古より湧水が豊富で、水質にも恵まれ、壬生菜、菜種、藍などの産地で

その藍で染めた水色は壬生の色でもあり、壬生狂言に使用する手拭いの色にも

古くから使われ、新撰組が着たお馴染みの羽織の段だら模様の水色は、この壬生の

色を使ったものだそうです

◆隊士腰掛の石

この石類は、以前新撰組の道場のあたりにあった石で、隊士達が腰を下ろし

休んでいたとのことです

 

◆新撰組発祥の地(八木家)

◆長屋門は文化元年(1804年)、主屋は文化6年(1809年)の造営

八木家右門柱に、『松平肥後守御領新撰組宿』と云う表札を掲げていました

◆八木家住宅

門を入ってすぐ右手が玄関で、昔の郷士の玄関構えをしのばせるのに十分な雰囲気です

八木家に葬式があったとき、近藤勇と芹澤鴨が机を並べて弔問客の受付をしたと云う

玄関がここのようです

  

文久3年9月18日(一説には16日)どしゃ降りの深夜、この母屋の一室で、

芹澤鴨、平山五郎ら4人が土方、沖田など同志たちに暗殺されました

奥座敷の入口の鴨居にはその時についたと云われる刀傷が残っており

当時をしのぶことができます

また芹澤がつまづいたと云う黒ずんだ文机も見ることができます

こうして芹沢鴨が死に、近藤勇を中心に新撰組のかたちが整うと、八木邸では手狭になり

道を隔てた東側の同じ壬生村の郷士・前川荘司の大きな屋敷を借り受けて、屯所と

することになりました

 

◆旧前川邸

京都市中京区壬生賀陽御所町49

現在も、当時の姿をほぼとどめると云われてます

隊士が増えてきたため、八木邸が手狭になったことからこの場所も屯所にしたようです

 

◆長屋門

旧前川邸は総敷地約430坪程で、長屋門のある堂々としたものです

この門前で原田左之助が楠小十郎を殺害したと伝えられています

現在は私有地となっており、生活の場でもあるため非公開となっています

土日祝日(10時~17時)のみ、玄関(隊士の行き来した当時の勝手口)で、

旧前川邸オリジナルグッズ他、新選組に関するグッズを販売しています

◆新撰組屯所 前川邸

芹沢派で最後まで残った野口健司が切腹した出格子窓の部屋、池田屋事件の前に

古高俊太郎が激しい拷問を受けた土像、総長・山南敬助が脱走の罪で切腹した八畳間

(前の晩、恋人の明里と別れを惜しんだ出窓は取り払われています)

◆坊城通りを挟み、左側が八木邸、右側が旧前川邸

現在、旧前川邸に裏口はありませんが、この裏口から隊士たちが八木邸へ

行き来きしていたようです

◆この板塀の向こうにある部屋で山南敬介が切腹しています(左)

駐車場の奥にある東の蔵で古高俊太郎が取り調べをうけたそうです(右)

平成29年3月12日(日)、旧前川邸で切腹した新撰組総長・山南敬助を偲んで

第11回山南忌が開催されます

  

◆文化5年(1808年)京都絵図

◆壬生周辺マップ

旧前川邸は角地で、その南隣に新徳寺が建っています

ここが文久3年(1863年)2月、江戸から上洛した浪士隊が本陣とした新徳寺です

◆新徳禅寺

京都市中京区壬生賀陽御所町48

◆新徳禅寺 本堂

浪士隊の首謀者・清河八郎が総勢234名全員を新徳寺に集め、尊王攘夷の大演説を行い

将軍警護の目的で上洛したのに、早々に江戸に戻るのはおかしいと清河らに反して

芹澤鴨、近藤勇ら13名は京都に残ることに決めました

その本堂は当時と変わらず残っていますが、内部は残念ながら非公開になっています

八木家のすぐ南側に新撰組ゆかりの〝壬生寺〟があります

◆壬生寺

京都市中京区壬生梛ノ宮町31

TEL:075-841-3381

寺伝によると正暦2年(991年)三井寺の快賢僧都により創建された律宗大本山の寺です

新撰組の屯所が八木家に置かれ、当寺境内は新撰組の兵法調練場に使われ、

武芸などの訓練が行われたと云います

◆壬生寺案内図

◆壬生寺

門をくぐって右手に壬生塚のある阿弥陀堂が建っています

かつては壬生寺境内は新撰組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が

行こなわれたと云います

◆壬生寺 境内

◆本堂

◆壬生寺 保育園

境内に保育園が併設されていますが、一番隊組長・沖田総司が境内で近所の子供達を

集めて遊んでいたと云う話は有名です

◆大念佛堂(狂言堂)

近藤勇をはじめ隊士が壬生狂言を観賞したり、新撰組が相撲興行を壬生寺で企画し

寺の放生池の魚やすっぼんを採って料理し、力士に振る舞ったと云う、面白い逸話も

当寺に残っているそうです

◆阿弥陀堂

壬生寺境内東方にある池の中の島は、壬生塚と呼ばれ、新撰組隊士の墓などがあります

◆壬生塚への入口

参拝時間:8時30分~16時30分

参拝・拝観料:大人 200円、小中高生 100円

※阿弥陀堂内は撮影禁止です

◆壬生塚案内図

◆壬生塚

新撰組局長・近藤 勇の胸像と遺髪塔、 新撰組屯所(八木家)で暗殺された局長・芹沢鴨と

平山五郎の墓、勘定方・河合耆三郎の墓の他、隊士7名の合祀墓があります

その合祀墓には池田屋騒動で亡くなった隊士・奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らも

葬られています

◆「あゝ、新撰組」歌碑

◆百度石

この百度石はかつて壬生寺の参道に建てられていました

側面に「車通るべからず」と刻まれ、当時車馬で境内への進入は禁止されて

いましたが、新撰組はこれを意に介せず、馬を乗り入れていました

◆新選組隊士慰霊塔

   

◆新選組顕彰碑

口を真一文字に引き結び、いかにも近藤勇らしい銅像が建っています

その隣には新撰組の羽織をデザインした絵馬が多数掛けられています

◆近藤勇胸像

◆壬生寺と新選組について

近藤勇銅像の左隣には、近藤の遺髪塔、その横には隊費出納の不始末から切腹を

申しつけられた河合のために遺族が建てた河合耆三郎の墓があります

◆河合耆三郎の墓(左側)、近藤勇遺髪塔(右側)

◆芹澤鴨と平山五郎の墓(左側)、隊士七名の墓(右側)

昭和42年頃に壬生塚に移転して保存が図られましたが、長年の風雪により老朽化や

心無い人により石が削られるなどして竿石が大きく破損したため、御影石で再建され

ましたが、以前とは趣が異なってしまいました

平成24年、芹澤・平山両名の150回忌に当たるのを機に建立当時の姿に忠実に復元

されました

阿比原栄三郎、田中伊織(新見錦?)、野口健司、奥沢栄助、安藤早太郎、

新田革左右衛門、葛山武八郎

  

八木邸の北側に和菓子屋さんがあり、新選組銘菓の広告がありました

  

◆光縁寺

京都市下京区綾小路通大宮西入 四条大宮町37

TEL: 075-811-0883

拝観時間:9時~17時

隊士の供養料:100円

満月山普照院光縁寺と称し慶長18年(1613年)頃に創建された浄土宗の寺で、

知恩院の末寺にあたります

本堂や山門は天明の大火で焼失し、文政2年(1819年)に本堂が再建され、山門は

弘化3年(1846年)に再建されて現在に至っています

山南敬介を含む新撰組隊士たちもこの山門をくぐり本堂で手を合わせたのでしょうか・・・

門前に「新選組之墓」の碑が建っています

門は閉まっていましたが、左側の小門から中に入り、庫裏で供養料の100円を納め

ると、山南敬介らのお墓参りができます

光縁寺の門前近くに新撰組の馬小屋があり、毎日、門前を隊士たちが往来し、その中に

副長の山南敬介もいました

山門を見上げれば、瓦に「丸に右離れ三つ葉立葵」の山南家と同じ家紋が目に入いり

当時の住職は良誉上人で年齢も山南と同じであったと云うことも親交を結ぶきっかけ

一つであったそうです

◆光縁寺 本堂

その山南の紹介で、屯所で切腹した隊士たち、三人目には山南自身、その後多くの隊士たち

関係者が良誉上人に弔われ、埋葬されることになりました

◆新撰組の墓案内図

新撰組関係者の墓が4基並んで建っています

最奥の一段高い所には比較的新しい沖田氏縁者の墓が建っています

◆沖田総司の縁者の墓

ご住職の話では、沖田総司の縁者の墓は山南敬助の恋人の明里ではないかと

云われてるそうです

その左隣は、総長の山南敬助ら5名の合同墓があります

山南は剣の腕も立ち、学も人望もありましたが、慶応元年、新撰組の現状を憂い、

脱走を図り、旧前川邸で切腹しました

◆山南敬助ら5名の墓

正面には山南敬助藤原知信墓、側面に河合耆三郎、柴田彦三郎、施山多喜人、

石川三郎と刻まれ、かなり老朽化が進んでいるようです

その左隣が大石造酒造の墓で、彼自身は隊士ではありませんが、祇園で新撰組の

今井裕二郎に惨殺されました

兄の隊士・大石鍬次郎の繋がりでここに葬られたのでしょうか

◆大石造酒蔵源守仲の墓

その左隣は松原忠司、桜井勇之進、田内知ら12名の合同墓

◆松原忠司ら12名の墓

正面に松原忠司、桜井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉、田内知

右側面に田中寅三、加藤羆、左側面に矢口健一郎、佐野七五三之助、中村五郎、

茨木司、富川十郎の名が刻まれています

また、御陵衛士として新撰組から袂を分かった後、暗殺された伊東甲子太郎や藤堂平助、

服部武雄、毛内有之助などの墓もここにありましたが、後に戒光寺に改葬されました

  

◆鬼瓦

◆御朱印

島原から壬生へ向かう途中、「京都新選組町作りの会」の看板を掲げた

事務所がありました

 

  

「京都新選組町作りの会」から壬生エリアの新撰組スポットマップが掲示されていました

<参考文献>

・京都観光Navi オフィシャルサイト

・壬生屯所旧跡 八木家公式ホームページ

・新選組屯所 旧前川邸公式サイト

・壬生寺公式ホームページ

・光縁寺公式ホームページ

・現地説明看板およびパンフレットなど

・新選組異聞 池波正太郎

・ウィキペディア