今から1100年前の東国は〝坂東〟と呼ばれる未開拓の地でした
その荒地の開拓に農民たちと取り組んだのが平将門であったと伝えられています
将門は、馬牧の経営と製鉄による農具の開発などに取り組み
荒地の開拓を容易にしました
そうした進捗性が一族との争いを生み、その争いが国家権力との争いに発展し
豊かな郷土実現を間近にして敗れてしまいました
将門伝説には、その夢の実現を見ずに散ってしまった悲劇性と庶民の願望が
今日まで語り継がれています
(坂東市観光協会HPから)
その将門伝説の一つ〝将門の胴塚〟で有名な延命院を廻って来ました
当初、延命院と延命寺を勘違いしていましたが、どちらも将門の史跡だと知りました
延命院は坂東市神田山地区の菅生沼を臨む東側台地にあり、
平将門の胴塚があることから〝将門山〟と呼ばれています
◆神田山如意輪寺延命院
延命院の駐車場に車を止めて、境内をぐるりと眺めると
左手前にやすらぎ地蔵尊、左奥の赤い屋根が観音堂、右側に不動堂が
ありますが、〝将門の胴塚〟が何処にあるのか、境内マップなどないので
宝永7年(1710年)に建立され、堂内の聖観音立像は伝教大師の作と伝えられています
◆不動堂
延命院の御本尊は延命地蔵菩薩で、本堂は昭和39年に不審火で焼失しました
観音堂の奥に行きますと「将門公胴塚」の案内看板がありました
境内には幾つもの碑が建っています
◆延命院の将門山(神田山)説明文
不動堂の裏に大きなカヤの木の根元に円墳があります
この塚を〝将門山〟または〝神田山〟と称しています
将門の胴塚の西側には、昭和50年に東京都大手町の将門首塚から移された
「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられています
将門の首塚を供養した石塔婆が、ここ延命院の胴塚に移動されたと云うことは
胴に首が戻ったと考えていいのではないでしょうか
◆石塔婆
◆顕彰碑
将門は、天慶3年(940年)2月14日の合戦を迎えて、石井の北山に最後の布陣をします
最初は風上に立って優位な戦いでしたが、急に風向きが変わり、
正面から突風を受ける立場になったとき、敵の矢を受けて倒れました
その首は藤原秀郷によって京都に送られ、東市にさらされたと云われてます
一方、残された将門の遺体を、弟の平将頼らによって ひそかに神田山の延命院境内に
葬ったのが、この胴塚と伝えられています
この地は、相馬御厨の神領だったことからあばかれることなく
今におよんでいると云われてます
<参考文献>
・國王神社ホームページ
・坂東市観光協会ホームページ
・ウィキペディア
平将門の首塚ブログ (2015年10月30日)