幕末の大きな時代の流れの中で戊辰に散った白虎隊の霊が眠る会津・飯盛山

会津と云えば白虎隊と鶴ヶ城が有名ですが、白虎隊のお墓がある飯盛山へ行きました

参道の両側には土産物屋がずらりと並んでいます

<飯盛山>

福島県会津若松市一箕町八幡弁天下

会津若松市の中心部から少し東側にある標高314mのご飯を盛ったような形の山です


「白虎隊十九士の墓」・「自刃の地」は飯盛山の中腹にありますが

行き方は3つのコースがあります

1.動く坂道の「スロープコンベア」に乗るコース ※こちらは有料です

2.上記横の階段を登るコース

3.厳島神社の参道からさざえ堂を歩いて行くコース

私たちは、上記3.の飯盛山案内図にある楽な参拝順路で向かいました

参道の階段を登らずに右側の白虎隊記念館の前を通って進みました

<酒井峰治と愛犬クマの銅像>
 
<酒井峰治>

酒井峰治は白虎隊の一人で明治以後も生き残りました

彼が生きている間は彼が白虎隊士であったことなど知られていませんでした

しかし平成5年(1993年)に酒井家の仏壇の中から峰治が明治時代に書き記した

『戊辰戦争実歴談』が発見されたため有名になりました

この「戊辰戦争実歴談」によると白虎隊は豪雨と疲労の中で戦い、峰治は敗走中に

仲間とはぐれてしまいます
峰治は自刃を覚悟しますがその時、奇跡的に愛犬のクマと出会います

「余の傍らを過ぐるあり よく顧みれば、愛犬クマなり
すなわち声をあげてその名を呼べば、とどまりて余の面を仰ぎみるや、

疾駆して来たりて飛びつき、歓喜に堪えざるの状あり
余もまた帳然として涙なきにあたわず」(酒井の手記から)
愛犬クマと出会ったことで生きる決意をした峰治は鶴ヶ城に入城、その後生き残りました


<太夫桜>

高さ13m、周囲5.5m、えどひがんざくらで、石部桜と共に会津の二大老樹の一つ

寛永3年(1626年)、蒲生忠郷公在城の頃、若松城下の堀江町にいた、いつき太夫と

云う名妓が、花見のおり、この辺りで兇徒のために殺害されました

弟の南秀と云う法師が、霊を弔うために墓側に植えられた桜で、その樹は既に枯れ、

現在の樹は二代目と伝えられています

(現地説明看板から)

現在の玄関口である新参道の石段ができる前はこの坂道が参道でした
鳥居を二つくぐると厳島神社があります

旧参道の一つ目の鳥居の手前左側に建つ小さなお社です

<霊牛神堂>


厳島神社、二つ目の朱色の鳥居

朱色の鳥居の右側に子育地蔵尊があります

鳥居の左側には琵琶を持ったお地蔵様が・・・、弁才天でしょうか?

先ほどから色々な石碑が建っていましたが何の碑なのか

スルーをして歩いて来ました

厳島神社は、永徳年間(1381~1384)に建立され、かつては宗像神社と云い、

明治の神仏分離令で厳島神社と改められました

祭神の市杵島姫命(いちきしまひめ)は弁才天と習合していた事から、

神社のある飯盛山は別名を弁天山と云われてます

<厳島神社>

<戸ノ口堰洞穴>

もともと猪苗代湖の水を灌漑用水として会津地方に引くために作られました
現在も農業はもとより、工業用水にも使われている重要な水利です
白虎隊が戸ノ口原の戦いに破れ、この洞穴をくぐり抜けて飯盛山に

たどり着いたことで有名です

白虎隊士中二番隊20名が、雨の降りしきる夜に疲れ傷つきながら

くぐりぬけた洞穴です

<現地説明看板>

戸ノ口堰洞穴の左側にある「戸ノ口堰水神社」

<さざえ堂>

「さざえ堂」の通称があり、高さ約16.5m、初層直径約6.3mの六角三層のお堂です

不思議な二重構造のらせん階段を体験でき、参拝者はこのお堂をお参りすることで

三十三観音参りができると云われていました


「福聚海」の扁額

さざえ堂の入口横には建立した郁堂禅師の座像があります

登り降りは階段ではなくスロープになっています

しかも一方通行です

最上階部分です

出口横には飯盛山正宗寺開祖の残夢大禅師の座像があります

<さざえ堂> ※国指定文化財

正しくは『円通三匝堂(えんつうさんそうどう)』と云い、寛政8年(1796年)に

飯盛一族の先祖である飯盛山正宗寺第12世郁堂和尚によって建立され、

西国三十三観音菩薩を安置した六角三層の観音堂です
その形が さざえの殻に似ていることから俗に『さざえ堂』と呼ばれ、階段のない

螺旋通路で上り下りができ、上りの人と下りの人がすれ違うことなく一方通行で巡れる

世界にも例のない建築で、国の重要文化財に指定されています

仏像は明治の神仏分離令で撤去され、今は皇朝二十四孝(会津藩道徳教科書)の

絵顔【三匝堂】が掲げられてあります

拝観料:大人400円, 大・高生300円, 中・小生200円

<供養車>

宇賀神堂の右側にある供養車です

車を手前に回すと悲痛な音が響き、これが冥途にとどいて白虎隊士の霊魂を慰めます
台座は中国の伝説上の動物「獏」で、夢を食べることから
頭に上ると悪夢消滅の願いを叶えると云われてます

<宇賀神堂>

さざえ堂の隣には五穀豊穣の神である宇賀神をお祭りする宇賀神堂があります
厳島神社の傍社として寛文年間(1661~1677)に建立されました


内部には明治23年に作られた白虎隊十九士の霊像が安置されています
唯一蘇生した飯沼貞吉少年を含む二十名の白虎隊士が飯盛山で自刃しました

<稲荷大明神>

<水塚、花塚、茶筌(ちゃせん)塚>

さざえ堂の西手に3つの碑があり、左より水塚、花塚、茶筌塚と云います
明治26年に会津の茶道、花道の功労者である山口儀平翁と
当時会津第一の学者であった宮城盛至翁によって建立されました
天地自然の恩恵に対し深い感謝の意をあらわされたものです

旧参道を進んでいます

この先から会津若松市街を見晴らすことができます

標識矢印の先に若松城(鶴ヶ城)が見えますが、わかりますか?

赤い円の中心に若松城(鶴ヶ城)が見えます

階段を登りきると「白虎隊十九士の墓」がある広場に出ます

奥に見えるのが「白虎隊十九士の墓」です

正面の右に見えるのがイタリアから贈られた石碑です

<ドイツ記念碑>

白虎隊士の行動に感動したドイツ大使館付武官ハッソウ・フォン・エッドルフ大佐から、

白虎隊精神を賛美して昭和10年に寄贈されました

石碑にはナチスのマークとドイツ語で『会津の若き少年武士に贈る』と刻まれています

<イタリー記念碑>
1928年に、白虎隊士をたたえてローマ市民からとして、当時のイタリアの首相ムッソリーニ

から『白虎隊とイタリアのファシスタ党とは、一脈相通じるものがある。』と贈られた石碑です

大きなこの石碑は、赤色花崗岩の古代円柱で、その上部には右足に鉞を持った青銅の鷲が

羽を広げています

その碑文には『文明の母なるローマは白虎隊士勇士の遺烈に不屈の敬意を捧げんがため、

古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリを飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を

贈る。』と記され、また裏面には『武士道の精華に捧ぐ、ローマ元老院と市民より』と刻されています
この碑の中心の円柱は、79年のヴェスヴィオ火山の爆発で埋没したポンペイから発掘した

古代ローマ宮殿の柱です

<白虎隊士の墓>

正面の墓は、明治元年(1868年)の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓です

8月23日(新暦)10月8日自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていました

約3ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後この自刃地に改葬されました

現在の形に十九士の墓が建てられたのは明治23年で、二度にわたり墓域が拡張されました

激しく壮絶な生涯を遂げた白虎隊士ですが、今はここ飯盛山で、鶴ヶ城に向かい

安らかに眠っています

(現地説明看板から)

慶応4年(1868年)正月3日、鳥羽伏見の敗戦によって会津藩はこれまでの

軍事的欠陥をさとり、3月10日改めて軍隊の編成替えをおこないました
そこで誕生したのが、中国の四方(東西南北)の武神の名のもとに、

『玄武隊』『青龍隊』『朱雀隊』『白虎隊』の4隊でした

それぞれの隊は年齢によって編成され、更に各隊は身分階級によって、

『士中』『寄合』『足軽』の3隊に分けられ、白虎隊は総勢343名(現在の推定)でした

そのうち戸ノ口原十六橋に向かったのは、白虎隊士中二番隊の37名でした

そしてその中の17名は無事に入城しましたが、20名は飯盛山で自刃をされ、

1人蘇生された飯沼少年を除いた19士の墓となります

右側の墓は、会津の各地で戦い、亡くなった白虎隊士 31名の墓です

左側の碑は白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い

戦死した会津藩少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑です

<少年武士慰霊碑>

<松平容保公弔歌の碑>
戊辰戦役当時自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し

九代藩主松平容保公が次の弔歌を詠まれた
「幾人の涙は石にそそぐとも その名は世々に朽しとぞ思う」

(現地説明看板から)

白虎隊士の墓の裏側に「白虎隊士 遠藤嘉竜二墓碑参道」の碑を見つけ

足元が良くない斜面を降りて行きました

<遠藤嘉竜二墓碑>

遠藤嘉竜二は遠藤敬二の弟で白虎隊に属し、会津郊外熊倉における

戦闘で戦死しました

遠藤嘉竜二墓碑のすぐ近くに碑が建っていましたが、白虎隊と云う文字は

わかりましたが、文字がわからず何の碑かは不明でした

<遠藤敬止>

幕末の会津藩士で、遠藤清直の長男として江戸に生まれ、幕府の開成所に学んだ後、

鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争の際には会津軍として歴戦し、鶴ヶ城の籠城戦に加わり、

のち敗れて江戸にて謹慎生活を送りました

独学で英学を修め、慶應義塾に入って経済学を学びました

渋沢栄一に見出されて第一国立銀行勤務後、第七十七国立銀行頭取となり、仙台商業

会議所会頭ほか、会津銀行設立や学校の創立など多くの事業を支援します

明治23年(1890年)に鶴ヶ城の払下げが決定すると、募金を集めて私財を投げ打って

2,500円で鶴ヶ城は払下げられ、旧藩主松平家に寄贈しました


<飯沼貞雄翁の墓>

飯盛山に引き上げた白虎隊20名の中でただ一人生き残ったのが飯沼貞吉でした

貞吉は、生き残ってしまった自分を責めて、この会津の地から離れ二度と会津に

戻ることはありませんでしたが、戊辰戦争・白虎隊の自刃に至るまでの詳細を

貞吉が語ったことで、飯盛山で自刃された白虎隊の物語が世に知られることとなったのです

生前多くを語らなかったと言われる貞吉ですが、貞吉たっての希望で戊辰戦争90年祭の

昭和32年に彼らが自刃した場所と自刃を遂げた19名の墓の間に髪の毛と爪(抜け歯)が

納められました

尚、貞吉は後に貞雄と改名しているので墓石は貞雄とされています

(飯盛分店HPから)


白虎隊記念館の前にある、飯沼貞吉少年についての説明看板

<白虎隊自刃の地>

戊辰戦争のおり、会津藩では藩士子弟の少年たちで構成された白虎隊(16~17歳)と

呼ばれる部隊が結成され抗戦しますが、そのうち白虎士中二番隊20人が戸ノ口原の戦で

敗走し、滝沢峠の間道を通り、戸ノ口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、

城に戻り戦うか敵の側面を付いて反撃するか等の議論の末、敵に生け捕られることを

避けるべく一同は自刃した地です

「白虎隊自刃の地」に建っている説明看板

白虎隊士が自刃した地から鶴ヶ城を望む

<白虎隊記念館>

入館料:大人 400円、高校生 300円、小中学生 200円

休館日:年中無休

開館時間:8:00~17:00(4~11月)、9:00~16:00(12~3月)


戊辰戦争を中心とした会津藩、応援の藩・来援の隊、西軍関係の史料約12,000点が

展示されていました

新撰組関係の史料は、近藤勇の鉢がね、島田魁の袖章などがありました

土方歳三の史料は土方家に戻されたとのことでした

<白虎隊記念館 白虎隊士像>


白虎隊記念館に陳列されている史料について

※館内は撮影禁止でした

飯盛山は、見るところがたくさんあり、時間がいくらあっても足りませんが

見れば見るほど心が切なくなります

飯沼貞吉少年は一人生き残ったことで自分を責め、故郷会津を離れ二度と会津に

戻りませんでした、自分に対して戻れなかったのではないかと思います

また、酒井峰治も生き残り、その後、白虎隊士であったことを隠し、

生前に戊辰戦争について語ることはなかったと云います

いかにも少年時代の心の傷が大きく、その後の人生を心の傷を引きずり

生きてきたかと思うと、想像を絶します

お二人共、第二次世界大戦の前に他界されましたが、もし、戦争を生き抜き、

日本の無条件降伏をどのように感じたでしょうか?