今回は新撰組と深い関わりのあった元幕府御典医の松本良順(明治以降は順)の

史跡を廻り、神奈川県大磯町へ行って来ました。
旧鎌倉街道に沿う妙大寺には、大磯に海水浴場を開いた「松本順(明治以前は良順)」の

墓があります。

 

松本順が大磯に別荘を構えたのは明治19年(1886年)~20年頃と云われています。

大磯駅の北側にある羽白山の麓、妙大寺の西側一帯から御嶽神社の間辺りにかけて

松本の功績を讃えて町民から贈られた土地で、ここに別荘を建て、晩年を過ごしています。

明治40年(1907年)3月12日大磯の邸宅にて満74歳で死去、17日妙大寺にて葬儀が行われ

鴫立庵に埋葬されました。昭和29年(1954年)に遺骨を妙大寺に改葬されました。

 

この顔に見覚えがあるかもしれません。

日本医薬品製造社製の征露丸のロゴマークに使われています。

◆松本順(明治以前は良順)

◆妙大寺

神奈川県中郡大磯町東小磯19

妙大寺は、老松の下に静かに眠る大磯海水浴場を開設した「松本順」の

墓があることで知られています。


◆妙大寺 山門


◆松本順墓所

墓石には、「従三位勲一等男爵松本順先生墓」と刻まれています。

正三位勲一等子爵林薫謹書とあり、実弟「林薫」の書によります。


◆松本順先生の墓誌


◆林薫

佐倉藩藩医佐藤泰然の五男として生まれ、初代陸軍軍医総監・男爵の松本良順は実兄。

慶応4年、幕府滅亡後は縁戚の榎本武揚率いる脱走艦隊に身を投じ、

箱館戦争時には佐藤東三郎と名乗り、翌明治2年(1869年)の敗戦後捕らえられ、

明治3年(1870年)に釈放されます。
その後、政治家として外務大臣を務めます。伯爵。

 

◆御嶽神社

神奈川県中郡大磯町東小磯1006

祭神は、日本武尊、彦狭知尊、手置帆負尊

御嶽神社は「おみたけさん」と呼ばれ、大磯町東小磯の鎮守の神様

◆御嶽神社 一の鳥居

◆御嶽神社 二の鳥居

◆御嶽神社 拝殿

<松本良順と新撰組との関係>

文久4年(1864年)江戸に来ていた新撰組の近藤勇が松本良順を訪ねています。

3日後には胃腸の調子がすぐれず松本の診察を受け、神経性胃炎で消化不良を

起こしているという診断をされ、薬を処方されています。

 

慶応元年(1865年)には西本願寺に屯所を移していた新撰組を松本が訪ね、

「泣く子もだまる新撰組」が病人だらけなのに驚いたそうです。

浴場を設けて体を洗うことや、厨房や洗濯場を別にして、不潔な食べ物や衣服を

与えないことが大事だと説きました。

松本が近藤勇としばらく一杯やりながら歓談していると、 土方歳三 がやってきて

松本の指示どおりに病室をしつらえたというのです。

指示したとおりに見事に浴場も台所も整えられており、松本は大変驚いたそうです。

それから松本は週2回、新撰組に往診に出かけるようになりました。


大坂から軍艦に分乗して江戸に戻った新撰組一同は品川の旅宿釜屋で落ち合い、

近藤勇は狙撃された右肩の治療を受けるために、結核が悪化した沖田を伴って

徳川家典医頭松本良順が頭取を務める医学所(神田和泉橋、東大医学部の前身)

で治療を受けました。

徳川家の病院は(蘭型=医学所、漢方=医学館)の2ヶ所でありましたが、

当時の漢方には十分な銃創療法がなく、外科もまた洋式でした。
そのために近藤は医学所で治療を受けることとなり、軽傷者は医学館へ回されました。

江戸帰還隊士の総員は117名、可動隊士は釜屋に宿泊する63人で、実に負傷者は

54人と半数近くに及んでいます。

その内訳は横浜負傷病院22人、医学所3人医学館29人、医学所の3人が、

近藤、沖田、山口次郎(斎藤一)でした。

 

◆神田和泉橋の医学所跡

近藤勇改め大久保大和守は旧新撰組勢力を中心とした鎮撫隊を結成しましたが

兵員数が不足し、兵の補充にかなり難航したようでしたが、松本良順の尽力で

ようやく浅草弾左衛門の配下を足した約200名の陣容を揃え、甲陽鎮撫隊として

甲府へ向かいました。しかし、3月6日甲州市勝沼町において勃発した甲州勝沼の

戦いで新政府軍に敗れて敗走しました。

江戸本所 大久保主膳正屋敷に戻ったのは永倉・原田以下わずかに十名で

近藤も土方も顔を見せず、「会津へ行って戦う」と云うことになり、

永倉は松本良順を今戸八幡の屋敷にたずねて、軍用金三百両を借り受けました。

また、松本から「近藤が医学所へ帰って来たよ」と知らせてくれたので、

3月11日神田和泉橋医学所において近藤と永倉、原田らは面会をしましたが

方針の違いから永倉新八 、原田左之助らが離脱して靖兵隊を結成します。

近藤、土方らは隊を再編成し、旧幕府歩兵らを五兵衛新田の名主・金子家で

募集したのは、松本良順の手配によるものだったとも云われてます。

 

◆五兵衛新田 金子家

永倉新八の「同志連名記」によりますと、江戸に引き上げた時、沖田総司の肺の病は

かなり進んでおり、神田和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていましたが、

薩長軍の江戸入りに際して、沖田総司を含む患者たちは浅草今戸八幡に収容されたと

伝えられています。

松本良順は今戸八幡(今戸八幡は現在、今戸神社と改称)に寓居して患者の治療にあたり
沖田総司は松本良順宅で療養したと云われています。

 

◆今戸神社

慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では、左足の甲に粉砕骨折を起こしていた

土方歳三の手術をしたという記録もあります。

 

松本は会津から庄内、仙台へと入り、義理の甥(良順の姉の娘婿)の榎本武揚と合流し

榎本と土方は蝦夷へ向かいますが、「榎本は自信家であるがゆえに今回の挙

(蝦夷地への脱走)も成功は難しいだろう」と考え、榎本に蝦夷地渡航反対を

伝えていました。

また、松本は「江戸に戻る。江戸に洋方の大病院を作る。これからの医療を洋方に

改めねば死んでも死にきれない」と、土方歳三も「松本先生のような当代一流の御医者は、

こんな戦で死ぬべきではありません。我々とちがってこれからの日本国になくなては

ならない大事な御方です」と江戸への帰りを薦めたと云います。

 

戦後は一時投獄されましたが、明治4年(1871年)には大磯に別荘を構えた山県有朋の

要請により軍医頭に復帰し、松本順と名乗るようになりました。

※「松本順自伝・長与専斎自伝」平凡社

 

JR板橋駅前東口近くの寿徳寺境外墓地に建っている新選組慰霊碑は、永倉新八が

建立のために尽力したことで知られていますが、松本順(旧名は良順、後に男爵)の

支援を得て、藤田五郎(斎藤一)も明治9年1月に東京府知事へ杉村(永倉)とともに

墓碑建立願いを出しています。東京府知事へ建立願出書の写しに、

「幹事松本良順、同族方中倉、斎藤」と記載されています。

 

当時37歳の杉村は、浅草に住んで剣術を教えていましたが、一口に建立と云っても

東京府への建立申請、資金調達、死亡隊士の確認などさまざまな課題があります。

特に資金面が大変で、松本順の弟子によりましと「老境で、顔は皺だらけ」の杉村は、

「(松本順の娘婿)川口氏の門番をしながら先生の書を売り歩いていた。

・・・この書を売った金で新撰組の近藤勇や土方歳三の墓を建てたものである。

『あの爺さんが昔暴れ廻って人を斬った人かなあ』などと、大いに感心したものであった」

※「蘭学全盛時代蘭疇の生涯」から

また、新撰組の後援者だった佐藤俊正(旧名は彦五郎)らも寄付を行い

佐藤俊正は松本順宛ての手紙に「杉村、切に尽力」と記しています。

 

◆寿徳寺境外墓地の新選組慰霊碑(東京都北区滝野川)

◆殉節両雄之碑(東京都日野市)

土方の菩提寺である高幡不動尊境内に明治21年に建立された、近藤・土方の顕彰碑

篆書は旧会津藩主松平容保、撰文は旧仙台藩の儒者大槻磐渓、書は旧幕府典医頭松本良順。

明治18年(1885年)には、初代陸軍軍医総監を務めた松本順が、西洋医学における

先端医療のひとつとして、「海水浴」を推奨し、照ヶ崎海岸に海水浴場が開設されました。 

また2年後には、東海道線が開通、大磯駅が開業しました。

当初は平塚から国府津までの間に駅は必要ない、という計画でしたが、

松本順が当時の初代内閣総理大臣伊藤博文に相談し、大磯駅が誕生しました。

初代内閣総理大臣である伊藤博文をはじめ、歴代総理大臣8人(伊藤博文、大隈重信、

加藤高明、西園寺公望、寺内正毅、原敬、山縣有朋、吉田茂)などが居を構え、

政財界の重鎮たちの別荘が数多く建築され、保養地としての大磯の名が全国に広まりました。


◆JR大磯駅前の「大磯町観光マップ」

大磯駅前ロータリーに、江戸時代に大磯に居住し、出家した俳人の崇雪が

建てた碑にある「著盡湘南清絶地」と刻まれた碑が建っていました。
文字は大磯に居住の日本画家の堀文子氏の書です。


また、その横には、明治41年日本新聞社が実施した「避暑地ランキング」で

2位の軽井沢を抑えて第1位となり「海内第一避暑地」の碑が建てられました。


国道1号線の「照ヶ崎海岸入口」交差点から海岸へ入る入口に碑が建っています。

「大磯照ヶ崎海水浴場の碑」は、大磯に別荘を構えた海軍・陸軍軍人、

政治家の樺山資紀氏の書です。大正4年5月に建てられました。
  

大磯海水浴場の開祖、元陸軍軍医総監松本順氏の功績を永く伝えるために

昭和4年(1929年)8月に「松本先生謝恩碑」を建立しました。

 

◆松本先生謝恩碑

銘文は時の総理大臣 犬飼毅の筆によります。

※松本順の早稲田の自宅兼病院(蘭疇舎)を犬飼毅に譲ったと云う縁があります。

松本順は、大磯に日本初の海水浴場を開設し、寂れていた大磯を別荘地帯として

新しく生まれ変わらせた大磯の大恩人です。

名物虎子饅頭を持って東京の名士に会ったり、海水浴場の演目を歌舞伎に取り入れ

大磯海水浴場を宣伝したりと名プロデューサーでもあったと云います。

◆海水浴場発祥の地

◆現在の照ヶ崎海岸


◆現在の照ヶ崎海岸

◆松本良順

天保3(1832)年に江戸麻布で佐倉藩藩医佐藤泰然の次男として生まれます。

父泰然は佐倉順天堂の始祖です。幕府奥医師松本良甫の養子となり、幕府に出仕します。

オランダの軍医ポンペに西洋医学を学び、奥医師、医学所頭取、将軍侍医、

幕府陸軍軍医、大日本帝国陸軍軍医総監(初代)、貴族院勅撰議員などを務めました。

明治4年(1871年)に従五位に叙せられた後、「順」に改名しました 号は蘭疇。

外務大臣の林董は実弟になります。


<略歴>

・天保3(1832)年6月16日 江戸麻布(東京都港区)に生まれる

・嘉永1(1848)年 佐倉藩で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設していた父佐藤泰然の

 元へ行き、助手を勤める

・嘉永2(1849)年 松本良甫の養子となる

・嘉永3(1850)年 長男銈太郎誕生

・安政4(1857)年閏5月18日 長崎伝習之御用を命じられ、長崎海軍伝習所に赴く

 オランダ軍軍医のポンペに医学等の蘭学を学ぶ

・文久2(1862)年閏8月8日 奥詰医師となり、医学所頭取助を兼ねる

・文久3(1863)年12月26日 奥医師に進み、医学所頭取となる

・元治1年(1864)年5月9日 法眼に叙せらる

・元治1年8月15日 奥医師に再任され将軍侍医などを務め将軍徳川家茂などの治療を行う

・会津藩の下で京都の治安維持のために活動していた新撰組の局長である近藤勇とも

 親交があり、隊士の診療も行う

・慶応2(1866)年夏 第2次長州征伐のため、大坂に出陣していた家茂の病状が悪化、

 常に近侍するように求められ、当人も不眠で治療にあたることでその信頼に応えたが、

 その甲斐なく7月20日に死去した

・慶応4(1868)年の戊辰戦争では歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩

 同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した

 戦後一時投獄されるが赦免される

・明治3(1870)年 早稲田に蘭疇舎を設立する

・明治4(1871)年 山縣有朋などの薦めで兵部省に出仕

・明治6(1873)年 大日本帝国陸軍軍医総監となる

・明治23(1890)年9月29日 貴族院議員に勅選される

・明治35(1902)年4月1日 退役

・明治38(1905)年3月2日 男爵の爵位を受ける

・明治40(1907)年3月12日 大磯の邸宅において心臓病のため死去

 

<参考文献>

・大磯町観光協会オフィシャルホームページ

・大磯町ホームページ

・新撰組敗走記 池波正太郎

・土方歳三 相川司

・ウィキペディア